★ 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時からです。
(旧約聖書)エレミヤ書 7章1節~7節
(新約聖書)コリントの信徒への手紙(一) 15章12節~20節
(新約聖書)ルカによる福音書 6章37節~49節
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赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。 |
『 ゆるしは自由をもたらす 』 松岡 俊一郎 牧師 説教原稿
人はいろいろな人間関係の中で生活しています。非難することよりもほめることの方が大事と分かっていても、他者に対して肯定的な思いよりも否定的な感情のほうが多く働きます。ちょっと気にいらないからと悪口を言い、非常識だとなじり、意見や考えが違うと言っては批判します。特に今の時代はクレームとバッシングの時代です。批判的なことが起こるとインターネットやSNSでたちまち話題になり、非難の嵐「炎上」という事になり、謝罪に追い込まれます。
また、以前は許されていたことが今は厳しく裁かれます。とくにハラスメントという事が強く言われるようになりました。ハラスメントとは力の差を背景に起こる、言葉や行為で相手を傷つけることです。上下関係の中で起こるパワーハラスメント、男女間あるいは同性間の中でも起こるセクシャルハラスメント、普通の人間関係の中でも起きる嫌がらせによるモラルハラスメント、学校の先生と学生、生徒の間で起きるアカデミックハラスメント、ありとあらゆる分野でハラスメントが取り上げられます。例えば男性上司が女性の部下に「頑張ってるね」と褒める意味で肩を叩いても、部下が不快に思ったらセクハラが成立します。格闘技の練習の中でもコーチが選手に怒鳴り、叩いたりするとハラスメントと言われることがあります。これはこちら側にその意図がなくても、相手が不快に感じ、傷ついたらハラスメントが成立しますので、対応が難しいものです。一言でいうなら、昭和の時代では赦されていたことが、今は赦されなくなったのです。昭和の人間にとっては窮屈な時代でもあります。
さて、今日の福音書は、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とあります。この文章をそのまま読むと、裁かれないようにするために裁かない。罪人だと決められないようにするために人を罪人だと決めない。赦してもらうために人を赦し、与えたもらうために与えるように勧めているかのようです。まるで自己保身的な処世訓を述べているかのようです。しかし、イエス様の言葉の主眼はもちろんそこにはありません。41節には「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気がつかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか」と言われています。ここで言われている「おが屑」はイエス様が大工の子であったことから「おが屑」と訳されたのかもしれませんが、もっと小さな「ホコリ」のことです。
最初に申しあげたように、私たちは他者に肯定的な気持ちを抱くよりも、否定的、批判的な感情を多く抱きます。自分のことを棚に上げて、人の些細な欠点や問題点をあげつらうのです。人は神を神とせず、自分を神としようとする罪の中にあります。そこから生れ出る自我と欲望にまみれた存在です。それは人である以上避けられないものですし、その性質を背負いながらそれを良い方に生かしたいと努力しているつもりです。しかし、その性質は生易しいものではありません。少しでも人より得をしたい、前に出たい、人を蹴落としてでも上にのし上がりたいと鵜の目鷹の目で機会を狙っているのです。それも無意識のうちにです。それは私たちの日常の何気ない会話のなかにも見え隠れしますし、政治の世界では、露骨にギラギラと現れています。そしてそのような罪は、親子の間では断絶を生み、夫婦の間では仲たがいを生み、兄弟や友人の間では争いを生み、政治の世界では政争、国家間では戦争を生みだすのです。「自分の目の中にある丸太」とはまさに自己中心的な罪のことです。そして人は自分の大きな罪に気付かず、他者の言動に垣間見られるおが屑、更にホコリのような些細な罪を問題とするのです。
さて、イエス様の自分の罪に目を向けるようにとの言葉は、ご自分に従う者に向かって言われています。なにも漠然と、「人を裁くな」と言われているのではありません。神様に従う者の生き方として、自分の罪から目をそむけて歩むのではなく、むしろ自分の罪を見据え、深い悔い改めの内に歩むように求めておられるのです。悔い改めは、一時の反省ではなく、罪に主導権を渡していた生き方に決別することです。それは罪に支配されている私ひとりだけの力でなしえることではありません。神様の力をいただかなければなりませんし、主の祈りで「私たちに罪を犯した者を赦しましたから、私たちの犯した罪をお赦し下さい」と祈るように、他者の祈りを必要とすることです。神様の愛と隣人の祈りによって初めてわたしの罪は赦されるのです。
人は裁きの厳しい視線の中だけで生きることには耐えられません。親子関係の中でも、兄弟の間でも、友人やその他の人間関係の中でも、本当に生きることが出来るのは、愛の関係の中だけです。しかし、残念ながら、人は自然に任せると罪が支配して裁きが優先してしまいます。私たちの社会は、愛の関係を甘っちょろいと退け、厳しさと裁きこそが人を育て、成長させ、成功できると信じているのです。しかし、現実はどうでしょうか。人々は自分に向けられる厳しい目、裁きに疲れ、傷つき、倒れそうになっているのではないでしょうか。さらに考えると、自分に向けられる裁きによって疲れ傷つくだけではなく、人に裁きの視線を向ける時、実はその人自身をも不自由にしてしまっているのです。普通に考えても、人に対して厳しい視線を向ける時、攻撃的になります。その時その人は自由でゆとりがあるでしょうか。むしろ緊張感に満ちているのではないでしょうか。先週の日課にもあるように、ゆるしが先行する時にこそ、人の心は愛に満たされ自由になるのです。厳しさや裁きではなく、赦しと愛こそが人を癒し自由にするのです。今の時代はその赦しと愛を失った時代です。しかしだからこそイエス様の十字架の赦しと愛が必要な時代ともいえます。イエス様は十字架上で一緒にはりつけにされた罪人を赦しパラダイスに招かれ、裏切り悲しむ弟子たちに赦しと愛を与えられました。そして今、私たちにも赦しと愛を与えてくださるのです。
罪に基づく裁きの厳しい視線は人を生かしません。人を生かすことが出来るのは愛だけです。「弟子は師にまさるものではない」と、イエス様がその愛の先導者として歩んでくださることを教えられています。イエス様は十字架によってその愛を示し、愛のまなざしを今も絶え間なく私たちに注ぎ、私たちが自分も他者もそのまなざしの中で生きていることに気づき、互いに愛をもって支え合うように求めておられるのです。
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熊本及び九州各地で地震の被害に遭われた方々のために、
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熊本地震 日本福音ルーテル教会九州教区対策本部
「できたしこ ルーテル」
「できたしこ」とは・・・・?
「できたしこで行こう!」とは、今自分のできるだけのことを担っていこう!それで十分!という熊本弁だそうです。
2011年3月11日に起こった東日本大震災から、8年が経とうとしています。被害に遭われた方々の生活再建と、この悲劇が忘れ去られることのないよう、心よりお祈り申し上げます。日本福音ルーテル教会は、積極的にボランティアに参加しました。