今日の日課のテーマは、明らかに「赦し」・「赦すこと」にあると思います。この「赦し」ということを考える時、私は一つのことを思い出すのです。それは、コーリー・テン・ブームという人のことです。この方はオランダ人女性で、あの第二次大戦下で数奇な運命を送られた方です。そのことが、自伝的書物であります『わたしの隠れ場』に記されています。
私が、まだ教会に行き出した頃、14,5歳の時ですが、プレハブ小屋での開拓伝道というまことに小さな教会でしたが、その教会の決して多くない図書の中から何気なく手に取った、いわゆる生まれて最初に手にした「信仰書」でした。それを、家に持ち帰りまして、貪るように読んだことを覚えています。
時は第二次大戦下。この方はオランダで家族で時計店を営んでいたようですが、ナチス・ドイツに侵略された後も、ドイツから逃れてくるユダヤ人たちをかくまい、国外に逃す手助けをしていました。まさに、命懸けのことです。しかし、とうとう密告によって、そのことがバレてしまい、家族全員ナチスに捕えられ、強制収容所送りになります。そこでの生活はまさに過酷を極め、両親をはじめ、彼女の姉妹たちも次々と命を落としていったようです。彼女だけが、奇跡的に—―後に手続き上のミスだったと分かったようですが――その収容所から生きたまま出ることができました。
それから間もなくして、ドイツは戦争に敗れ、国土も焦土と化していたわけですが、なんと彼女は、そんなドイツ人たちに対して伝道しよう!と志を立て、各地を巡り歩いていったそうです。
しかし、反応は芳しくなかった。集会が終わっても、虚ろな瞳のままゾロゾロと出口に向かうだけ。そんな中、ある集会のとき、その流れに逆らうようにして一人の男性が近づいてきました。それは、彼女が捕えられていたあの強制収容所の看守の一人、しかも、最も恐れられていた看守の一人でした。彼女はすぐに、それに気づいた。まさに、血の気が引く思いでした。
その看守は彼女の前に立ち、こう言いました。「私は、今ではイエス・キリストを信じて、全ての罪が赦されていることを信じています。しかし、あなたは先ほど強制収容所の話をされましたが、そのあなたの口からも直接赦しの言葉を聞きたいのです」、そう言っ
て、和解の右の手を差し出した、というのです。
彼女は動けませんでした。もちろん、赦せません。この看守がやってきたことを誰よりも良く知っています。彼、彼らのために、両親も、姉妹たちも命を奪われたのです。家族だけではない、一緒に囚われていた多くの人の命を奪っていった張本人。赦すどころか、憎しみが、怒りが湧き起こってくる。何を言っているんだ、こいつは…。絡み合う感情でどうにかなってしまいそうです。
しかし、同時に、彼女の心にはイエスさまの言葉も聞こえてくる。「汝の敵を愛せよ」「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」。それも、分かる。イエスさまの教えを大切にしていきたい。しかし、こんなやつを赦せるだろうか。赦していいだろうか。彼女の中で凄まじい葛藤が交錯していました。彼女は何一つ身動きがとれなかった。祈らざるを得なかった。この心の内を素直に、神さまに打ち明けるしかなかった。「神さま。この看守が憎くて憎くて仕方がありません。私の家族・同胞にあれほどのことをしたのですから。しかし、あなたは赦せとおっしゃる。どうぞ、御心ならば赦せるようにしてください。」。
すると、不思議なことが起こります。固まってしまい、文字通り一切身動きが取れなかった彼女の右手がゆっくりと動き出して、気づくとこの看守の手をとっていました。彼女自身、呆気に取られた思いです。そして、なおも不思議と彼に対する憎しみの心が消え、兄弟を得たという喜びに満たされていた、という。
先ほど言いましたように、私はこの本に、まだ教会に行きはじめた頃、14、5歳のとき、まだ少年とも言えるような時に出会いました。14、5歳、少年とはいえ、その頃の私はすでに、人に対する憎悪を、怒りを、殺してしまいたいと思うほどの復讐心を知っていました。そんな私に、この本はまさに衝撃を与え、「赦し」ということを心の奥底に刻みつけてくれたと思っています。本来「赦し」とは、私たちの努力や頑張りによるのではなく、神的な力によってなされるものなのだ、と。
ご存知のように、聖書は度々、この「赦し」「赦すこと」をテーマとして取り上げています。それは、旧約聖書においても、そうです。その代表的なものの一つが、今日の旧約聖書の日課に登場してまいりました「ヨセフ物語」でしょう。簡単におさらいしておきたいと思います。
ヨセフはヤコブの12人の息子のうちの11番目の子どもです。このヤコブには4人の妻がいましたが、その内のラケルを最も愛しており、このヨセフはそのラケルが産んだ子ということもあり、また年寄り子ということもあってか、ヤコブは大層溺愛していました。そのことが、他の兄弟たちには面白くなかった訳です。しか
も、このヨセフ自身図に乗ってか、他の兄弟たちが自分を拝んでいる夢を見ると、それを誇らしげに語り散らす始末。ますます兄弟たちに憎まれていきます。
そんなある日、他の兄弟たちが、羊を飼っている様子を見に行くようにとヤコブに申しつけられます。そんなヨセフを見た他の兄弟たちは、いっそ殺してしまおう、と企む訳です。しかし、長兄のルベンが反対したことから、奴隷として売り飛ばしてしまおう、と策略を練っているうちに、穴に落としていたヨセフをミデヤン人の商人たちが見つけて助け出し、エジプトに奴隷として売り飛ばしてしまいます。
その後もヨセフは波乱万丈な人生を送ることになります。奴隷として順調にいっていたかと思いきや、濡れ衣を着せられて牢屋に入れられてしまい、何年にも渡って獄中生活を余儀なく送ることにもなりました。まさに、踏んだり蹴ったりです。しかし、そんな彼に転機が訪れました。
エジプトのファラオが不吉な夢を見た。その解き明かしを求めましたが、誰一人解き明かすことができませんでした。そこで、以前、ヨセフと同じ獄中におり、自分の夢を解き明かしてもらった経験を持つ献酌官がヨセフのことを思いだし、王に進言します。そこでヨセフは王の夢を解き明かす訳です。
これからの7年間は豊作の時期を迎えるが、その後の7年間は大飢饉がやってくると。だから、しっかり対策をとった方が良いと、王に進言する。その解き明かしと進言を受け、ヨセフはエジプトの大臣に大抜擢されます。まさに、サクセス・ストーリーです。果たして、ヨセフの解き明かしの通りになりました。7年間の大豊作の後に、大飢饉が起こった。それは、エジプトのみならず、周辺国にも及ぶものでした。
そこで、ヤコブの息子たち、あのヨセフを殺そうとした兄弟たちは、食料調達のためにエジプトへ赴くことになります。兄弟たちはヨセフに全く気づきませんでしたが(エジプトの大臣になっているわけですから)、ヨセフは一目で兄弟たちと気づきました。そこで、ヨセフの復讐劇がはじまります。色々と難癖をつけては、兄弟たちを追い込みます。兄弟たちもまた、このような目に遭うのは、自分たちがヨセフに慈悲をかけなかったからだ、と後悔し出す。そんな復讐劇が繰り返される訳ですが、とうとうヨセフは兄たちに素性をばらし、和解へと向かっていくことになります。
そこでヨセフが語っている有名な言葉があります。今日の日課、創世記50章19節です。「ヨセフは兄たちに言った。『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。』」。
兄たちがしでかした悪は悪です。それは、変わらない。しかし、そこに神さまが介入され、善としてくださった。この神さまの介入による新たな気づき、その意味の再構築が、赦しの原動力になったのです。ここに、和解の一つの大切な姿があるのだ、と思うのです。
今日の福音書の日課の譬え話には、それほど多くの説明は必要ではないでしょう。多く赦されているにもかかわらず、それよりもはるかに小さなことを赦せないでいることが問われています。ある王の家来が、どのような経緯かは分かりませんが、自分の仕える王様に1万タラントンという途方もない額の借金をしでかしたのです。
聖書の巻末にあります度量衡を見てみますと、1タラントンは6000ドラクメ・デナリオンということですから、それに1万をかけますと6000万デナリオンとなります。そして、このデナリオンは1日分の賃金に相当するということですから、単純に1デナリオンを1万円にしますと、6000億円となります。
どういう計算式かは分かりませんが、ある方は、12回生まれ変わって猛烈に稼いでも、償いきれない額だ、とも言われます。まさに、途方もない金額です。それを、この王様は借金のある家来を憐れに思われて、一切合切を帳消しにしてくださった。この家来はこの王様の寛大な扱いに、猛烈に感謝したことでしょう。なのに、その家来は、舌の根も乾かぬうちに、今度は自分に100デナリオンの借金がある同じ家来仲間を許さず、借金を返し切るまで牢屋に閉じ込めてしまう。それが、問題なのです。
ある方々は、わずか100デナリオンの借金を赦せないとは、と怒りの口調で書いておられますが、私自身はそれらの言葉を聞きながら、何を呑気な、と思っています。先ほどの計算式で言えば、この人は100万円の借金を受けている、ということです。みなさん、どうでしょう。100万円を、たったそれだけ、と言えるでしょうか。私にとっては、100万円は途方もなく大きい。問題は、そんな大きな借金を赦せなかったことではありません。まず最初に、赦されているという現実です。しかも、途方もない額の借金を、12回生まれ変わっても償いきれないほどの額を、です。それが、根底にある。ならば、たとえ100万という大きな金額だとしても、赦してやるべきではないか、というのです。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と。ここに、大きな問いがある。
普段の礼拝では、私たちはなかなか日課としては取り上げていませんが、今日の日課の詩篇には、こんな言葉も記されていました。「主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」。
まずは、すでにこの私たちの途方もない負債が、罪が赦されている、ということを知ることです。そこからしか、はじまらない。そして、それを我が身のこととして知るためには、神さまの介在が必要なのです。イエスさまの十字架の御業は、御聖霊の働きに寄らなければ、誰も受け止めることができないからです。そういう意味でも、赦しは神さまの御業からはじまる。
もちろん、先週の御言葉にあるように、何もかも赦すことが求められているとも限りません。罪を犯した者に忠告することも重要です。しかし、同時に、どうしても私たちは、この譬え話に登場してくる家来のように、自分のことは棚に上げて、人を裁くことに熱心になってしまいやすいのです。ですから、まずは、この私たち自身が赦されている、ということを知らなければならない。
私たちのため・赦しのために、6000億どころではない、神の子の「いのち」という途方もない代価が支払われていることを忘れるようでは、「赦し」も「赦し合う」ことも夢のまた夢になってしまう。そのことを肝に銘じていきたいと思います。