イースターとは・・・?
復活祭とは、一度死んだイエス キリストが復活し
た日であり、そのお祝いのことです。生命の復活を
お祝いするという意味から、卵 (イースターエッグ)
や多くの子供を持つウサギ (イースターバニー) な
どがシンボルとなっています。イースターが来ると、
やっと春が訪れる実感が湧きます。
この日、庭に隠したカラフルなゆで卵を子供たちが
探す遊びも世界中で行われています。
Easter (イースター) は、毎年日付が変わります。
3 月 22 日 ~ 4 月 25 日の間の日曜日になります。
今年は4月5日です。
復活祭は、クリスマスと並んで、教会では大事なお
祝いです。

★ 主日の祈り
全能・永遠の神様。
あなたは信じる者の力です。
疑う私たちを、見ないで信じる信仰によって、キリ
ストの豊かな祝福に与からせてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
(旧約聖書)エレミヤ書
31章1節~6節 (新約聖書)コロサイの信徒への手紙
3章1節~4節
(新約聖書)マタイによる福音書
28章1節~10節
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トマスの不信 カラバッジョ Caravaggio サンスーシギャラリー 1601-1602年 |
イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は、幸いである。」
「 平和 」
秋久 潤牧師
本日の福音書は、十字架の死から三日目に復活し
たイエスが、弟子たちの前に現れた場面から始まり
ます。
復活したイエスが弟子たちにあらわれた時、弟子
たちは恐れの真っ只中にいました。なぜなら、イエ
スを憎み、イエスを殺したユダヤ人たちが、弟子で
ある自分たちをも迫害するのではないかと怯えてい
たからです。弟子たちは、家の戸に鍵をかけて閉じ
こもっていたのです。
しかし、どのような隔(へだ)ても障壁(しょう
へき)も、復活のイエスの前には意味を成しません
でした。家の戸に鍵がかかっていたのにもかかわら
ず、するりとそこをくぐり抜けて来たかのように、
イエスは部屋の中で弟子たちの真ん中に立ち「あな
たがたに平和があるように」と言ったのです(19節)。
このイエスには、澄み渡った軽やかさがあります。
十字架上で壮絶な死を遂げた私たちの主イエス・キ
リストは、よみがえったあと、悲壮感や重々しさを
もって弟子たちの前に現れたわけではありませんで
した。ユーモアを感じさせられるほどの軽やかさと、
あふれる慈愛をもって姿を現したのです。
イエスは、十字架上で受けた、手とわき腹の傷を
弟子たちに見せます。手には、十字架上で打ち付け
られた釘の跡が、わき腹には槍で突かれた跡があり
ます。イエスが体に受けた傷は、イエスが復活して
もなお、そのまま残っていました。
ペトロの手紙一 4章1節にこうあります。「キリス
トは肉に苦しみをお受けになったのですから、あな
たがたも同じ心構えで武装しなさい」。
イエスが肉体に苦しみを受けたことは、単なる不
運な出来事だったのではなく、意味のあることだっ
たのです。そして私たち人間にとっても、「肉に苦し
みを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なの」
だとペトロは言います(1ペトロ4:1)。肉体に苦しみ
を受けるのは、残りの生涯を、自分の欲望にではな
く神の御心に従って生きるようになるためだと言う
のです。
復活の主イエス・キリストを見た弟子たちは喜び
ました。暗闇の中にいた弟子たちの心は、主イエス
の光に照らされ、あふれる喜びで満たされたのです。
弟子たちの喜びについて、イエスは生前、こう語
りました。「これらのことを話したのは、わたしの喜
びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満
たされるためである」(ヨハネ15:11)。
私たちの内なる真(しん)の喜びは、自分の心の
中だけで作り出したものではなく、復活の主イエス・
キリストの喜びであるからこそ、尽きせぬ泉のよう
に湧き上がる、永遠の喜びとなるのです。
ここでイエスが弟子たちに伝えた「あなたがたに
平和があるように」という言葉は、文語訳聖書では
「平安なんぢらに在(あ)れ」と訳されており、原
文のギリシア語を直訳すると「平安 汝らに」です
(ヨハネ20:19, 20:21)。
「平安 汝らに」。それは、十字架上でこの上ない苦
しみを受けた主イエス・キリストの言葉であるから
こそ、大きな力があります。私たちは、どんな苦難
や困難の中にいる時も、心の内のあらゆる不安、恐
れ、憎しみが消え去り、主イエス・キリストの喜び
と平安で満たされることができるのです。
イエスがご自分から弟子たちのもとに来てくださ
ったことで、弟子たちは至福の喜びにあふれました。
しかしこの時、弟子の一人であるトマスはこの場に
居合わせませんでした(24節)。トマスは、他の弟子
たちからイエスの復活について聞かされても、信じ
ようとしませんでした。
その一週間後の日曜日、イエスは、家の中にいた
弟子たちの前に、再び同じように現れ、今度はトマ
スもその場にいました。
現実に自分の目でイエスを見て、イエスの声を聞
いたトマスの疑いの心は完全に解け、トマスの心は
喜びと平安に満たされました。
イエスから直(じか)に語りかけられたトマスは、
悲しみと苦しみの中で固く閉ざされていた心をイエ
スに開き、「わたしの主、わたしの神よ」と応答しま
す(28節)。
イエスは、トマスにこう言います。「わたしを見た
から信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いであ
る」(29節)。
これが本日の福音書箇所に記されているイエスの
最後の言葉です。そして、福音書記者は締めのよう
に次の説明をつけています。「このほかにも、イエス
は弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、そ
れはこの書物には書かれていない」(30節)。
これは、私たちが具体的にはまだ知らないイエス
のわざが、他にも多くあることが示されている言葉
だと思います。
キリスト者の内村鑑三(うちむらかんぞう)はこ
う述べています。「聖書はなお未完の書である」。そ
して私たちが、今日(こんにち)キリストの霊を受
けて、聖書の続きを新たに造らなければならないと
言います。
完成したひとつの書物として客観的に聖書を読む
のではなく、神の愛と平安に満ちた聖書の続きが、
私たちの未来と現実の中に新たに造られていく心持
ちで、聖書を私たち自身が生きるのが大切なのだと
思います。
復活のイエスはご自分の傷口を見せながら、トマ
スにこう語りかけました。「あなたの指をここに当
てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を
伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)。
慈愛と憐れみをもって語られた主イエス・キリス
トのこの言葉は、この世界の痛みを表していると感
じます。
さらにイエスは「信じない者ではなく、信じる者
になりなさい」と言いました(27節)。
イエスがトマスに語ったこの言葉は、私たちに向
けられた言葉でもあります。
「信じる者」とは、この世界でどのような悲惨な出
来事、絶望的なことが起ころうとも、それでもなお、
この世界に希望と愛を見出し続ける者なのではない
でしょうか。
世界で起きていることの報道などを見ると、この
世は弱肉強食であり、弱く心優しい人々は底辺に埋
もれ力を持たない世界に思えるかもしれません。で
すがそうではありません。この世界は、心が弱く繊
細で優しい、そのような人々によって支えられてい
るのだと思います。
あまりにも残酷なことが起きるこの世は、愛のな
い場所だと感じることがあるかもしれません。しか
し一方では、私たちの日常はささやかな愛であふれ
ているのです。夜、一日を振り返ってみて、それを
心に感じてみてください。
私たちは、まだこの世界に残されている希望と愛
を信じながら、祈りのうちに、主イエス・キリスト
と共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
天の父なる神様。私たちは、確かなものを求めよ
うとして、すぐ近くにあらわれているあなたの御子
の存在を信じることができなくなることがあります。
私たちの心を開き、愛によって、あなたに信頼する
道を歩ませてください。御子 主イエス・キリストに
よって祈ります。アーメン