(旧約聖書)ネヘミヤ記
8章1節~3節、5節~6節
8節~10節 (新約聖書)コリントの信徒への手紙(一)
12章12節~31節a
(新約聖書)ルカによる福音書
4章14節~21節
「 イエスの宣教 」
浅野 直樹 牧師
今日の日課から、ルカによる福音書ではよう
やく本格的なイエスさまの宣教の記事がはじまっ
ていくことになります。
宣教の言葉といえば、有名な「時は満ち、神
の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
という言葉があります。いわゆる「神の国」宣
教、です。神の国の到来を告げる。ここにイエ
スさまの宣教の要約が示されています。しかし、
ルカにはそのことが記されていません。むしろ、
ルカとしては、その宣教の結果としての、「評判」
が広まり、人々から「尊敬」を受けたことの方
に重点が置かれている、とも言われています。
しかし、ルカ独自の方法で、この「神の国」
宣教が述べられているようにも思うのです。そ
れが、イザヤ書の朗読に続いてのこの宣言です。
21節、「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、
今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』
と話し始められた。」とあるからです。つまり、
ルカとしては、あのイザヤ書の中に、神の国の
到来、実現を見ていたわけです。18節、「主の
霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を
告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれ
たからである。主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、目の見えない人に
視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に
し、主の恵みの年を告げるためである。」。ここ
にある「わたし」とはイエスさまのことです。
先ほど、それを宣言された。この言葉を耳にし
た時、それが実現した、と。
「貧しい人」に福音が告げ知らされ、「捕ら
われている人」が解放され、「目の見えない
人」が見えるようになり、「圧迫されている人」
が自由とされる、そんな世界、そんな社会。
そこにルカは神の国の到来、実現を見た。
そして、そのためにこそ、霊・聖霊に満たされ
たイエスさまがやって来られたのです。これ
からはじまるイエスさまの宣教の出来事、人
々を教え、諭し、病気を癒し、悪霊を追い出
し、罪人の友となり、誤った教えを論破し、
挙句人々に捨てられ、十字架に死んでいく、
そして、三日目に復活する、その全てが、神の
国の到来、実現のため。「貧しい人」「捕らわれ
ている人」「目の見えない人」「圧迫されてい
る人」が救われるため。それが、神の国宣教。
そのイエスさまの神の国宣教を引き継いで
いくのが教会、私たちキリスト者たちです。
では、その重い・重大な使命をどのように果
たしていったら良いのか。その一つの回答が
今日の日課にあったように思います。それが、
第一コリント12章12節以下、です。お分
かりのように、ここでパウロは教会を「キリ
ストの身体」として捉えています。教会を人
の身体として表現するのは、パウロの特徴で
す。では、そんな教会とはどんな特徴がある
のか。さまざまな器官から構成されている、
ということです。手、足、目、鼻、耳、色々
な器官で構成されている。しかし、それらは
同じ身体の一部、一つである、ということで
す。今風にいえば、多様性と一体性と言える
でしょうか。どちらか一方ではない。どちら
も、が身体の特徴。少なくとも、パウロはそ
う理解しているようです。だからこそ、先週
も学びましたが、全体の益となるために、
との目的意識も必要になるわけです。
多様性の中には、互いの違いのみならず、
優劣、といった意識も生まれる可能性があり
ます。自分はどうやら目や耳や鼻などの重要
な器官ではないようだから、役に立たない
存在ではないか、と。しかし、パウロはそ
うは言わない。たとえ役に立たないような
器官であろうと、身体を構成している以上
身体のためになっているわけです。そうで
なければ、身体とはいえない。ですから、
互いの違いから優劣を競うなんてことはナ
ンセンスです。もちろん、そういった視点
も重要だと思います。しかし、責任感の強
い人は、ひょっとしたら自分は目にも耳に
も鼻にも手にも足にもならなければならな
いのではないか。そうしないと、全体が、
身体が回らないのではないか。そんな心配
をしてしまうこともあるかもしれません。
牧師や役員さんなどは、こういった思いに
どちらかと言えば囚われやすいのかもしれ
ない。しかし、パウロはこれも違う、と
言っているようです。なんでもこなせるス
ーパーマンを教会は欲しているのではない。
むしろ、小さな存在の寄せ集めかもしれま
せんが、互いに協力することを大前提とし
ているのが教会なのではないか。無理に気
張って、そもそもなれもしないし、期待も
されていない耳や目になる必要はない。
その役割を担う人がいるはず。自分は自
分の器官の働きをこなせば、それで十分。
でも、それさえしなければ、機能不全を起
こして、身体全体が危機的状況になるわ
けです。しかし、果たしてこんな小さな教
会でそんないろいろな器官の人材など見つ
けられるのだろうか。結局は理想論であっ
て、現実には則していないのではないか。
そんな思いを持たれるかもしれない。それ
もよく分かる。小さな教会では無理して、
何でもかんでもこなさなければいけない面
も確かにある。その現実を無視できないの
も事実。しかし、よくよく考えてみてくだ
さい。「キリストの身体」とは私たちの教会
だけを指しているのでしょうか。もしそう
なら、イエスさまの身体とはなんとも見窄
らしい小人のような存在になってしまうは
ず。そうではないでしょう。距離的な問題
は確かにありますが、同じルーテルの仲間
がいます。もちろん、同じ身体です。いい
え、教派なんかも関係ないでしょう。イエ
スさまの身体とはそんなちっぽけではない
はず。もちろん、現実的には、まずは私た
ちの「この」教会です。この教会で協力し
合う。そうできたらいいね、ではなくて、
それが大前提。そうでなければ、この身体
は生きていけません。すぐにでも死んでし
まいます。そんな身体なのです。でも、「キ
リストの身体」は私たちだけでもない。
私たちの教会に残念ながら、目や耳を担
ってくれる人物がたとえいないとしても、
他の教会にはいてくれるはず。だから、教
会同士も「キリストの身体」として協力し
合う。しかも、教派を超えて。もちろん、
小さな教会だからといって、大きな教会に
助けてもらうばかりということではありま
せん。私たちの教会にだって全体の益とな
るための大切な器官があるはず。だから、
変に卑下するのも間違っている。堂々と、
同じ「キリストの身体」の部分なのだから。
ともかく、一人で、一部で、目立つ見栄え
の良い器官だけで、教会は動かすもので
はないのです。皆で、です。
そして、そんな皆で、の教会に与えられ
た使命が、先ほど言いましたように、イエ
スさまの福音宣教、神の国宣教を継続させ
ること、です。
人間にとっての最も大きな不幸は何か、
と言えば、希望を見失うことです。別の言
葉でいえば、神も仏もあるものか、です。
つまり、最後の砦さえも失われてしまうこ
と。最後の最後の頼みの綱である神さまか
らも見放されている、見捨てられている、
といった感覚。それが、人に、私たちに絶
望を与える。先ほどのイザヤ書に出てくる
「貧しい人」「捕らわれている人」「目の見
えない人」「圧迫されている人」もそうで
しょう。社会のせいなのか、身から出た錆
のせいなのかは分かりませんが、ユダヤの
人々にとっては、不幸とは神さまに見捨
てられた結果に他ならない、からです。
「祝福と呪い」。これが、旧約聖書の大前
提。神さまの戒め、御心にかなった生き方
をしたものには祝福が与えられるが、そう
ではないもの、戒めを破り、御心を蔑ろに
し、罪を犯す者には呪いが与えられる。そ
れは、非常に分かりやすい図式です。しか
し、これは逆算も可能となるわけです。つ
まり、現実の不幸は、お前が、親が、先祖
が原因なのだろう、と。お前の罪が、親の
過ちが、先祖の邪さが、お前を不幸にして
いるのだ、と。有名な生まれつきの目の
不自由な人の癒しの場面で、弟子たちが問
うた通りです。ヨハネ9章2節、「弟子た
ちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生
まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯
したからですか。本人ですか。それとも、
両親ですか。』」。これが社会の常識。本人
もそれを強く自覚している。だからこそ、
より辛いのです。それが単なる不幸ではな
くて、神さまに見捨てられた結果でもある
からです。しかし、イエスさまはそんな時
代は終わった、と宣言された。たとえそう
だとしても、不幸の原因があなた方自身に
あるとしても、たとえそれが罪の結果だと
しても、神さまはそれを放ってはおけなか
ったのだ。お前たちを救うために必死にな
っておられるのだ。神さまは決してお前た
ちをお見捨てにはなっておられない。見放
してはおられない。むしろ、そんなお前
たちの近くにいてくださる。そのために、
私がきた。そのために、私は遣わされた。
そんな神さまの御心を伝えるために、証言
するために、明らかにするために、私は来
たのだ。今や「貧しい人」「捕らわれてい
る人」「目の見えない人」「圧迫されている
人」は救われる。神の国が来たのだから。
神さまがお前たちの近くにおられるのだか
ら。だから、立ち返りなさい。見捨てられ
てはいない。だから、赦していただきなさ
い。希望を持ちなさい。それを伝えるため
に私はきた。その真実を証しするために、
私は病を癒し、悪霊を追い出している。そ
の神さまのご愛を遺憾無く悟らせるために、
私は十字架に死に復活する。だから、安心
していい。あなたは神さまに愛されている。
あなたのために、神さまの御国を来らせて
くださったのだ。…そう宣教してくださる。
言葉だけでなく、その行い、真実、命の全
てをもって。それを、その宣教の業を、私
たちも引き継ぐ。
私たちもまた、このイエスさまの宣教に
よって救われた者です。幸いにして、先に
イエスさまと出会えた者です。でも、その
仕方は、体験は、経験は、さまざま。それ
でいい。同じでなくていい。でも、私たち
は皆、この神さまのご愛によって希望を見
出すことができた。生きている時も、死ぬ
時も、またその先も。それは、同じ。それ
を、私たちも人々に伝える。ある者は目と
して、ある者は耳として、ある者は鼻とし
て、ある者は足として、ある者は手として
…。大きなことができる器官もあれば、目
立たない小さな小さなことしかできない器
官もある。それでいい。私たちは皆で同じ
イエスさまの身体なのだから。そのことを
もう一度心に刻んで、この新しい年度をは
じめていきたいと思います。