お知らせ 短縮礼拝!!!
2020年9月27日日曜日
2020年9月20日日曜日
9月27日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝のご案内
お知らせ 短縮礼拝!!!
(旧約聖書)エゼキエル 18章1節~4節
(新約聖書)フィリピの信徒への手紙 2章1節~13節
(新約聖書)マタイによる福音書 21章23節~32節
ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、 「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。 兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は 「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。 この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか。 |
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
今日の福音書の譬え話は非常に分かりやすく、私の解説もいらないくらいです。この譬え、ある父が、二人の息子にぶどう園での働きの依頼をします。兄は「嫌です」と断るのですが、考え直して出かけます。弟の方は「承知しました」と答えるのですが、出かけませんでした。どちらが父の、神のみ心を行ったのか。それは明らかに兄の方です。
今回もいろいろと調べていたら、このような教えが書かれていました。信仰には行動が必要である。弟のように言葉だけで従って、結果的に行動しないのなら意味がない。兄のように行動に移さなければ、信仰をもっていても駄目である。私たち信仰者は行動が必要である。
一見、アーメンと、正しい教えのように思われます。しかし、私は思うのですが、信仰からどれくらい行動、行いに、私たちは生きることができるでしょう。「愛の奉仕」という言葉があります。救いに与かった人間は、隣人への「愛の奉仕」に生きるのです。私はこの言葉を聞くたびに、首をかしげてきました。一体どこまで私たちは、信仰から「愛の奉仕」の実践に移すことができるのでしょうか。簡単なことではありません。ここで、今日も私たちはみ言葉に聞き、分かち合っていきたいと思います。
私たちの多くは、「愛の奉仕」を実践することはできないと、私は思うのです。なぜなら「愛の奉仕」と訴える人々のうち、本当に奉仕に生きている人を私はほとんど見たことがないからです。「愛の奉仕」、言葉は美しいのだけれども、信仰から溢れ出て、行動、行いに移すことは簡単とは思えません。
私たちの日々の日常は、この譬えの弟に近いのではないでしょうか。心も魂も、実際、神への信仰に溢れているのです。「神様、あなたを信じます。」「神様、あなたに委ねていきます。」日々、キリストへの献身の思いに満ちているのです。しかし、この弟のように、実際、父のぶどう園に携わる仕事をすることまでには至ってはいないのではないでしょうか。行動に移すこと、「愛の奉仕」に生きること、それはキリスト教信仰の教えとしては分るのだけれども、実践することはなかなか難しいのです。
では、私たちはどうすればいいのでしょうか。父のみ心を行ったのは、兄の方であって、行動と実践を行った方なのです。しかも、この後に主イエス・キリストは、徴税人や娼婦の例をだして洗礼者ヨハネを先に信じた彼らの方が、神の国に近い、つまり救いに近いと言うのです。行動に移せなかった弟は、祭司長や長老と同じように決めつけられ、救いには遠いように読むことができるのです。今日の譬えにも主イエスの教えの逆説、パラドクスが表れています。一見、祭司長や長老、律法学者の方が、社会的にも信用され、民に人生の歩み方、道理を教え、深い信仰とともに生きているように思われるのです。この時代と社会状況の中では、徴税人や娼婦は道から外れたもの、救いにもっとも遠いものでありました。
主イエスの示される信仰の道は、神の国の世界は、この常識、倫理、人間の道理を打ち破るのです。人間的な価値観では、明らかに徴税人や娼婦の方が、社会の底辺にいて、他者からも蔑まれていた立場にいました。しかし、主イエスは、このもっとも社会から外され、打ちのめされている人々の方が、救いに近いと断言されています。神の憐れみ、神の愛は、徹底的に貧しくされている人々に与えられる深い慰めなのです。
ここで、弟の立場にいる人々は、主イエスの教えられる救いから遠いのでしょうか。行動次第で救いへの門戸が閉ざされてしまうのでしょうか。信仰は、確かに行動が伴わなければ、本物ではないと言うことはできるでしょう。しかし、なかなか行動に移せない私たちはどうすればいいのでしょうか。
ここで一つのキーワードに注目したく思います。それは、兄が父の申し出を断った後、こう書かれているのです。兄は、「後で考え直して」出かけた、と。この「後で考え直したこと」がとても大切なことです。この「考え直す」という言葉、原語では「思い直す・心を変える」という意味の言葉です。良心の咎めを感じて、心を入れかえることなのです。悔い改めることとも言えるでしょう。弟は「心を変える」ことはしなかったのです。兄だけが「心を変え」、悔い改めをしたのです。この二人の違いは後の行動が適切であったかということよりも、この心の入れかえを、悔い改めを、神のみ前で行ったかどうかが大切なのです。その意味で、私たちはたとえ弟の方に近いとしても、望みを失うことはありません。徴税人や娼婦は心を入れかえたのです。洗礼者ヨハネを信じて、心を入れかえたから、主イエスから受け入れられたのです。私たちも、心を入れかえるかどうか、神に心を改めて悔い改めるかどうかが、この譬えで新しく問われていることなのです。
この兄弟には行動に違いがありましたけれども、その行動を招くことになったのは心を入れかえることでありました。信仰から自分の心を入れかえること、心から悔い改めをすること、ここで神に従えるかどうかの別れ道がありました。神の方向に心を向き直すかどうか、神に悔い改めるかどうかが、この譬えの本当の中心点のように思います。
私たちは、行動・実践に信仰の重きを置くのではなく、心から悔い改めて、神の方に向きを定め生きることに信仰の重心を置いていきたいと思います。そうであるならば、行動、行いが結果的に正しいかどうかなどは大して問題ではないようにも思うのです。
今日の譬え話の中心は、父の指示に従ったかどうかよりも、心の向きを改めたのか、悔い改めて生きる方向性をかえたのかであり、このことが本当の意味で問われていると思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン