諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります。
★ 主日の祈り
永遠の神様。
あなたは弱い者を強くし、よろめく人を支えて
くださいます。
あなたの癒しと健やかな命の使者として、
世界の隅々にまで良き訪れを知らせるために、
私たちをお遣わしください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
(旧約聖書)申命記
18章15節~20節
(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一)
8章1節~13節
「 あの町にも 」
浅野 直樹 牧師
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
では、なぜ「伝道しよう」なのか。教勢を伸ばすためか。もちろん、そうです。正直なところ心配が尽きないからです。このままでは、10年後、20年後、30年後はどうなっているのだろうか? 教会は存続していけるのだろうか、と。ですから、当然何としてでも教会員を増やしていく、しかも次代を担っていく若い世代の人々を獲得していかなければならない、というのも正直な気持ちです。
もちろん、それだけではありません。一人でも多くのキリスト者が生まれるということは、この地上においても御国建設が進んでいくことになるからです。現代社会は惨憺たるものです。戦争や気候変動・環境問題などのグローバルなことにとどまりません。確かに物価高や貧富の差はあるにしろ、世界を見渡せばまだまだ経済的には恵まれている方でしょう。しかし、1000兆円を軽く超える途方もない負債を抱え、災害対策など問題が山積しているのに、自己保身ばかりを考えている議員たちのいかに多いことか。そんな人々が国の政策を決めているからでしょう。ますます弱者が報われない社会になっているように思う。人のちょっとした隙、弱みに漬け込んだ悪質で巧妙な詐欺は後を断ちませんし、闇バイトで若者たちをすり潰している大人たち、危険性に頓着せず薬物に溺れていく若者たち、本当にこの先どうなって行くのか、と途方に暮れるような思いを抱いているのは、私だけでしょうか。しかし同時に、私自身は反省しきりなのです。私たちキリスト者たちは、教会は、何をしてきたのか、と。確かに、伝道の難しい時代です。誰も聞く耳を持ってくれません。誘っても来てくれません。「宗教」という理由で煙たがられます。心が折れそうになるのも分かります。しかし、そんなことが理由で、やめては、怠ってては、いけなかったのです。人を救うのは、その人に信仰を与えるのは、人生を変えられるのは、神さまです。私たちが人を救うのでも、回心させるのでもない。でも、私たちに与えられた務めはあるはず。伝えること。告白すること。証すること。パウロも言っているように、「伝える人がいなければ、どうして聞くことが」(ロマ10:14)できるでしょうか。ですから、世間が、人々がどうであろうと、私たちには伝える責任があるのだと思うのです。
しかし、本当のところは、そんなごちゃごちゃとした難しい理由などいらないのかもしれません。私たちの主であられるイエスさまが伝道・宣教をなさったからです。ただ、それだけです。キリスト者とは「イエスさまの弟子」ということです。弟子であるならば、師であるイエスさまの後に続いていくことは、当たり前のことだからです。
今日の日課には、シモン・ペトロのしゅうとめを癒された出来事が記されていました。20節で「すぐに、一行は会堂を出て」というのですから、これは安息日になされたことです。先週の日課になりますが、この直前に起こった出来事として、安息日に会堂にいた悪霊にとりつかれていた人を癒されたことが記されていたからです。イエスさまの「権威」によって。ですので、少なくともこのマルコ福音書が記す癒しの物語の2例目ということになるわけです。確かに、これは癒しの物語に違いないのですが、この出来事は「特殊」と言えるのかもしれません。なぜなら、この時イエスさまに癒していただいたのは、単なる「熱」(風邪をひいていたのかわかりませんが)だったからです。ある方が言っているように、「福音書に書かれているなかで一番小さな、ささやかな癒しの奇跡」と言っても良いのかもしれません。おそらく、この後にも多くの人を癒されたと記されていますが、ここに連れてこられたのは重病人か重症者だったと思われるからです。前述のように悪霊にとりつかれていた人や、生まれながらに目の不自由だった人、耳が聞こえない人、足の不自由だった人、全身麻痺の人、てんかんの人、何十年も出血が止まらなかった人、すぐにでも死んでしまいそうな人、そういった人々がイエスさまの元に連れてこられて癒されていたからです。それに対して、たかが風邪によるいっときの熱、と言えるのかもしれない。しかし、この小さな奇跡、小さな癒しの業で、このペトロの家族にとっては十分だったのです。一説によると、この時癒されたしゅうとめは、これから後もイエスさまに仕えた、と言われていますし、あるいはこのしゅうとめの娘である、つまりシモン・ペトロの妻は後にキリスト者となり、ペトロの宣教旅行にもついていっていたようです。第一コリント9章5節に、「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファ(ペトロのことです)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」とある通りです。
ことの大小ではない。他の人と比べても、まことに小さな出来事に過ぎないのかもしれない。奇跡とさえ言えるようなものでもないのかもしれない。しかし、それでも、この家族は、イエスさまの救いの業を、癒しの業を、イエス・キリストという方を知ったのです。出会ったのです。それで、十分だった。誰が何と言おうと、その体験だけで、イエスさまの後に続いて行くのに、十分だった。
そして、夕方になると、町中の人々が「病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来」ました。つまり、安息日が終わったからでしょう。おそらく、日中の安息日に会堂でなさった奇跡の業の噂が瞬く間に広がったのだ、と思います。悩み疲れていた人々は藁にもすがる思いで、イエスさまの元に愛する家族を、友人を、近所の顔見知りの人々を連れて行ったのだと思う。そして、イエスさまは、会堂中の人々が驚いたその「権威」で一人一人を癒していかれました。まさに、幸せな一日でした。
イエスさまにとっても、居心地が良かったと思います。自分の弟子たちやその家族に囲まれ、丁重なもてなしを受け、やりがいのある仕事にも恵まれている。この場にずっといてもいいかな、と思われたのかもしれません。
対する弟子たちも、この幸いなる状態が続くのだと思っていたと思います。いいえ、続いてほしい、続けばいいのに、と思っていたのかもしれない。イエスさまがこの我が家にいてくださることほど心強いことはないからです。また何か困難が起こっても、即座にイエスさまが解決してくださるに違いない。もっと重い病に家族がかかったとしても、またすぐにでも癒してくださるに違いない。何と言っても、家族と一緒に、慣れ親しんできたこの家にいられる。周りの人たちからも感謝されるし、もう言う事ない。幸せだ。そう思っていたのかもしれません。そんな思いを表している言葉があります。37節、「見つけると、『みんなが捜しています』と言った。」。もちろん、イエスさまもずっとここにいてくださいますね、そんな思いが見えてくる。しかし、イエスさまはこう語られました。「イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」と。
たとえ小さくても、気心の知れた人たちがいる居心地の良いこの教会が好き。むしろ、新しい人が入ってくると、この輪が、居心地の良さが壊れてしまうから現状のままがいい。そんな言葉を時に聞く(この教会ではありませんが)。気持ちが分からなくもない。確かに、仲の良さ、居心地の良さ、安心感などの雰囲気は大事です。それらがないと、せっかく新たに来てくれたとしても、根付くことは難しくなるでしょう。だからといって、それが宣教を怠っていいことには当然ならないわけです。新しさが入ってくるということは、変化が生まれる、ということ。今までとは違ってきてしまう、ということ。もちろん、その中でも、居心地の良さなどに取り組むことは大切に違いないわけですが、宣教がなおざりになってしまっては本末転倒になってしまう。なぜなら、イエスさまがそうされたからです。自分の居心地の良さよりも、むしろ迫害されるかもしれない、それでも、宣教の使命を果たすことが重要だ、とされたからです。もちろん、私たちはイエスさまと全く同じことはできませんが、しかし、弟子であるならば、そんなイエスさまの背中から何かを学び取っていく必要があるのではないでしょうか。
イエスさまのことを、福音を知らない人々が多くいる。聞いたことのない人々も多くいる。この私たちの町にも。だから、イエスさまは「他の町や村へ行こう」と言われているのだと思います。
「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。どうぞ、弱い私たちを力づけてください。宣教の結果が必ずしも思うようにいかないことに気落ちしてしまうような私たちを助けてください。この町には、あなたのことを、イエスさまのことを知らない人々が多くおられます。福音を知らない人々も多くおられます。聞いたことのない人々も多くおられます。何よりも、この世を愛されるあなたご自身がそれらの人々に、救いの言葉を届けたいと願っておられます。私たちがここにいます。どうぞ、私たちを用いてください。たとえうまく話せなくても、教えることができなくても、伝えられなくても、私たちにも出来ることがあるはずです。知恵を与えてくださり、祈りを合わせつつ、皆で取り組んでいくことができますようにお導きください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」