お知らせ 1月30日の礼拝から家庭礼拝です!!!
長野県新型コロナウィルスまん延防止重点措置適用された
ことを受け、1月30日の礼拝から1か月間、家庭礼拝と
することにいたしました。
皆様、十分お気を付けください。
(旧約聖書)エレミヤ書
1章4節~10節
(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一)
13章1節~13節
(新約聖書)ルカによる福音書
4章21節~30節
『 主イエスの説教 』 筑田 仁 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
ある礼拝で私が説教を語ったときのことです。私はいつもの通り、福音書の主イエスの力あるみ業とその言葉を語りました。説教が終わり、礼拝中ホットしていると、奉献の部に移り、信徒の方の奉献の祈りになりました。ある教会員の祈りでした。私はこの経験を忘れることができません。その方はこのように祈ったのです。
「神様、私を赦してください。今日の説教から私はあなたの怒りのようなものを感じました。どうぞ弱い、弱い私を赦してください…」と。
私の中に衝撃が走りました。私の説教の意図に怒りなどありませんでした。あくまでも恵みの出来事を語ったはずです。しかし、この方は相当感受性が強い方であったのでしょう。おそらく、私が語るみ言葉のその奥にある怒りに触れたのです。このようなことはめったに起こりません。しかし、確かに起こりました。私が語る説教のその奥にあった私自身の深層心理の怒りの感情そのものが、説教を通じてその方に届いたのです。ルター派の牧師として、神の無償の恵みを語るはずの説教者が、私自身の怒りを無意識のうちに語ってしまっていたのです。
その時、私は、あらためて自分の中にある深い怒りの感情に気づかされると共に、自らを省み、もう説教を語ることはできないと真剣に考えました。
本日の福音書の日課は、主イエスの説教の言葉です。主イエスの説教を中心に今日もみ言葉に聞いていきたいと思います。
主イエスの会堂での説教はどのようなものであったのでしょうか。先週、私たちは、イザヤ書を読んだ主イエスの説教を分かち合いました。その時の民らの反応は、当初このようでした。22節。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた。」主イエスの説教は、やはり民らの心に響く恵み深いものでありました。
しかし、出来事はここから急展開しました。主イエスは、ナザレの民らにこう告げるのです。24節。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」
そして、旧約聖書のサレプタのやもめや、将軍ナアマンの引用をしながら、主イエスは、ご自身が決してナザレの群衆に歓迎されないものであると強い口調で告げるのです。つまり、主イエスは、生まれ故郷のナザレでは奇跡を行わない、良いことは何もしないと言い、ナザレの民らの感情を逆なでするのです。怒った民らは、主イエスに憤慨し、総立ちになって彼を追い出し、崖から突き落とそうとしました。
この出来事、皆さんはどのように思われるでしょうか。私は、主イエスというお方が大したお方であると思いました。当初、主イエスはあきらかに会衆によく響く恵みの言葉を語っていたのです。そのまま主イエスの説教は、民らにとって都合の良い、耳に心地よい言葉で終始していれば良いはずでした。しかし、主イエスはそうなさならなかった。ここでは神から与えられた真実の言葉を語られたのです。
説教をする者の心理として、いつも誘惑があります。それは、会衆にとって聞こえの良い説教をすれば良いのではないか、という誘惑です。この誘惑とは、説教を作る際に、会衆の受けの良い言葉を語っていれば、皆さんにとって満足できる言葉を語っていれば良いのでは、ということなのです。
会衆からして受けの良い説教の方が、私自身の説教者としての評価も高まることでしょう。しかし、ここが問題です。会衆にとってあくまでも分かりやすい説教を語るのが私の責務ではありますが、表面的な受けの良い説教を語って良いのかどうかは、本当に深く考え、そして退けていく必要があります。
神の言葉を語るのが説教者の役割です。当然、神の言葉である以上、皆さんにとって、私自身にとって、時には福音のための厳しい言葉を語らなければならないこともあります。説教者として、私は誠実に神の言葉に向き合い、実直に説教の言葉を紡ぐことが求められています。その結果、会衆の皆さんや私にとって、キリストの愛に導くための厳しい言葉になることも当然あるのです。
主イエスの説教は、まさにナザレの民らにとって愛ゆえの厳しい言葉でありました。しかも主イエスを引きずり出して崖から突き落とそうとするくらいの反感をかいました。主イエスの説教一本がここまで強い感情を引き出したことは、正直驚きです。
主イエスは、自らの死を招きそうになったとしても、その言葉は民らに表面的に受けるような内容ではなく、神に指し示された真実の言葉を断固として語られたのです。だからこそ、主イエスは、やはり大したお方であると私は感心します。聞く者から反感がひき起こされたとしても、主イエスは誠実に神の言葉を語り尽くしたのです。
冒頭の私の怒りの説教の話に戻ります。主イエスの説教は民らの怒りを招いたけれども、そのみ言葉は真実なものでありました。しかし、私の説教は、恵みの言葉であるはずのものが、逆に会衆に深い怒りの感情を伝えたものになりました。私はこの限界を抱える自分自身と向き合わなければなりません。
説教ほど、難しいものはありません。恵みという言葉を使っていれば、恵みを意味する説教になるということではありません。恵みに生かされていることを本当に実感している者だけが、そこから神の恵みを伝えることができるのです。私は、説教者として、右往左往、七転八倒が続きますが、神の恵みの言葉、神の溢れるほどの豊かな愛の世界を皆さんにお届けしたいと思いつつ祈りを重ねています。
どうぞ今週一週間も、お一人お一人の上に神様の憐みと慰めがその心に届きますようにとお祈りしています。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン