新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
偽善者たちよ、 あなたたちはだれでも、 安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、 水を飲ませに引いて行くではないか。 この女はアブラハムの娘なのに、 十八年もの間サタンに縛られていたのだ。 安息日であっても、 その束縛から解いてやるべきではなかったのか。 |
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あな
たがたにあるように。アーメン
皆さんは、今日の福音書を読んで、どのような感想を持たれるでしょうか。
今日の日課では、主イエスと会堂長が出て来ます。18年間もの間、病を患っていた女性を主イエスが癒したのです。会堂長は嫉妬をしたのでしょうか。それともひがんだのでしょうか。安息日に主イエスが癒しの業をしたことに、ひどく腹をたてるのです。
当時の律法では、よっぽどの重病でもない限り、安息日に癒しの業をすることは禁じられていました。会堂長は、決まりにのっとって正しい判断をし、発言をしたとも言えるのです。
この会堂長、恐らく熱心な専門家であったと思われます。決まり、そして律法を正しく守り模範的な生き方をしてきたのです。その意味で、良い宗教家であったのかもしれません。私たちは、この宗教家を分からないことはないでしょう。熱心であればあるほど、律法を厳格に守り、いのちの道を究めようとして生きているのです。このような生き方をする宗教家は、当時、民衆のハートを掴み、それなりに慕われていたのかもしれません。おそらく、今日の福音書を読んで、そんなに悪い印象を持つこともないかもしれません。なぜなら、この宗教家のあり方は、熱心であればあるほど今の私たちにも近いとも言えるからです。他人事と思わないで下さい。私たち信仰を持つ人間の一面がこの会堂長に表れています。ここで、今日もこのできごとから、み言葉に聞いていきたいと思います。
この状況で自己主張をしたのが、主イエス・キリストです。主は、これまでの戒律に縛られず、自由で、神の御心のままに、心が解放されている神のみ子です。主イエスは、18年間も病にあった女性を癒します。この時代、女性の立ち位置は低かったので、宗教家が女性を癒すことなどありえないことでした。まして、宣教の対象になることもありませんでした。主イエスは、ここで彼女が頼んでもいないのに癒し、その結果、彼女は喜びのあまり讃美の声を挙げるのです。会堂長がクレームをつけたのは、この時でした。ここでの批判は、一点です。主イエスが安息日に癒しの業を行ったこと、そのことが気に入らないと言うのです。14節です。
「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
会堂長は律法に縛られていたのです。しかし、彼はここでもっと大切にしなければならないことを見失っていたとも言えるでしょう。
問題は安息日です。確かに、安息日に重病な人以外は癒すことは禁じられていました。しかし、この安息日、一体なんのためにあるのでしょうか。安息日に人間の病を癒すことは、安息日に、そしてそもそも律法に本当に反することでしょうか。律法の本質を見極めるのならば、人間のいのちを根本から活かす癒しの業は、認められても良いのではないでしょうか。主イエスの主張はここなのです。本来、神のみ心に従い、人間を活き活きと活かすルールであるはずの律法に従うのならば、この女性の癒しは、とがめられるものではないのです。逆に、18年間も苦しんできたアブラハムの娘の癒しは、勧められても良いことです。この女性、病が癒され、しかも讃美の声まで挙げて、神への信仰の回復に至りました。嬉しいことではないでしょうか。
主イエスは、安息日、そして律法の本当の意味、人間の信仰生活を活き活きと活かすその中心的な意味と働きをしっかりと踏まえていました。人間が安息日のためにあるのではありません。安息日が人間のためにあるのです。人間を活かすいのちの律法を、ぎゅうぎゅうに縛り付ける不自由なものしてはいけないのです。主イエスは、しっかりと律法の本質を踏まえておられました。
今日の福音書から皆さんはご自身をどの立ち位置に置かれるでしょうか。残念ながら、私たちはこの会堂長に近いところで生きてはいないでしょうか。主イエスの今日のみ言葉に共感することは多くても、実は、私たちも意外と、自分自身を律法的なもので縛ってはいないでしょうか。こう生きるべきであると、私たちは「あるべき論」で生きてはいないでしょうか。実際、主イエスのように、心から解放されて、神への信仰のままに、神に生かされるがままに、自由に生きている人間はいません。もしかすると私たちの方が、会堂長のように自分自身をあるべき姿に縛り、信条でがんじがらめに縛って生きているのではないでしょうか。
このことを理解するとき、私たちは主イエスの福音から、今日も自分への深い気づきが与えられます。私たちは、もっと自由に、もっとおおらかに、そしてもっと自分を解放して歩んでも良いのです。
世間体や教会での人間関係、しがらみから自由になりたいと思います。主イエス・キリストの福音は、私たちをそのような縛りから自由にし、心を解放するものだと思います。当時の因習や戒律、そしてユダヤ教からも自由であった主イエスにならう生き方を私たちも選んでいきたいのです。
今週も主イエスの福音に自分を委ねて、神への信仰が示すままの生き方を、日々受け止めていこうではありませんか。主イエスの福音が、私たちの生き方を指し示してくださいます。神の導かれる道を、主イエスに従う道を、今日も、おおらかに、そして喜びと共に歩んでいきたいと思います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン