新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
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「 信仰と奉仕 」筑田 仁 牧師
新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の 正しい人についてより 大きな喜びが天にある。 |
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
ルーテル学院大学・神学校でチャプレンをしております河田です。本日は与えられた日課から、このように共に福音を分かち合う機会を与えられて感謝です。
本日は福音書の個所から、「誰一人取り残さない」という説教題をつけさせていただきました。これは、国連が呼びかけているSDGsの取り組みへのキャッチフレーズでもあります。皆さんもよくご存じだと思いますが、まずはこのSDGsの取り組みついて簡単に紹介します。
国際連合は2015年から「持続可能な開発目標」のアルファベット頭文字を取って、SDGsと名付けた取り組みを始めました。それは、世界中の人々にとってよりよい、より持続可能な未来を築くための活動です。
まずは現代の世界にある課題を17の項目としてまとめます。そしてそれらの課題の解決を目指して、継続して具体的に取り組んでいくのです。この17にのぼる項目を少し紹介すると以下のようなものです。
貧困をなくそう
飢餓をゼロに
すべての人に健康と福祉を
質の高い教育をみんなに
などです。
たとえば、貧困と飢餓の問題は密接に関連していますし、そのために社会の中で福祉が整えられていく必要があるでしょう。その時には人権が重んじられますし、平等が唱えられ、誰もが正しく学ぶ機会が与えられて行かなければならないでしょう。つまり、ここにあるように一つ一つの課題は、相互に関連しているのです。
ですからSDGsの取り組みとしては、これらの課題のいくつかだけを選択して解決していくのではなく、これらの課題のすべてに目を向けつつ、それらの課題の中に生きざるを得ない人たちの誰一人取り残すことなく働きかけていくことを目指しているのです。
このことは、すべての課題が解決に向かうことは、一つ一つの課題の取り組みの結晶であるし、逆に言うと、その課題の中で誰か一人の人が取り残される限り、すべての課題の解決とは言えないこととなるのです。
今回の説教題は、この「誰一人取り残さない」というSDGsのキャッチフレーズからつけさせていただきましたが、それは本日の日課、特に「見失った羊のたとえ」としてよく知られているこの聖書個所を考えるうえで、大きなヒントになると思ったのです。
それでは、聖書個所を振り返りましょう。
15:1
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2
すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
そこでイエスは「失われた羊」のたとえを語るのです。
ある羊飼いが登場します。この羊飼いに、100匹の羊が飼われています。ところがある時、そのうちの一匹がこの群れから迷い出てしまうのです。
15:4
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
この羊の群れから一匹の羊が抜け出し、羊飼いは、野原に他の羊を残してまでも、その失われた一匹の羊を捜し出すというがこのたとえです。
4節には「見つけだすまで捜し回る」の言葉があります。これは、羊飼いは失われた羊をけっしてあきらめない。最後には必ず捜し当てる。ということです。そしてイエスはご自分こそ、そのような羊飼いであると告げるのです。迷子になった一匹の羊を自分の姿になぞらえる私たちは、この言葉に大きな慰めを受けるのです。
99匹の羊が残されてしまうと言うことは、その羊たちにも危険が迫ると言うことです。ばらばらに迷い出るかもしれません。いなくなった羊は、特別な羊ではなかったのですから、冷静に考えると99匹を守り、迷子の羊を諦めてしまう方が、より賢いやり方と思われます。
今度はいつ、この自分が迷い出てしまうかもしれない。でもこの羊飼いは、そのような名もなき羊を最後まで捜し続けてくださる。ここに大きな喜びがあります。
彼はかつて、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。律法の面では正しい者であったでしょうが、神の目から見れば、主イエスのもとから外れた羊、けっして神の宴席に招かれることのないであろう罪人であったでしょう。
しかし、パウロも復活のイエスに捜し出され、そこで出会い、捕らえられ、その生き方が全く変わってしまうのです。主の福音を世界中に伝える使徒としての働きを担う者とされるのです。
1:14-15「私たちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たる者です。」
罪人として最たるものであるパウロを、主イエスはけっして諦めなかった。彼を捜し出し、捕らえ、ご自分の羊とされるのです。まさに「誰一人取り残さない」、その思いは主イエスの思いなのです。
そしてこのたとえに語られていることは、主なる神が私たちに向けられた思いであるのです。
羊を自分の姿になぞらえたとき、私たちは時折、主のもとから遠く離れ去っている自分の姿に気づくことがあります。いと小さき自分、信仰の弱い自分、この自分のことを主は思い返してくれるだろうか、そのような不安に陥るようなこともあるでしょう。
しかし、この失われた羊のたとえは、そのようなあなたのことをけっして諦めない。ご自分のもとに連れ戻すために、最後まで捜し出してくださる主の姿を私たちに教えているのです。
15:5
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
驚くべきことは、この「喜ぶ」という言葉の主語は、見つけ出された羊ではなくて、見つけ出した羊飼いにあるのです。
私達は思います。「見つけ出された羊はさぞ喜んだことだろう。」
これは、神様の救いをいただいた小さき自分自身の喜びを重ね合わせてそのように考えるのです。しかし、イエスは「あなたを見つけ出した喜びは私の喜びである。」と告げます。
このように小さなわたしを見つけ出し、ご自分のもとに連れ戻すことをご自分の喜びとしてくださる、そのお方こそ私たちの主です。私たちは、このお方を私の羊飼いとして従ってまいりたいのです。
人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。