2025年12月7日日曜日

12月14日(日)待降節第3主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。















つらいことがある方や、誰かに話を聞いても
らいたい方、このページの下の「コメントを
投稿」にご連絡ください。秘密は守ります。
お電話を希望する方は、
090-6461-5960(牧師直通)です。
名乗っていただかなくても大丈夫です。
キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま
いません。








★ 主日の祈り

主なる神様。

あなたを信頼する民の心を奮い立たせてください。

洗礼者ヨハネの宣教に耳を開き、あなたの救いを喜

び、悔い改めの実を結ぶことができますように。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)イザヤ書

       35章1節~10節                                                                 (新約聖書)ヤコブの手紙

       5章7節~10

(新約聖書)マタイによる福音書    
       11章12節~11節












 





「 つまずかない人は幸い 
       浅野 直樹 牧師

2025年11月30日日曜日

12月7日(日)待降節第2主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています













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★ 主日の祈り

主なる神様。

私たちの心を奮い立たせて、御独り子の道を備えさ

せてください。

御子の来臨によって、世界のすべての人々にあなた

の救いを知る知識を与えてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)イザヤ書

       11章1節~10節                                                                 (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       15章4節~13

(新約聖書)マタイによる福音書    
       3章1節~12節
わたしは、悔い改めを導くために、
あなたたちに水で洗礼を授けているが、
私の後に来る方は、
わたしよりも優れておられる。
わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。
その方は、聖霊と火で
あなたがたに洗礼をお授けになる。















 





「  イエスを指し示す手 
       浅野 直樹 牧師

2025年11月23日日曜日

11月30日(日)待降節第1主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

私たち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。












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いません。








★ 主日の祈り

主イエス・キリスト。

御力を奮って来てください。

迫り来る罪の危険から憐れみをもって守り、

救いの道を照らしてください。

父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です。

アーメン

 




(旧約聖書)イザヤ書

       2章1節~5節                                                                 (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       13章11節~14

(新約聖書)マタイによる福音書    
       24章36節~44節

だから、あなたがたも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである。












 





「  主が帰って来られる 
       浅野 直樹 牧師

 いよいよ待降節がはじまってまいります。教会
としては、今日から新たな1年の歩みがはじまっ
ていくわけです。この時期に度々お話ししている
ことですが、待降節はイエスさまのご降誕を待ち
望むことはもちろんのこと、イエスさまの再臨を
待ち望む時でもあります。ともすると、私たちは
日常生活に追われる中で主の再臨を忘れがちにな
ってしまうものですが、こういったことをきっか
けにして、心に刻み直すことは非常に大切なこと
だと思うのです。ですので、今日の、この待降節
第1主日の日課は、主の再臨に関する記事が選ば
れているわけです。
 40節にこんな言葉があります。「そのとき、
畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、も
う一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、
一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」。
非常に印象深い言葉です。この言葉を一つの手が
かりに描かれたアメリカの小説に、「レフト・ビハ
インド(Left behind)」というものがあります。
映画化もされていますが、私は小説の方は読んで
いませんで、映画の方は見たことがあります。今
日のためにU-NEXTで改めて見直してみました。
 映画の方はなんだかパニック映画になっていま
すので、どれほど小説に忠実かは分かりませんが、
非常にアメリカ的なものも感じます。主人公は、
おそらく女子大学生。彼女は父親の誕生日を家族
と祝うために久しぶりに戻ってくるのですが、父
が急な仕事が入ったということでガッカリします。
彼女の父親は旅客機のパイロットですので、空港
で父親を待つことにしました。すると、CA(客室
乗務員)と親しげに歩いているのを目撃します。
 そんな父親は娘を見つけて近寄ってきますが、
その指には結婚指輪がありません。どうやら、そ
の女性と浮気をしているようです。しかし、娘は
どこか同情的。なぜなら、そうなってしまった原
因が母親にあると思っているからです。母親は宗
教、ここではもちろんキリスト教ですが、それに
のめり込んでしまったと彼女には思えたからです。
そして、しきりに家族にも信仰を薦める母親に対
して嫌悪感を持っていたのです。母のせいで家族
がバラバラになってしまった、と。
 私としては、映画での母親の描き方はそれほど
強烈には思われませんでしたが、アメリカでは少
し問題になっているのかもしれません。
 現在、安倍元首相襲撃事件の裁判が行われ、そ
の事件に至った経緯が少しずつ分かってきていま
す。確かに、山上被告の母親があまりにも旧統一
教会にのめり込んでしまったが故に、山上被告は
じめ子どもたちが悲惨な状況に陥ってしまったこ
とは同情できます。もちろん、いっさい旧統一教
会の肩を持つつもりもありません。
 あくまで個人的な感想ですが、私自身は解散も
やむなしと思っています。しかし、だからと言っ
て、何かを熱心に信仰することは悪いことなのか、
怖いことなのか。家族に信仰を薦めることは害悪
でしかないのか。自由な意思での献金は不正なの
か。私は短略的にそう考えるのは間違っていると
思う。確かに、山上被告の母親の信仰のあり方は
どこか間違っているだろうし、それを修正するど
ころか、より煽っているような旧統一教会のあり
方は許せないと思う。しかし、果たして本当に家
族に信仰を薦めることは悪なのか。家族は家族、
私は私と切り離すことが善なのか。
 少なくとも、我が家では強要はしてこなかった
と思いますが、信仰は大いに薦めてきました。家
内は昔、よくこう言っていたものです。子どもた
ちに道に飛び出してはいけないと交通安全は教え
るのに、なぜ信仰を教えないのだろうか。どちら
も命に関わるのに、と。
 先ほどの映画では、アメリカ的と言いましたが、
確かに劇中に熱心なキリスト者が終末論について
語るちょっときついシーンがありましたが(例え
ば、災害も神さまがもたらしたものとして感謝す
べきだ、など)、私自身そういったことについて
いけない感はありますが、では、あまりに物分か
りのいい優等生っぷりで良いのか、と言えばどう
だろうか。イエスさまも信仰が時に家族にも亀裂
を生むことがある、と言われているのに。簡単な
ことではないことも重々承知していますが、よく
よく考えていく必要はあるのではないでしょうか。
 とにかく、信仰の話をしだした母親に反発し、
主人公は弟を連れてショッピングモールに逃げ込
みます。すると、着ていた服を残して、突然弟が
消えてしまうのです。何が起こったのかも分から
ずボーゼンとしていると周りからも悲鳴が聞こえ
出す。同時刻に、父親が操縦していた飛行機でも
同様のことが起こる。子どもたちといく人かの大
人たちが急に消えてしまった。副操縦士も消えて
しまって飛行機が安定を失ってしまったので、急
いで父親は飛行機を持ち直します。そんなふうに
世界中で人々が忽然と消えて、パニックが起こる
わけです。
 興味深いことに、消えてしまった弟を探しなが
ら主人公が家に帰ってみると、母親も消えてしま
ったことが分かる。どうもここで薄々気付いたよ
うです。以前母親が言っていたように、多くの人
々が消えてしまったのではないか、と。そこで、
母親の通っていた教会に行ってみた。当然、誰も
いません。しかし、中に進んでいくと、一人男性
が座っているのに気付きます。恐る恐る近づいて
みますと、なんとそこにいたのはその教会の牧師
でした。もうお分かりのように、罪のない子ども
たちと信仰深い人々だけが消えてしまったわけで
すが、教会員は消えたのに、牧師一人が残った。
なんとも皮肉です。
 皆さんは消えてしまった人と残された人と、ど
ちらが良かった、と思いますか。おそらく、その
まま残った人からすれば、急に消えてしまった人
は不幸だ、と思ったでしょう。とんでもない災害
に巻き込まれたのだ、と。だからパニックになっ
ていた。ひょっとしたら、私たちもそう思うかも
しれない。消えてしまった人よりも、今残ってい
る人の方が幸いだ、と。でも、消えてしまった人
は天国に行ったのです。少なくとも、そういった
ストーリーです。
 でも、それを聞いても、私たちは果たしてどう
思うだろうか。消えた方が幸せだと思うのか。そ
れとも、残された方が幸せなのか。印象深いシー
ンがあります。残された初老の男性です。彼はお
そらく猛烈なビジネスマン、しかも、結構危ない
橋も渡っていそうです。これまでの人生、ただひ
たすらに金儲けに、ビジネスに生きてきた。家族
も顧みないで。そんな男性が懺悔のようなことを
言い出す。もっと家族を大切にしていれば、と。
 そして、こう吐露する。娘がいるんだが、彼女
が消えていてくれればと思うよ。あくまでフィク
ションです。この物語・映画で消えてしまったの
は、善人、罪のない人、信仰深い人。だから、赤
ん坊や子どもたちはすべて消えてしまった。大人
で消えてしまった人々の持ち物を調べてみると、
聖書の言葉を身につけていたり、聖書研究会に参
加していたことが後で分かってくる。そう思わせ
るような聖書の言葉には、確かに違いない。
 しかし、皆さんもよくよく読んでみればお分か
りのように、そんなことは一言も触れられていな
いのです。善人だからどうだとか、信仰深いから
どうだとか、そんなことはひとことも言われてい
ない。ただ、「そのとき、畑に二人の男がいれば、
一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人
の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、
もう一人は残される。」と言われているだけです。
 誰が天国に行って、誰が地獄に落とされるか、
など、ここでは関心がないのです。そうではなく
て、42節、「だから、目を覚ましていなさい」
ということです。いつ、どんな時に、どんなタイ
ミングで、イエスさまが来られるか、帰って来ら
れるか、誰も知らないのだから、注意して、目を
覚ましていなさい。ここが言いたいところ。
 物語としては、想像の翼を広げて考えてみると、
確かに面白い、興味深いかもしれませんが、そこ
が重要なのではない。いつ終わりが来るか、主の
再臨が起こるか、誰も知らない。イエスさまだっ
て知らない。父なる神さましか知らない。でも、
それは必ず起こる。世界は必ず終わりを迎えるし、
イエスさまは必ず帰って来られる。だから、目を
覚ましていなさい。目を覚ましていなさい、と繰
り返しておられるのです。
 では、なぜそれほどまで私たちに注意を促して
おられるのか。そこにノアの洪水物語を例として
出されているわけです。私たちが忘れやすいから
です。気づかないからです。もっと言えば、神の
国の到来・実現よりも、イエスさまの再来・再臨
よりも、日々の生活の方が私たちにとっては関心
があるし、重要だとどこかで思っているからです。
 だから、こう警告されている。37節、「人の
子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪
水になる前は、ノアが方舟に入るその日まで、人
々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして
いた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさら
うまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場
合も、このようである。」。
 今日の箇所で特徴的なのが、この「突然さ」で
す。予期しない時に、です。これまで見てきた終
末の物語りは、だいたい前兆があるものでした。
戦争があったり、天変地異があったり、異常気象
があったり、飢饉があったり、迫害があったり、
と、世の終わりに向けての前兆があるが、終わり
はすぐには来ない、というものです。だんだんと
ひしひしと終わりがやってくる。それに対する備
え。
 しかし、それに対して今日の箇所は「突然」・
「急に」です。災害大国と言われる国に住まう私
たちは、さまざまな災害を体験し、見聞きしてき
ました。予測可能なものについては避難ができる。
しかし、そうでないことも多い。あらかじめ予測
し、用意していること、そして、安易に考えない
ことを学んできたはずです。これらが生き死にを
左右することになる。津波に備えて日常的に訓練
し、それを実際にも行うことができた者たちが助
かり、軽く考えて行動を取らなかった者たちが、
残念ながら巻き込まれてしまったことも少なくな
かった。だから、用心する。備える。目を覚まし
ている。
 でも、もっと大切なことがあるようにも思うの
です。それは、私たちが帰りを待つお方は、クリ
スマスのイエスさまだ、ということです。もちろ
ん、イエスさまは裁き主としても来られる。終末
・再臨とは、そういった時でもある。世界の、あ
るいは人生の、総決算の日です。そこで、何をし
てきたのか、して来なかったのかが計られる厳し
さがある。
 しかし、それをなさるのは、私たちのためにこ
の地上にお生まれくださったイエスさま。私たち
を救わんがために、最も小さき者となってくださ
ったイエスさま。私たちの仲間となるために、神
の子の身分を捨てて、私たちと同じ人として生き
てくださったイエスさま。私たちを罪から救うた
めに、私たちの罪をご自分の身に一身に背負って
くださり、十字架の贖いの業を成し遂げてくださ
ったイエスさま。私たちがもはや死を恐れること
なく、永遠の命を望み見ることができるように、
私たちのために初穂として復活してくださったイ
エスさま。
 そのイエスさまこそが私たちの再臨の主。その
イエスさまが帰って来てくださる。それを私たち
は待つのです。それはとても嬉しい、待ち遠しい
ことではないでしょうか。
祈ります。
天の父なる神さま。
御名を褒め称えます。
今日も敬愛する皆さんと共々に礼拝の恵みに与る
ことができまして感謝いたします。
今日から待降節・アドヴェントがはじまります。
私たちのために、私たちのところに来てくださる
主イエスさまを待ち望む時です。
どうぞ、そのために私たちの心を備えていく時で
ありますように。
今世界は終末の兆しとも思えるような、様々な災
禍を経験しているところです。
戦争があり、大きな自然災害があり、気候変動が
あり、疫病の世界的流行があり、多くの人々が苦
しい思いをしておられます。
どうぞ憐れんでください。
しかし、それでも私たちは勇気を、希望を失いま
せん。
なぜなら、私たちのところに来てくださるのが、
帰って来られるのが、イエスさまだからです。
私たちを愛し、正してくださるイエスさま以外に、
何を待ち望み得ましょうか。
どうぞ、このクリスマスの季節、一人でも多くの
方々がこのイエスさまの恵みに触れることがおで
きになりますように、この信仰に与ることができ
ますようにお導きくださいますようお願いいたし
ます。
私たちの主イエス・キリストの御名によって祈り
ます。
アーメン




2025年11月16日日曜日

11月23日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

私たち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。













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★ 主日の祈り

まことの命である神様。

あなたはあなたに仕える自由と、尽きぬ喜びを私た

ちに与えてくださいます。あなたを崇め、たたえ、

大いなる栄光に感謝します。

たえずいつも私たちと共にいて、守り治め、この世

を御心にかなう素晴らしい住まいとしてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)エレミヤ書

       23章1節~6節                                                                 (新約聖書)コロサイの信徒への手紙

       1章11節~20

(新約聖書)ルカによる福音書    
       23章33節~43節









   





「  わたしたちの王だからこそ 
       浅野 直樹 牧師

2025年11月9日日曜日

11月16日(日)聖霊降臨後第23主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

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★ 主日の祈り

神様。

あなたは、依り頼むすべての者を守ってくださ

います。

あなたなしには聖も力もありえません。

あなたのご支配と導きによって、永遠のものを

失うことなく、過ぎ行く今を生きることができ

るように、私たちを憐れんでください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)マラキ書

       3章19節~20節a                                                                 (新約聖書)テサロニケの信徒への手紙(二)

       3章6節~13節

(新約聖書)ルカによる福音書    
       21章5節~19節





   





惑わされないように気を付けよう 
       浅野 直樹 牧師

2025年11月3日月曜日

秋の墓前礼拝

 11月2日、秋の墓前礼拝を行いました!







「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝え

られているのに、あなたがたの中のある者が、死

者の復活などない、と言っているのはどういうわ

けですか。死者の復活がなければ、キリストも復

活しなかったはずです。・・・しかし、実際、キ

リストは死者の中から復活し、眠りについた人た

ちの初穂となられました。」

     コリントⅠ 15121320

 奨励で、浅野先生は力強く、私たち人間もキリス

トと同じように死者の中から復活するのだと解き証

しされました。本当だろうか?疑ったことのない信

者は、恐らくいないと思います。キリストは神なの

だから、その復活は信じられる。でも神ではないた

だの人間に過ぎない私たちは、復活できるのだろう

か?また、復活してどうなるのだろうか?

 しかし、パウロははっきりと私たちも死者の中か

ら復活すると述べています。祈りの中に、「私たち

は、今住んでいる地上の幕屋が壊れても、神が備

えてくださる家があることを知っています。それ

は人の手によらない永遠の家です。」とありまし

た。それはどんな家なのだろうか?

 それを、今知って安心したい!つい、そう思って

しまうのが、人間の悲しいところですが、私たちは、

信じましょう。そこには必ずイエス様がいてくださ

り、また召天された懐かしい人々と再び会うことが

できるのです。死してなお、私たちには復活後の新

しい命があるのです。






 


この日は、全聖徒主日でした。召天された兄弟姉

妹の写真とともに礼拝しました。遺影の方が出席者

よりも多いことが寂しかったけれど、私たちは、と

ても安らかな気持ちでこの日を過ごすことができま

した。


2025年11月2日日曜日

11月9日(日)聖霊降臨後第22主日礼拝のご案内

  諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

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★ 主日の祈り

永遠の贖い主である神様。

聖霊によって私たちの心は新たにされます。

すべてのものの終わりと裁きの日をいつも心に

とめて、地上の生活を聖く送り、復活の喜びへ

と至らせてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)ヨブ記

       19章23節~27節a                                                                 (新約聖書)テサロニケの信徒への手紙(二)

       2章1節~5節、13節~17節

(新約聖書)ルカによる福音書    
       20章27節~38節
神は死んだ者の神ではなく、
生きている者の神なのだ。
すべての人は、
神によって生きているからである。



    





「 復活について語るイエス 
       浅野 直樹 牧師