★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。
(旧約聖書)ミカ書 6章1節~8節
(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一)
1章18節~31節
(新約聖書)マタイによる福音書 5章1節~12節
心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである。
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢える人々は、幸いである。
その人たちは満たされる。
憐み深い人々は、幸いである。
その人たちは憐みを受ける。
心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。
『 山上の説教 』 筑田 仁 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、諏訪教会において教会総会が無事に終わりました。今週は、甲府教会の教会総会となっています。教会総会、昨年度の教会の歩みを丁寧に振り返り、また新しい一年を希望と共に望み見るのです。神から、どれほどの恵みがこの教会に注がれてきたであろうかと振り返る時であります。
諏訪教会において総会を迎えたとき、私はふと、自分の原点に返ることを考えていました。それは自分が信仰へと招かれた時へと、立ち返ることであったのです。先週、使徒書の日課で読んで頂いたコリントの信徒への手紙Ⅰのなかでパウロはこのように語ります。1章18節です。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
主イエス・キリストの十字架と復活は、そしてそこで指し示された十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては全く愚かな言葉でしかありません。何の意味もなさない言葉であることと思います。しかし、この神のみ言葉は、私たち救われた者にとっては、神から与えられる力そのものです。力だけではありません。このみ言葉は、私たちに希望を与え、慌ただしい世界で生きざるを得ない私たちの慰めとなる言葉です。この十字架の言葉に、救いのみ言葉に、私たちの信仰の原点があります。私たちが招かれたときの信仰の原点が確かにあるのです。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
今日も、神の十字架の言葉に生きる慰めを見いだしつつ、今日の福音書の日課、特に「山上の説教」に聞いていきたく思います。
主イエス・キリストが宣教を始めたとき、大勢の群衆がパレスチナの各地方から集まってきました。病気や障害、苦しみに悩む者がいたるところから主イエス・キリストのもとに癒しと慰めを求めて、集まってきたのです。主は、そこで山に登ります。そして、主イエスに従ってくる大勢のうちひしがれた群衆を前にして、弟子たちに向けて彼は説教をするのです。これは「山上の説教」と言われるものです。5章3節から6節。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。」
その人たちは満たされる。」
このみ言葉に具体的に聞いていきます。
この前半部分で、「幸い」と呼ばれている人々とはどのような人でしょうか。それは先ず、「貧しい人」です。ここで貧しい人と言われている人は、当時のユダヤ社会の中で、経済的に、実際に、貧しい人々に向けられています。
また、ここで「柔和な人」と書かれています。この原語の意味を辿ると、「圧迫を受けて、背を曲げた者の姿」を表しているのです。背中を曲げざる得ないくらいの抑圧のもとにいる人を指し示しているのです。
群衆は、経済的な困窮状態のなかで打ちひしがれ、病と貧困を抱えて日々抑圧の中で暮らしていたのです。だからこそ、主イエス・キリストに現実生活からの打開と救いを求めて、天の国の福音を求めて、集まってきたのです。厳しい生活の中で、群衆は、民らは、背を曲げて神の国の到来を待ち望んでいました。主イエス・キリストはそのような抑圧の中で暮らしている人々に、そして試練に耐えて背を曲げつつ忍び暮らす人々に、もう一言加えて、神に信頼をおいて生きる人々に、あなたがたは「幸い」であると祝福されたのです。言葉は逆説的なのですが、貧しいからこそ、悲しみの中にあるからこそ、そして神の正義に飢え渇くからこそ、まさにあなたには神の慰めと祝福が必ず訪れると慰めの言葉を告げたのです。
そして、あなたがたは「幸い」であるという言葉には、「慰められる」「満たされる」という「られる」という言葉が続きます。この言葉は一見して分かるように受動態、受け身の形で書かれています。なぜ受動態なのか。それはこの言葉の受動態の主語が神であるからです。悲しむ人、義に飢え渇く人々に、神ご自身がイニシアティブをとって慰めて下さる、神ご自身がその人を憐れみで満たしてくださるということです。だからこそあなたは今、困窮、困難の中にあっても神からの救いがある。だからこそ、あなたは実は「幸い」であると主イエス・キリストは告げられるのです。
貧しさ、悲しみ、正義に飢え渇く人々に語る主イエス・キリストの言葉は、神からの慰めと憐れみを告げる、そして必ずそのように実現するという希望を伝える約束の言葉であったのです。
神の祝福が、希望の約束があるから、私たちは深い失望に留まることはないのです。主イエス・キリストはこの山上の説教でこのようにも言われます。5章12節です。
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」おそらく神の慰めが私たちに深く、深く、あるからこそ、私はキリストに生きる者の人生は、本来的に、安らかで喜びが根底にある人生であると思います。
では、神の慰めは一体どこに見いだせるのかと思われる方もいることでしょう。日々の具体的な日常生活の中に隠されていると言えるかもしれません。隣人との出会い、交わり、関わりの中に神の慰めは隠されています。私たちは実際に隣人との関わりから多くの支えと慰めを頂いている現実があるのです。
また、自然の美しさに心を奪われ、そこに神々しい存在を感じるときにも慰めを見いだせるかもしれません。自然を感じる直感の中においても、私たちは、人間以上の存在を感じ、大いなる方の慰めを感じることがあるのではないでしょうか。
最期に、説教の始めに述べたように、神の十字架の言葉、福音からも私たちは慰めを受けとります。み言葉が私たちの頑なな心を打ち砕き、この心にそっと寄り添って下さり、私たちは魂の安らぎと慰めを感じることがあると思います。
神が、イニシアチブをとって、この貧しく、悲しみに暮れる私たちを祝福し、慰め、暖かく包んで下さいます。
今週一週間も、神の憐れみと慰めに信頼して歩んでいきたく思います。「山上の説教」で語られているとおり、神からの憐れみと、いたわりが、私たちの上に豊かに注がれていることを覚えつつ、それぞれの生活の場で、信仰とともに、力強く歩んでいきたいと願います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あながたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
アーメン