2026年6月7日日曜日

6月14日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。



★ 主日の祈り

憐れみ深い神様。

あなたは私たちに道を開き、御許に導いてくだ

さいました。

私たちの心にあなたの愛を注ぎ、溢れる喜びを

もって御国の祝福を分かち合い、御子の福音を、

忠実に宣べ伝えさせてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)出エジプト記 

       19章2節~8節a                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       5章1~8節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       9章35節~10章8節


群衆が飼い主のいない羊のように
弱り果て、打ちひしがれているのを見て、
深く憐れまれた。

















「  羊のように 

       秋久 潤 牧師 


  聖書に記されていることを、2000年前の遠い場所で

起きたこととしてではなく、現在の自分のこととして

主観的に読むと、聖書との関わりが、より親密で生き

たものとなると思います。

 本日の福音書は、イエスが福音伝道と、あらゆる病

気や患いをいやすわざを「町や村を残らず回って」お

こなった場面から始まります。ここをイエスが、日本

中のすべての町や村を残らず回って、福音を宣べ伝え、

私たちのありとあらゆる病気や患いをいやしたとして

みてください。

 イエスがすべての町や村を残らず回ったことは、救

いはすべての人の上にあることを表しています。イエ

スは、これらの働きを続けながら、私たち群衆が飼い

主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている

のを見て、深く憐れまれます。

 イエスは私たちの内に、私たちが自覚している以上

の大きな問題を見ています。病気や人間関係の悩み、

お金の悩み、生活の悩みなど、そういった現実的な悩

みと共に、私たちが自覚していない魂の飢え渇きを見

ているのです。

 羊は、羊飼いなしには生きていくことができない無

力な動物です。羊の視力は数メートル先までしか及ば

ないと言われています。そのために、良い羊飼いを持

たない羊は、もし群れを離れたら、自力で群れに戻る

ことができません。

 羊である私たちには、導き手である羊飼いが必要で

す。弱った私たちを力づけ、病める私たちを癒し、傷

ついた私たちを包み、散らされた私たちを連れ戻し、

失われた私たちを捜し求めてくださる羊飼いが必要な

のです。

 イエス・キリストこそが私たちの羊飼いとなって、

私たちを深く憐んでくださるのです。イエスが私たち

を憐れむのは、イエスが私たちの苦しみを知っている

からです。

 イエス・キリストは、私たちを深く憐れみ、救いの

言葉を語ります。またそれは、いやしの行為となって

表われます。イエスは、ご自身がメシヤであることを

証明するためにいやしのわざを行うのではありません。

イエスの内にある愛がそうさせるのです。

 世の中のありとあらゆる苦しみ、悲しみを前にして、

イエスはその嘆きの部分だけを見るのではありません。

その向こうにある神の恵みと栄光を見ているのです。

 私たちの困窮を見て、イエスは、私たちの魂を導く

ための働き手が少ないと考えます。イエスはこう言い

ます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収

穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主

に願いなさい」。そしてイエスは、働き手として十二

人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能を授けま

す。

 ここまでは、飼い主がいない羊のように魂が飢え乾

いている群衆を私たちに置き換えてみましたが、この

十二人の弟子のことも、私たちのこととして読んでみ

ましょう。この十二人の中に、自分の名前も載ってい

るとしてみてください。

 十二人の名前のリストのうち、徴税人マタイと熱心

党のシモンには、名前だけでなく肩書きが記されてい

ます。もしここに自分の肩書きが記される時は、どん

な肩書きになるのかを想像してみてください。

 ここでマタイとシモンにそれぞれ「徴税人」「熱心

党」と肩書きが記されているのは、イエスの弟子選び

がバラエティーに富んでいることを表すためだと思い

ます。徴税人と熱心党員は、対極の存在だったからで

す。

 熱心党員とは律法に対して非常に熱心だったユダヤ

人のことで,彼らは自分たちの国であるユダヤを支配

していたローマ帝国を拒み,ローマ帝国を自国から追

放しようとした愛国主義者です。

 一方、徴税人は、そのローマ帝国に納める税金を徴

収し、さらに自分の取り分を上乗せして、本来の何倍

ものお金を同胞のユダヤ人から巻き上げていました。

それゆえに徴税人は、人々から、ローマ帝国に魂を売

り渡した、金に貪欲な裏切り者として嫌われていまし

た。

 しかしイエスはここで、そのような愛国主義者と、

いわば自国を売って生きていると見なされていた人を

同時に召しているのです。水と油のように相容れない

熱心党員と徴税人が、イエス・キリストのもとで、弟

子として集められるのです。

 イエスは弟子たちに、汚れた霊を追い出し、あらゆ

る病気や患いをいやすための権能をお授けになりまし

た。それは、救いのわざをなす力が弟子たちに与えら

れたということです。ですから私たちも、隣人への救

いのわざを行いましょう。救いのわざと言っても、そ

れは、日々のほんのささやかなことでもいいのです。

 最近、私が小学4年生頃のある出来事をふと思い出

しました。冬の寒い日のこと、授業中に何かの課題で、

他の生徒と席を替わった時のことでした。私がある女

の子の席に座り、それから自分の席に戻ったあと、私

が座っていた女の子の席に私の体温が残っていて、椅

子が温かくなっていたようでした。そのことを、自分

の席に戻った女の子が嬉しそうに「ありがたい」と言

ってくれたことが大きな印象をもって私の心に残って

います。

 私は、自分に自信のない子供でした。そんな私に、

その女の子が、私の体温が自分の椅子に残っているこ

とを嫌がらずに喜んでくれたことが、私は嬉しかった

のだと思います。些細なことですが、あの出来事は一

生、私の心のどこかに残り続けると思います。本人に

そんなつもりはなくとも、その女の子はささやかな救

いの灯(ともしび)を私の心に灯してくれたのです。

 以前、エマオの途上をイエスと二人の弟子が共に歩

いて行く箇所(ルカ24:13)で、こうお話しさせてい

ただきました。「私たちは、いつも希望の明日に向か

って押し出され、主イエス・キリストと共に日々を歩

んで行くのです」。

 人生において辛いことや苦しいことがたくさんあり、

身体も心も疲れている日々の中では、この「希望の明

日に向かって押し出され」という言葉は、相容れなく

感じるかもしれません。ですが、これまではピンとこ

なかった言葉が、ある時、心にピッタリとくることが

あるのだと思います。

  聖霊に満たされた私たちは、希望の明日に向かって

押し出され、主イエス・キリストと共に歩んでいくの

です。神は愛によって、主イエス・キリストを私たち

のもとに遣わしてくださいました。

 私たちは、イエス・キリストに心を委ね、一日一日

を新たな気持ちで、共に歩んでいきましょう。

 

お祈りをいたします。

 神様、あなたの愛のうちに、私たちが一瞬一瞬を喜

びながら生きていくことができますように。私たちの

喜びが、いつもあなたと共にありますように。御子イ

エス・キリストによって祈ります。

アーメン


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