お知らせ 短縮礼拝を再開しました!!!
2021年11月28日日曜日
2021年11月21日日曜日
2021年11月15日月曜日
2021年 甲信地区一日神学校 お知らせ
2021年 甲信地区一日神学校 お知らせ
秋を迎えました。甲信地区の皆さん、お元気でしょうか。コロナ禍、昨年は行うことができなかった甲信地区一日神学校を今年はZOOMで行います。久しぶりの甲信地区の交流会になります。この機会をご一緒に楽しみましょう。
以下のようにご案内します。それぞれ祈りのうちに覚えてご参加ください。
日 :11月23日(火・祝)
時 間:午後1時から午後3時まで(ZOOMの入室は12時半より)
全体のプログラム
1.開会の祈り(野口和音牧師)
2.講義 ルーテル学院・宮本新先生 テーマ「ルターと疫病」
13時~14時(質疑応答を含めて)
3.休憩(10分間)
4.女性の集いの時間(飯田教会担当)
14時10分~14時30分
5.交わり 各教会の紹介等
14時30分~14時50分
6.閉会礼拝(朝比奈晴朗牧師)
14時50分~15時
(全体司会:筑田仁牧師)
尚、事情によりプログラムを急きょ変更する場合もありますのでご了承下さい。
参加は教会ごと、もしくは個人参加もできます。詳しくは各教会の牧師までご相談下さい。皆さん、楽しく甲信地区一日神学校を開催しましょう!
甲信地区一日神学校担当:諏訪教会2021年11月14日日曜日
2021年11月7日日曜日
11月14日(日)聖霊降臨後第25主日礼拝のご案内
お知らせ 短縮礼拝を再開しました!!!
(旧約聖書)ダニエル書
12章1節~3節 (新約聖書)ヘブライ人への手紙
10章11節~25節
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、 慌ててはいけない。 そういうことは起こるに決まっているが、 まだ世の終わりではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、 方々に地震があり、飢饉が起こる。 これらは産みの苦しみの始まりである。 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。 |
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン
マルコによる福音書13章は小黙示録と言われています。黙示録とは「覆われているものが明らかになる」という意味です。新約聖書の「ヨハネの黙示録」にも見られるように、今、覆われているものが、神の秘められたご計画が明らかになり、成就することを意味します。
黙示録、そして黙示文学、ここで黙示文学のテーマをあえて挙げるならば、それはキリストにつらなる者が苦しみを経験した後に、神の最終的な勝利がおこり、その後、救いに与かることです。この黙示文学は、旧約聖書の時代の預言者の活動が終わった後、紀元前2世紀から紀元後2世紀頃まで、広く認められたものです。今日は、この黙示文学であるマルコによる福音書13章のみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。
今日の福音書、主イエスが神殿の崩壊を予告します。そして、終末が近づいていることに言及するのです。今日の福音書の言葉に向き合うとき、私たちは、この世界の現在の状況と、主イエスの言葉が大変近いものであることを実感するのではないでしょうか。8節。
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。」
まさに国同士の争いが頻繁に起こっているのが私たちの現実の社会です。地震、飢饉、豪雨などの自然災害が起こっています。気候変動などの問題も深刻です。戦争や災害で多くのとうとい命が失われている現実もあります。新型コロナの流行も、一面においてこの終末の兆候と重なりあうものであると思います。主イエスは、これらの社会の兆候に気を付けていなさいと忠告するのです。目を覚ましていなさいと言うのです。
しかし、私たちは、この黙示文学の言葉の中で、実はもっと掴んでおきたい言葉があります。それは、神殿の崩壊の言葉の合間に挟まれている信仰者の姿勢についての言葉です。5節、「人に惑わされないように気を付けなさい。」7節、「慌ててはいけない」と書かれているのです。
たとえ、この社会の終わりを示すような終末的な出来事が起こったとしても、私たちは慌ててはいけないし、惑わされてもいけないのです。落ち着いて、この社会に起こる出来事をよく見きわめなければなりません。自分自身を見失ってはいけないのです。つまり、終末の兆候か否かをよく見極めなさいということです。簡単には終末は来ないとも言えると思います。
加えて、この黙示文学を理解する上で、もう一つ注意したいことがあります。それは終末の理解のなかで厭世的、せつな的にならないことです。どうせこの社会は終末に向かっているといって、一日一日を大切に生きることを怠ってはなりません。たとえ終末的な現象が起こっても、現実の生活をしっかりとみて、日々の生活の大切さに注意を払いつつ生きていきたいのです。
昨年に甲府・諏訪教会で黙示文学をテーマにした説教で語ったことですが、我が筑田家の居間に、実は聖書のみ言葉の短冊が飾ってありました。亡くなった母が飾っていたものです。それには、一言「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と書かれていました。このみ言葉は、実は今日の福音書の13章13節のみ言葉なのです。私は子供の頃からそのみ言葉に親しんで生きてきました。メンタルの病を負いながら生きてきた私の母が支えられ、よく親しんだみ言葉でありました。
この世の戦争や飢饉とまではいかないのですが、メンタルな病を負っていた母は、毎日が大変つらく、しんどいものであったことを今でも想像します。心が激動するその人生の中で、母を支えたのは一つのみ言葉、「最後まで絶え忍ぶ者は救われる」だったのです。この言葉、信仰者を支える慰めのみ言葉です。苦しみの中で、もがきながら生きていかざるを得なかった母の人生を支えてきたのは、この一言でありました。おそらく、母は、このみ言葉によって一生涯、苦悩を支えられ、キリスト者として生き抜いて、その生を全うしたのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」この慰めのみ言葉に勇気づけられ、生きる希望を与えられ、今日の日も生きていきたいと思います。
終末を生きることとは、おそらく現在の一日一日を大切に生きることに繋がるように思います。終末が来るからこの世をせつな的に生きるのではなく、ないがしろにするのではなく、逆に、与えられた一日を、精一杯心をこめて生きることです。神の秘められた計画がこれから成就されるならば、この世に終わりが来るならば、私たちは今のこの生を、一瞬一瞬を、将来から現在を見通して、かけがえのないものとして生きていきたいのです。その人生は、一見耐えることに終始する人生かもしれません。しかし、何度も言いますが、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」です。この主イエスのみ言葉と共に人生を耐え忍んで生きることは大変慰め深いことです。その歩みの中できっと神様の豊かな祝福が隠れたところで注がれていると信じています。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」―この言葉が福音ですかと問われそうですが、この言葉も確かに福音です。この世の処世術の言葉ではありません。救い主イエス・キリストの力強い慰めのみ言葉です。
今週一週間も、神の深いご臨在のもとで歩む私の人生に、祝福と慰めが豊かにありますようにと祈りながら、一週間の歩みを進めていきたいと思います。