2026年10月25日日曜日

11月1日(日)全聖徒主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります









教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


全聖徒主日とは?


先に天のみ国に召された、すべての信仰者を覚える日です。召天者記念礼拝を行い、当教会に連なり生涯を終えられた方々を偲び、その信仰の歩みをしっかりと受け継いでいく想いを新たにしたいと思います。

 当日は、亡くなられた方々のお写真を礼拝堂に飾ります。また、天のみ国の祝宴に共にあずかる、聖餐式も執り行います。















★ 主日の祈り

全能の神様。

あなたは、御子、主イエスの神秘のからだの交わりに

民を編み込み、一つにしてくださいました。

信仰と献身を貫いた聖徒たちに倣って、あなたを愛す

る者たちに用意された言い尽くせない喜びに与らせて

ください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(新約聖書)黙示録 

       7章9節~17節                                                                            (新約聖書)ヨハネの手紙(一)

       3章1節~3節
(新約聖書)マタイによる福音書    

       5章1節~12節














 「 幸い 」

       秋久 潤 牧師 


2026年10月18日日曜日

10月25日(日)宗教改革主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります













教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

恵み深い天の父なる神様。

御子イエス・キリストによって、聖なる公同の教会

を真理と平和で満たしてください。

御子により、腐敗をきよめ、過ちを改め、正しいと

ころを強め、必要を満たし、分かたれたふたつをひ

とつに戻してください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)エレミヤ書 

       31章31節~34節                                                                            (新約聖書)ローマの信徒への手紙(一)

       3章19節~28節
(新約聖書)ヨハネによる福音書    

       8章31節~36節

「わたしの言葉にとどまるならば、
あなたたちは本当に私の弟子である。
あなたたちは真理を知り、
真理はあなたたちを自由にする。」












 「 真理と自由 」

       秋久 潤 牧師 

 聖書は、神の命と聖霊が宿った生きた書物です。皆

様が、聖書を開き、直に聖書に触れる機会が多くあり

ますことを願っています。

 聖書をきちんと読もうとすると、なかなか取り掛か

れないことがあるでしょう。ですが、聖書をじっくり

と読まなくとも、たとえば椅子に座っている時など

に、聖書を開いてテーブルの傍らに置いておき、聖書

の言葉をいつも少しずつ目に入れて取り込んでいくだ

けでも、聖書と親密につながることができると思いま

す。

 聖書を開くごとに、皆様の心と魂に、生きた水が川

となって流れ込むように神の命と聖霊が注がれますよ

うに。皆様が神の愛と喜びに満たされますことをお祈

りしています。

 本日は、宗教改革主日です。今から約500年前の

1517年10月31日、マルティン・ルターが、「95ヶ条の

論題」を掲げて、教会による贖宥状(しょくゆう

じょう:いわゆる免罪符)の販売を批判したのが、宗

教改革の始まりとなりました。

 ルター(1483年−1546年)が生きた中世の末期は、

死が隣り合わせにある「死と不安」の時代でした。こ

の頃、ペストの大流行があり、ヨーロッパの人口の4

分の1以上が減ったと言われています。日常にペストや

戦争による死があふれ、人々は死に脅えていました。

 そんな中、芸術においても、骸骨などがモチーフと

なった死の香りと不吉さが漂う作品が多く生まれまし

た。「メメント モリ (memento mori)」とは、ラテン

語で「死を思い出せ」「死を忘れるな」という意味を

持ちます。死がいつも身近にあったこの時代、「メメン

ト モリ(死を忘れるな)」の声が、渦を巻くように社

会全体で高まっていたのです。

 死んだ後に天国へ行くことができるのか、地獄に落

ちるのか、天国と地獄の間でしばし苦しめられる煉獄

(れんごく)にとどめ置かれるのか。死におけるこう

した深刻な不安のもと、人々は、それを買えば罪が赦

されるという贖宥状(しょくゆうじょう:免罪符)の

購入に走ったのです。

 贖宥状(しょくゆうじょう)とは、教会が販売して

いた、罪の赦しにおいて課される贖(あがな)いが免

除される証書です。当時は、罪の赦しの贖(あがな)

いをやりきらずに死ぬと、死後に天国でも地獄でもな

い煉獄(れんごく)という所に行き、やり残した贖い

に応じた期間、煉獄にとどめ置かれると考えられてい

ました。そして、贖宥状を買うと煉獄での苦しみから

逃れることができるとされていたのです。贖宥状は、

自分自身のためだけでなく、既に亡くなった人のため

に買うこともでき、それを買えば、亡くなった人がい

ま煉獄にとどまっていたとしても、即座に天国に入れ

ると言われました。それゆえに人々は、亡くなった人

のためにも贖宥状を買いました。

 溺れる者は藁をも掴むというたとえがあります。民

衆は、こぞって贖宥状(しょくゆうじょう)を自分の

死後のために、あるいは今、煉獄(れんごく)で苦し

んでいるかもしれない亡き父母や家族のためにも購入

したのです。

 しかし、罪の赦しを金銭で解決するという贖宥状の

在り方は間違っているとルターは確信します。ルター

は、人間が聖書の真理に立ち返り、自らが神の前に立

ち、神の前で悔い改めることの必要性を人々に説きま

した。

 本日の福音書は、イエスが御自分を信じたユダヤ人

たちに、真理について次のように諭す場面から始まり

ます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたち

は本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知

り、真理はあなたたちを自由にする」。

 イエス・キリストの言葉にとどまるならば、私たち

はキリストの弟子となって真理を知り、その真理が私

たちを自由にすることを、イエスは私たち人間に伝え

ます。

 真理とは、いったい何でしょうか。イエスが裁判に

かけられたとき、真理について語ったイエスに、ポン

ティオ・ピラトはこう問いました。「真理とは何か」

(ヨハネ18:38)。ピラトのこの問いは、私たち人間の

問いを代弁していると思えます。

 真理という言葉は、「真実」よりもさらに深く、不

動の軸をもった本質そのものを示す言葉です。真理

は、「真実」を越えて、永遠に決して変わることのない

永久不変のものです。

 イエスはこう言われました。「わたしは道であり、真

理であり、命である」(ヨハネ14:6)。真理とは、イエ

ス・キリストご自身のことであり、真理そのものであ

るイエス・キリストは、私たちを罪と死から解放して

自由にします。私たちが、キリストによって真理の霊に

従って歩むとき、私たちは本当の自由を得ることがで

きるのです。

 今から約500年前の1517年10月31日、マルティン・

ルターが神の真理を求めたことが、宗教改革の口火を

切ることになりました。

 社会全体を大きく揺り動かし、改革を推し進めてい

ったルターでしたが、強靭な人物だったわけではあり

ませんでした。数々の病気やうつ状態によって、肉体

的にも精神的にも苦しめられていたようです。

 ルターは、うつ状態になった時、自分は人々を間違

った方向に導いてしまったのではないかという自責の

念に苦しめられたこともあったと言われています。 

 苦悩したり後悔する中で、なお神の真理を求め、模

索しながら信仰の道を歩んでいたルターを思わされま

す。

 少し話は変わりますが、フローレンス・ナイチンゲ

ール(1820年─1910年)という人について、最近、私

の中で思い起こされた話があります。

 ナイチンゲールは、クリミア戦争で看護婦として従

軍して、負傷した兵士たちを精力的に看護して助けた

ことで有名な人物です。

 「クリミアの天使」、「白衣の天使」と呼ばれ、戦場で

兵士たちを献身的に介護したことで知られているナイ

チンゲールですが、彼女は他にも、社会起業家、統計

学者などの様々な肩書きを持っていました。

 次のことは、私が何かで読んだことがあるだけで、

真偽のほどは定かではありませんが、ナイチンゲール

は「クリミア戦争での看護婦の仕事が、自分の人生に

おいて最もくだらない仕事だった」と言っていたこと

があるということでした。

 神の声に導かれ、自分の人生を捧げるようにして始

めたことが、後になってみると「自分の人生において

最もくだらないことだった」と思えることが、私たち

人間にはあるかもしれません。

 しかし、「人生において最もくだらないことだった」

と後から感じるその事柄の中にこそ、自分の人生にお

ける最も本質的なものと、価値ある宝が秘められてい

る場合があるのではないでしょうか。

 さて、10月も終わりに近づき、もう少しで11月に入

ります。

 イエス・キリストはこう言われました。「あなたたち

は真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

 私たちが、どんなに後悔し、落ち込み、悩んでいる

時でも、決して揺らぐことのない神の真理がとこしえ

に立っていて、私たちは神の真理によって、あらゆる

嘆きや思い煩い、罪と死から解放されて自由になれる

のです。

 私たちが主イエス・キリストとひとつになっている

とき、私たちは神の愛と神の真理とひとつになってい

ることを覚えながら、私たちは、神への祈りと賛美の

うちに、この地上での日々を共に歩んでいきましょ

う。

 

 お祈りをいたします。

 神様。御名を賛美いたします。私たちひとりひとり

の人生が、あなたの御手の内で創造される、かけがえ

のない大切なものであることを、いつも私たちが忘れ

ずにいることができますように。あなたの愛のうち

に、日々、私たちが生かされていることに感謝いたし

ます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン


2026年10月11日日曜日

10月18日(日)聖霊降臨後第21主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります












教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

王である神様。

私たちの心の内に聖座(みざ)を据えてくださ

い。

あなたにかたどられた者として生き、あなたの

栄光のために行動し、贖われた者として、あな

たのものをあなたにお返しすることができます

ように。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン







(旧約聖書)イザヤ書 

       45章1節~7節                                                                            (新約聖書)テサロニケの信徒への手紙(一)

       1章1節~10節
(新約聖書)マタイによる福音書    

       22章15節~22節

「皇帝のものは皇帝に、
神のものは神に返しなさい。」











 「 肖像と銘 」

       秋久 潤 牧師  

 週報には、次回の礼拝の聖書箇所も記載しておきま

すので、お家であらかじめ読んできていただけると、

より深く聖書と親しめるかと思います。聖書を開くご

とに、皆様の心と魂に、生きた水が川となって流れ込

むように神の命と聖霊が注がれますように。皆様が神

の愛と喜びに満たされますことをお祈りしています。

 

 本日の福音書の要となる言葉は、イエスが言われた

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

です。これはイエスが、ご自分を罠にかけようとする

者たちから、皇帝に税金を納めることの是非について

問われた時の答えです。

 ファリサイ派の指導者たちは、イエスを激しく憎ん

でいました。自分たちの権威を脅かすイエスをこれ以

上 野放しにできない、殺すしかないという気持ちでい

っぱいでした。しかし、イエスに直接手を下して殺す

ことはしません。自分たちがリスクを冒すことなくイ

エスを葬り去るにはどうしたら良いか、彼らは策略を

めぐらせます。そこで、言葉尻をとらえてイエスを罠

にかける作戦を立てました。

 彼らはこの計画を遂行するために、ヘロデ派の人々

と一緒にイエスのところへ手下を遣わします。イエス

を陥れるためにファリサイ派とヘロデ派が協力するこ

とは、本来あり得ないことでした。ファリサイ派とヘ

ロデ派は、全く違う思想のもと、互いに対立している

グループだったからです。

 ファリサイ派は、ユダヤ教の律法と言い伝えを尊守

する禁欲的な人々であり、ローマ帝国が自分たちユダ

ヤ人を支配していることに反発心を持っていました。 

 他方、ヘロデ派は、ガリラヤ領主のヘロデ・アン

ティパスという人物を支持する人々です。ヘロデ派

は、ローマ帝国の支配を受け入れたうえで地上の繁栄

を楽しもうとしました。

 ファリサイ派とヘロデ派という、政治的立場が180

度異なり、本来手を結ぶことのないはずの両者が、イ

エスを罠にかけるために協力しあったのです。

 遣わされたファリサイ派とヘロデ派の者たちは、イ

エスのもとに来て、作戦の一環としてまずイエスを次

のように褒め称えました。「先生、わたしたちは、あ

なたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だ

れをもはばからない方であることを知っています。人

々を分け隔てなさらないからです」。

 彼らがイエスを褒め称えながら言った「人々を分け

隔てしない」という言葉は、直訳では「人々の顔を見

ない」ということです。これは、あなたは人の顔色を

見て言うことを変えるようなお方ではないから、私た

ちの質問にもそうしてくださいという、イエスを褒め

そやしつつ、イエスの失言を誘おうとする言葉です。

 ところが、彼らが心にもなく言ったイエスを称える

この言葉は、彼らが意図しないところで、イエスの真

実の姿を言い表しています。イエスが見るのは人々の

顔色ではなく、「神の御顔」と「神の道」なのです。

 さて、彼らはこの前置きを終え、イエスにこう問い

ました。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適ってい

るでしょうか。適っていないでしょうか」。

 この質問は、二択のようでいて、どう答えても、イ

エスを苦しい立場に陥れる罠が仕掛けられていまし

た。イエスが「ローマ皇帝に税金を納めるべき」と答

えれば、ローマ帝国の支配を支持することになり、多

くのユダヤ人を敵に回すことになります。

 逆に、「皇帝に税を納めてはならない」と言えば、

時の支配者であるローマ帝国への反逆だと訴えられま

す。

 彼らの悪意に気づいたイエスは、税金として納める

貨幣を見せるようにと言いました。そこで彼らが持っ

て来たデナリオン銀貨には、当時の皇帝のティベリウ

ス(在位 紀元後14 - 37年)を神格化した肖像と銘が刻

まれていました。それは「ティベリウス・カエサル・

アウグストゥス、神君アウグストゥスの子 

(TI (BERIUS) / CAESAR / DIVI / AVG (VSTYS) / F (ILIUS) 

/ AVGUSTYS)」

という銘です。ローマ帝国は、皇帝が新しくたてられ

るごとにコインに皇帝の肖像と銘をいれてその支配を

表していました。皇帝の権力の大きさを示すために、

税金はそのお金でなければ納められなかったのです。

 皇帝の肖像と銘が刻んであるデナリオン銀貨につい

て、今度はイエスがこう問い返しました。「これは、

誰の肖像と銘か」。彼らは「皇帝のものです」と答え

ます。

 イエスはこう言います。「では、皇帝のものは皇帝

に、神のものは神に返しなさい」。これがイエスの答

えでした。皇帝の肖像と銘が刻まれているものは皇

帝のものなのだから皇帝に返しなさい。そして、神の

肖像と銘が刻まれているものは神のものだから神に返

しなさい、ということです。

 皇帝に税金を納めることが律法に適っているかどう

かなど、そんなことは特にイエスの関心事ではなかっ

たのだろうと思います。

 イエスのこの答えは、そんなことよりも、あなた自

身のことを見つめ、あなたと神との関係を見つめなさ

いと言っているようにも聞こえます。

 デナリオン銀貨には、皇帝の像(イメージ)が刻ま

れていました。では、神の像が刻まれているものとは

何でしょうか。天地創造の出来事が記されている創世

記には、こう記されています。「神は御自分にかたどっ

て人を創造された。神にかたどって創造された。男と

女に創造された」(創世記1:27)。

 神の像が刻まれているものとは、神にかたどって創

造された私たち人間のことです。神の像が刻まれてい

る私たちは、神のものです。ですから私たちは、自分

自身を神にお返ししながら生きていくことが求められ

ているのです。

 生きていくことは本当に大変で、辛く苦しいことば

かりだと思っている人は多いでしょう。しかし、人生

の中で、なぜこんなことが起きてしまうのかという辛

く苦しい目に遭っている時も、選択を誤って悲惨なこ

とになってしまったと後悔している時も、いつでも私

たちは神の御手の中にいて、私たちは神のものなので

す。

 私たちの心と体は自分自身のものではなく、神のも

のだと知る時、私たちは神にお返しするにふさわしい

心を持って、神のものである自分自身を大切にしよう

とするでしょう。

 人間は、自分に近しい存在、たとえば家族やパート

ナーのことなどを、自分のもののように思ってしまう

ところがあると思います。

 しかし身内や隣人もまた、自分のものではなく神の

ものだと知る時、私たちの目の前に見えてくる世界

が、新しく開かれていくでしょう。

 身近な人のみならず、お店の店員さんや通行人な

ど、目に映るすべての人が神の像が刻まれた尊い存在

であることを覚えながら、私たちは心の内を希望と喜

びの光で満たし、イエス・キリストと共に歩んでいき

ましょう。

  

お祈りをいたします。

 神様。日々の糧を私たちに与えてくださりありがと

うございます。あなたの御心に沿った生き方を私たち

がすることができますように力をお与えください。

私たちが喜びをもってあなたにお返しできる心を、私

たちの内に宿すことができますように。主イエス・キ

リストの御名によって祈ります。アーメン


2026年10月4日日曜日

10月11日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります














教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

喜びの宴を司る主である神さま。

あなたは全ての民を祝いの食卓に招き、あなた

の命を惜しみなく注いでくださいました。

今一度私たちを招き、名誉なこと・正しいこと・

清いことによって、私たちを強め、義と平和の

一つの民へと造り変えてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書 

       5章1節~7節                                                                            (新約聖書)フィリピの信徒への手紙

       3章4節b~14節
(新約聖書)マタイによる福音書    

       21章33節~46節



 




 「 婚宴 」

       秋久 潤 牧師  

 新約聖書のローマの信徒への手紙13章11節以下に

こう記されています。「今や、わたしたちが信仰に入

ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は

更け、日は近づいた。……主イエス・キリストを身に

まといなさい」。

 本日の福音書は、イエスが天の国についてのたとえ

を、次のように語る場面から始まります。「天の国は、

ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」。

 イエスがこのたとえを語ったのは、イエスが十字架

につけられる三日前のことでした。このたとえを通し

て、イエスは人々に、悔い改めと、神による、天の国

への愛の招きを真剣に受け止めることが、いかなるこ

とよりも大切であると訴えています。

 このたとえの中の、王子のために婚宴を催した王と

は神を表し、婚宴とは天の国の喜びを表しています。

 原語のギリシア語では、この婚宴という言葉が、複

数形で語られています。昔のユダヤでは、婚宴は一日

では終わらず、一週間続いていたからです。さぞかし

豪華で華々しく、そのための準備はたいへん大掛かり

なものだったでしょう。

 しかし、王子のために最高の披露宴の準備をしてい

る王の招きに対して、招待客たちは生活上の都合やさ

まざまな理由を優先してそれを無視します。それどこ

ろか、「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまっ

た」人々までいたのです。

 怒った王は、家来を殺したこの者たちを滅ぼし、そ

の町を焼き払ってしまいました。ここに表されている

神の裁きを受けて滅ぼされてしまう人間の姿からは、

創世記のノアの方舟を思い起こさせられます。

 その次に王は、「町の大通りに出て、見かけた者は

誰でも婚宴に連れて来なさい」と家来たちに命じま

す。もうこの際、誰でも良いから連れてくるようにと

いうことです。ここには、急ぎ足での神の招きが表さ

れています。救いは、一刻も早く成されなければなら

ない場合があるのです。

 王の命令によって、町の大通りから、人を選ぶこと

なく、善人でも悪人でも誰でも連れてくるわけですか

ら、すぐに婚宴は客でいっぱいになりました。

 ところが、王が客を見ようと入ってくると、礼服を

着ていない者が一人いました。王は、「友よ、どうし

て礼服を着ないでここに入って来たのか」と問いま

す。

 私たちの感覚からすると、皆、町の大通りからいき

なり連れて来られたのですから、婚礼の礼服など着て

いないのが当然ではないかと思えるかもしれません。

ですが当時は、お金持ちが人々を招待する時には、招

待客の礼服まで用意したそうです。ですからこれは

「主人が用意していた礼服をなぜ着ないのか」が問わ

れたということです。

 神が私たちに用意してくださった礼服とは、イエス

・キリストのことです。先ほどお読みしたローマ書の

福音を再びお読みします。「今や、わたしたちが信仰

に入ったころよりも、救いは近づいているからです。

夜は更け、日は近づいた。……主イエス・キリストを

身にまといなさい」(13:11-14)。

 「礼服を着る」とは、「イエス・キリストを着る」と

いうことです。自分で頑張って立派な服を準備しなく

ても、神は私たちにイエス・キリストという礼服を用

意してくださっているのです。

 私たち人間は、人生の中で、誰しも人から酷い目に

遭わされた経験があると思います。人から受ける酷い

目の遭わされ方の一つに、虐待というものがありま

す。

 虐待を受けたことによる心の傷は、そののちもずっ

と、それを受けた側の内側に影を落とし、後遺症を残

してしまうほど、虐待には破壊的な作用があります。

 あの時に受けた虐待によって自分は人生を踏み外し

た、と感じて苦しむ人がたくさんいると思います。

 なぜ、自分はあのような虐待を受けねばならなかっ

たのか、自分に何か落ち度があったのだろうかと自己

否定に陥ってしまうこともあるでしょう。しかしそれ

は、自分が悪かった、自分が愚かだったということで

は全くありません。

 なぜなら、あなたを虐待したその人が、その時、礼

服を着るようにキリストを着ていれば、決してあなた

にそのようなことはしなかったからです。

 人生の中で、人があなたに酷い仕打ちをした時のこ

とを思い返してみて、その時のその人を、キリストを

着ていた姿に置き換えて心に浮かべてみてください。

 キリストを着たその人であれば、あなたに対して、

あなたの心に深い爪痕を残すような、酷いこと、残酷

なこと、無礼なことは決してしなかったのです。

 私たち人間は誰もが、不完全で弱い存在です。

 一般的には、弱い存在というと、立場が弱い いじめ

られる側のことが思い浮かぶかもしれません。しか

し、力を振るって、人をいじめたり虐待することも、

その人の弱さからきているのです。

 イザヤ書にこうあります。「主は救いの衣をわたしに

着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる」(61:10)。

 過去がどうであれ、いつでも私たちには、悔い改

め、キリストをまとって、新しい人生を歩むことがゆ

るされています。

 王は、礼服を着ていなかった者に対して、こう呼び

かけました。「友よ、どうして礼服を着ないでここに

入って来たのか」。

 この「友よ」という呼びかけには、罪深い私たち人

間への神の深い憐れみと慈しみが込められています。

 神からこのように呼びかけられた時、私たちは黙ら

ずに、返答することが求められます。

 私たちは、どのような苦しみや、後悔や、葛藤の中

にいる時も、やけを起こさずに、神からの呼びかけに

応答しながら、主イエス・キリストと共に日々を歩ん

でいきましょう。

 

 お祈りをいたします。

 天地の造り主である神様。御名を賛美いたします。

日々の生活の中で、あなたの呼びかけに応えながら、

私たちが希望と喜びを持って歩んでいけますようにお

導きください。

 あなたの愛が、私たちのうちに満ち溢れ、私たち

が、あなたの愛とひとつになれますように。主イエス

・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

 


2026年9月27日日曜日

10月4日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝のご案内

諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります

















教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

愛する神様。

善いものはみな、あなたから出ます。

私たちが正しいことを知り実行できるように、

あなたの息を吹き込み、慈しみ深く導いてくだ

さい。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書 

       5章1節~7節                                                                            (新約聖書)フィリピの信徒への手紙

       3章4節b~14節
(新約聖書)マタイによる福音書    

       21章33節~46節



 




 「 主がなさったこと 」

       秋久 潤 牧師  

 エルサルバドルの司祭であり、カトリックの聖人で

あるオスカル・ロメロ大司教(1917-1980年)という

人がいました。ロメロ大司教は、軍事政権下のエルサ

ルバドルで、弱い立場にある人々への暴力や、司祭や

カテキスタ(洗礼志願者などを教育する信徒奉仕者)

の殺害、貧しい人々の搾取、社会の不正を世界に訴え

ました。そして、ミサの司式中に暗殺されてしまいま

す。

 ロメロ大司教の殉教を想起させる文章として、いろ

いろな人々から引用される、ケネス・アンテナー司教

という人物が書いた次の言葉があります。

 「最終的な結果を私たちが見ることはないかもしれ

ない、けれどもそれは/建設主と労働者の違い。私

たちは労働者であって、建設主ではない、救いに仕え

る者であって、救い主ではない。私たちは、自分のも

のではない未来の、預言者なのだ。」

 本日の福音書に記されている、イエスが語ったたと

え話に出てくる農夫たちは、「自分たちは、神が造っ

たこの世界の労働者であって、建設主ではない」とい

うことが分かっていない、私たち人間の姿を表してい

ます。

 イエスが祭司長やファリサイ派の人々に向けて語っ

たこのたとえ話は、ある家の主人がぶどう園を作り、

それを農夫たちに託して旅に出る場面から始まりま

す。ぶどうは、木を植えてから収穫までに何年もかか

るので、主人は収穫を期待して準備をし、その時を待

ち望んでいました。

 ここでの主人は神を表し、農夫は私たち人間を表し

ています。主人が「旅に出た」とありますが、これは

主なる神がしばらくの間、沈黙していたことを指して

いると思います。

 そしてぶどうの収穫の時が近づいてきた時、主人は

その収穫を受け取るために、自分の僕たちを農夫たち

のところへ送ります。しかし、主人からぶどう園を借

りていた農夫たちは、主人が送ってきた僕たちを捕ま

え、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打

ち殺してしまいます。

 農夫たちは、ぶどう園を自分たちに任せてくれた主

人を裏切り、不誠実さと暴力をもって反逆します。主

人が前より多くの僕たちを送っても、農夫たちは、僕

らを同じ目に合わせます。しかし主人は、農夫たちの

背きと悪に忍耐し、自分の息子なら敬ってくれるだろ

うと、最後に息子を彼らのもとに送ります。ここには

主なる神の、忍耐強い赦しの愛が表されています。

 しかし農夫たちは、最後に送られた主人の息子すら

殺してしまいます。跡取り息子を殺すことで、その相

続財産であるぶどう園を、占有している自分たちのも

のにしようとしたのです。主人の息子を殺すことで、

農夫たちの背きは極みに達します。

 ここでの「ぶどう園」とは、「神がお造りになった

この世界」を表しています。このたとえ話には、私た

ち人間の罪があらわにされていると言えるでしょう。

 神は天地の造り主です。私たちはその神が造られた

世界を、ぶどう園の農夫たちのように委託されている

に過ぎません。ある一定の期間だけ、主人のために働

くのです。

 しかし農夫たちは、主人から管理を委ねられたもの

を、自分の力で得たもののように思い込み、自分のも

のだと勘違いしてしまったのです。

 本当の主人を尊重せず、あたかも自分が主(ぬし)

であるかのようにふるまうこと、自分が主(ぬし)で

あると思い込んでしまうこと、神のものを神に返さな

いこと、そこに人間の根本的な罪と過ちが潜んでいま

す。

 さらにイエスは、祭司長やファリサイ派の人々に、

詩編118編22節の言葉を引用して次のように語りま

す。

「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石とな

った。これは、主がなさったことで、/わたしたち

の目には不思議に見える」。

 これは、建築の専門家から不要だと捨てられたも

のが、実は建築に最も大事な基礎の石となったこと

を意味しています。不思議にも、その捨てられた石

から救いの道が開かれたのです。ここに示されてい

るのは、捨てられた石が用いられ、そこから救いが

始まるということです。

 そしてこれは、「祭司長やファリサイ派の人々」に

殺されるイエス・キリストが、神の救いの業の要石

(かなめいし)になることを暗示しています。

 しかし当時の人々は、イエスが、神の御子である

からこそ全ての地上的な栄誉を捨てるという逆説を

理解できませんでした。

 群衆にとって、無力な「救い主」など有り得ませ

んでした。しかし主イエスは、人々の想像を超えた

形で、ご自身の力を現しておられました。イエスは

人々から罵られ、嘲られる道をご自分から選ばれま

した。それこそが主イエス・キリストの強さです。

コリントの信徒への手紙 二12章10節に記されている

「わたしは弱いときにこそ強いからです」という言

葉が思い起こされます。

 人生には、たくさんの苦しみがあります。生きる

ことは本当に大変だと感じている人は多いと思いま

す。そのような人生を、人は何のために生きるので

しょうか。

 その答えを使徒パウロは、「わたしたちの中には、

だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自

分のために死ぬ人もいません」(ローマ14:7) と記し

ています。私たちは、神のため、そして他の誰かの

ために生き、神のために死ぬのです。

  早いもので、今年もあと3ヶ月ほどとなりまし

た。最近、赤や紫の花が美しく咲いています。

 私たちは、苦しみの中にいる時も、喜びの中に

いる時も、神と人と共に生きていることを覚えな

がら、この地上での日々を希望をもって歩んでい

きましょう。

 

 

お祈りをいたします。

 神様、私たちに今日という日をお与えくださり

ありがとうございます。日々の中で焦ったり慌て

たりしてしまいがちな私たちが、あなたに信頼し

て安心して歩んでいくことができますように。

あなたの愛の導きのもとに、私たちが生かされて

いることに感謝いたします。主イエス・キリスト

の御名を通して祈ります。

アーメン