2019年8月25日日曜日

9月1日(日)聖霊降臨後第12主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。



(新約聖書)エレミヤ書         9章22節~23節

(新約聖書)ヘブライの信徒への手紙  13章1節~8

(新約聖書)ルカによる福音書     14章7節~14節


だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。


   『 神の国 』 筑田 仁 牧師
 


           

2019年8月18日日曜日

8月25日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。


6月2日の礼拝後から、聖書教室が始まりました。
「エフェソの信徒への手紙」を学びます。
関心のある方は、どうぞお気軽に教会にお出かけください。


(旧約聖書)イザヤ書         66章18節~23節

(新約聖書)ヘブライの信徒への手紙 12章18節~29

(新約聖書)ルカによる福音書    13章22節~30節


そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。


   『 狭い戸口 』 筑田 仁 牧師
 

自分は滅びていく人間ではないか、時折、そのような思いに捉われるときがあります。確かに救いの根拠である洗礼に自分は与っている。まことの洗礼に与っている。自らが救われている確信を抱いてもいいと、洗礼を受けたばかりの初めの頃は喜びと共にそう思ったものです。ですので、洗礼という事実そのものが揺らぐわけではない。ただ、自分自身のなかで、一人のキリストにある者として、不安と焦りが心を支配する時があるのです。
自分自身と向き合っていくとき、自分のふがいなさに直面せざるを得ないときがあります。年を重ね人間として成熟しているはずなのですが、いっこうに怠惰で、どうにもならない状況の中で、もがいている自分の姿が見えます。もちろん若い頃のような、若さ特有の不安定さからは離れることができています。
滅びなんて言葉を使うとおおげさに聞こえることでしょう。しかし、若い頃からいつもにえきらない自分の存在を抱え、そのにえきらなさが人生の最後まで続くということが分かった時、どこに救いがあるのかと自問自答せざるをえなかったのです。自分は、実は滅びに向かう人間ではないかと、そのような思いが時折、切実に心によぎるときがあるのです。

今日の福音書の日課は大変厳しい内容が書かれています。ある者が主イエスに「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と問いかけるのです。もしかすると、この主イエスに問いかけた者も、救いへの実存的な不安のなかで呻吟していたのかもしれません。当時の主イエスは活発に「神の国」の宣教をしていたときです。同行していた人間も、主イエスが、重い皮膚病のものを癒し、悪霊に憑りつかれていた者から悪霊を追い出し、目の見えない者の目を見開いていた華々しい活躍を実際に見聞きしていたはずです。しかし、このような時に出てきた真剣な問いが、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という切実なものであったのです。
主イエスは、明確に答えます。1324節、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」今日の主イエスの言葉はさばきの言葉のように聞こえます。28節、「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。」
主イエスは、救いのために努めなさいと言います。努力しなさいと言うのです。しかも、あなたは救いにもれ、外に投げ出され、泣いて歯ぎしりすることになるであろうと、はっきりと滅びの告知をするのです。
当時、イスラエルは約束と救いの民でありました。律法はイスラエルの救いを約束していました。イスラエルは契約の民であり、まちがいなく神の選びの中にある民族であったのです。彼らには自分の民族が神の救いに与かるという確信があったことでしょう。主イエスの厳しい裁きの言葉は、この救いを確信していたイスラエルの民へのある種の慢心に向かって放たれたのかもしれません。自分たちが救いに与かり、イスラエル以外の異邦人は永遠の滅びに向かっていく。選民としてのイスラエルの民は主イエスを受け入れようとはしませんでした。この選民意識に、主イエスは風穴を開けたのです。今日の主イエスの逆説的な言葉、30節、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」というこの言葉は、選民イスラエルと異邦人との救いについての関係について述べられたものであるかもしれません。主イエスを受け入れないイスラエルの民は、滅びの道をたどり、主イエスを受け入れる異邦の民は救いの道へと開かれていくのです。このようにイスラエルと、異邦人との関連で今日のみ言葉を捉えるならば、とてもクリアーなみ言葉に思われます。
しかし、です。私は救いに関する主イエスの言葉にひっかかるのです。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」救いへの実存的な問い、私はもしかすると「入ろうとしても入れない人」の内に含まれているのではないだろうか。父と子と聖霊のみ名による洗礼を疑うわけではありません。しかし、心に一末の不安がよぎるのです。
このような、救いへの実存的な不安に徹底的に悩んだキリスト者がいます。実は、宗教改革者マルティン・ルターです。当時のキリスト教会に反発し、純粋な福音、純粋なみ言葉を説いていたマルティン・ルターは、実は自らが救われているのか、大変苦しんだのです。救いの確かさを確信できなかったルターは夜な夜な一人小部屋で祈りの中で、格闘し続けたと聞きます。そのルターを支えていたのが洗礼を受けたという事実でした。ルターは、「自分は洗礼を受けている。自分は洗礼を受けている」と、何度も口ずさんで、救いの確かさに踏みとどまったと聞きます。救いの確かさに悩み続けたマルティン・ルター。その極めて人間的な思い患いで苦悩したルターの姿に、私たちは親しみを感じるのではないでしょうか。

ここで、私たちは信仰の決断に迫られているかもしれません。主イエス・キリストにおける救いに徹底的に信頼をおいて歩んでいくのか。それとも自らの人間としての弱さを抱えつつ、救いに迷いながら、実存的な不安と共に歩んでいくのか。しかし、この問い自体は、どんなにキリストにおける救いに没頭してみても、迷いの思いそのものは、生涯消え去らないと思います。
今日の福音書の日課にあるように、救いに「入ろうとしても入れない人が多い」という事実をどのように捉えていくか。これは私たちの大きな課題なのです。
ここで、私たちルーテル教会で受け継がれてきた一つの言葉を紹介したいと思いますが。それは、英語で「hope against hope」という言葉です。この言葉の意味は「希望のないところで、なお、希望する」ということです。希望のないところで、にも関わらず、希望を胸に抱き、その希望を私は実際に生きていく、ということです。
救いに関して不安がよぎってもいいと思います。おぼつかない足取りの自分自身に深く失望してもいいのです。たとえこれからの先行きが不透明であったとしても、信仰という希望の光は私を裏切ることはありません。今日の主イエスの言葉の通り、救いに入れる人は、多くはないのかもしれません。そして、やはり不安や、迷いや、困惑が日々私を覆い、苦悩せざるを得ない時もあるかもしれません。にも関わらず、にも関わらず、私はこのおぼつかない足取りのままで、主イエス・キリスト、この復活された救い主に希望をおいて生きていきたく願うのです。
hope against hope」―希望のないところで、にも関わらず、希望に生きていくこと。主イエス・キリストの他に、この世界で、この私のような不確かな身を委ねられる方はいないのです。主イエス・キリストはまことの希望をおける唯一の存在です。そして、たとえこの身が滅びに苦悩するとしても、私たちは主イエス・キリストに信仰の根拠と望みをおいて生きていきたい、そう思います。なぜなら、たとえ私は一人の人間として弱く、揺らぐことが多々あるとしても、この救い主イエス・キリストご自身は決して揺らぐことのない、盤石な、岩のような存在であるからです。たとえ、一方で心に滅びの不安が押し寄せても、主イエス・キリストにある救いの確かさは永遠に変わらないものであるのです。
私たちの実存的な滅びの予感、そして盤石な主イエス・キリストにある救いの確かさ、一見相矛盾するこの二つの事実のなかで、それでもなお、キリストにある信仰と希望をこの胸に強く抱いて、生きていきたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
                        アーメン 

2019年8月11日日曜日

8月18日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。



6月2日の礼拝後から、聖書教室が始まりました。
「エフェソの信徒への手紙」を学びます。
どうぞ関心のある方は、教会にお出かけください。



(新約聖書)エレミヤ書         23章23節~29節

(新約聖書)ヘブライの信徒への手紙  12章1節~13

(新約聖書)ルカによる福音書     12章49節~53節

あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。



   『 地上の火 』 筑田 仁 牧師
 


            

2019年8月4日日曜日

8月11日(日)聖霊降臨後第9主日礼拝のご案内

★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。


6月2日の礼拝後から、聖書教室が始まりました。
「エフェソの信徒への手紙」を学びます。
関心のある方は、どうぞお気軽に教会にお出かけください。


(旧約聖書)コヘレトの言葉     2章18節~26節

(新約聖書)コロサイの信徒への手紙 3章5節~17

(新約聖書)ルカによる福音書    12章13節~21節

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。
有り余るほど物を持っていても、
人の命は財産によってどうすることもできないからである。



   『 神の前に 』 筑田 仁 牧師