諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
本日の福音書は、イエスが徴税人マタイを、ご自分
の弟子になるように招いた場面から始まります。当時、
ユダヤの地はローマ帝国に支配されていて、ローマ帝
国に納める税金の徴収は、現地のユダヤ人に委託され
ていました。それゆえに徴税人は、ユダヤ人の同胞か
ら、ローマ帝国に魂を売り渡した卑怯者として嫌われ
ていました。ローマ帝国は異教の国ですから、そのロ
ーマ帝国のために働く徴税人は、ユダヤの神の救いか
ら除外された「罪人」と考えられていたのです。
しかし、そんな徴税人のマタイを通りがかりに見か
けたイエスは、マタイにこう呼びかけました。「わたし
に従いなさい」。
召命(しょうめい)という言葉があります。召命と
は、神の恵みによって神に呼び出されることです。人
間社会では、人を自分にとってプラスになる存在か否
かの損得勘定で見てしまうところがあります。しかし
イエスはそうではありません。その人がどれだけご自
分を必要としているかに目を留めるのです。
収税所に座っていたマタイは、すぐにイエスの招き
に従い、立ち上がりました。そして、イエスによる徴
税人マタイへの恵みの招きにつまずいたのは、周りの
ファリサイ派の人々でした。彼らは、イエスがマタイ
の家で、他の徴税人や「罪人」たちと食事をしている
のを見て、けしからんことだと思いました。
ファリサイ派の人々にとって、徴税人や罪人は、ユ
ダヤ教の教えである律法を守らず、汚れている存在で
した。そんな彼らと食事をすれば自分たちも汚れると
思っていたのです。
ファリサイ派の人々に向かって、イエスはご自分を
「医者」にたとえてこう言います。「医者を必要とする
のは、丈夫な人ではなく病人である」。そして病人は、
自分が病人であることを認めればこそ、医者のもとに
来るのです。精神科医のヴィクトール・フランクルは
「本人が自覚していない絶望こそが、実は最も深刻だ」
と言いました。私たちは、自分の闇を「自覚」した時
点で、初めて救いの入り口に立つことができるのだと
思います。
イエスは、ファリサイ派の人々に対して、旧約聖書
の言葉を引用しつつ、こう続けました。「『わたしが求
めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはど
ういう意味か、行って学びなさい」。
ここで引用されたのは、ホセア書6章6節の次の言葉
です。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではな
く/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではな
い」。
この言葉から、私の中で思い出される話があります。
昔、特集番組で観た、ある古代文明の風習についての
話です。
その古代文明には、自然の猛威や災害を恐れ、神の
怒りを鎮めるために、選ばれた女の子がいけにえとし
て捧げられる風習があったそうです。いけにえとして
選ばれた女の子は生まれてからずっと、他の子供たち
のように暮らすことができず、隔離され育てられまし
た。そして十代のある年齢に達すると、儀式が執り行
われ、少女は頭を岩で打たれて殺され、神に捧げられ
たのです。
災いを避けるためや、祈りや願をかけるために、生
きた人間をいけにえとして神に捧げる風習は、歴史的
に、世界中でありました。
「いけにえ」の根底には、他者を犠牲にしてでも自分
たちは助かりたいという人間の自己防衛本能と恐れが
あると思います。
イエスが引用したホセア書の「わたしが喜ぶのは/
愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/
焼き尽くす献げ物ではない」という言葉は、神が求め
ておられるのは、外面的な宗教行為や儀式ではなく、
真実な愛であり、神を知り、神と共に生きることであ
ると告げています。
さて、本日の福音書の後半では場面が変わり、カ
ファルナウムの共同体の指導者がイエスのそばに来て、
ひれ伏してこう言います。「わたしの娘がたったいま死
にました。でも、おいでになって手を置いてやってく
ださい。そうすれば、生き返るでしょう」。
イエスは、その必死の願いに応えるために、立ち上
がり、彼について行きました。そして、彼の死んだ娘
が眠っている家に向かう途中で、十二年間も長血を患
っている女性と出会います。ユダヤ人社会では、この
ような出血のある女性は汚れた存在とされ、彼女に触
れる人も汚れると考えられていました。
そこには先ほどの、徴税人や罪人と一緒に食事をす
ると自分たちも汚れるという差別意識に通ずるものが
あります。
女性は「この方の服に触れさえすれば治してもらえ
る」と思って、後ろからイエスの服の房に触れました。
深い祈りと信仰の中には、限りない希望が秘められて
います。イエスの服に触れ、イエスから声をかけられ
た女性の病は、治りました。
イエスが指導者の家に着くと、笛を吹く者たちや騒
いでる群衆がいました。笛吹きの存在は、喪の儀式が
はじまろうとしていること、すなわち娘の死の確実さ
を告げています。
しかし、イエスは彼らにこう言います。「あちらへ行
きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」。
死者は死んでいないと語るイエスを、人々はあざ笑い
ました。
しかしその中で、死んだ娘に対する想いが他の人々
よりもはるかに強い指導者の父親は、イエスのこの言
葉に大きな希望をもったのはないでしょうか。
他の人には愚かとしか思えない言葉をイエスが発し
た時、絶望の中にいた彼の心は、救いと希望の光に照
らされたのだと思います。
イエスが少女の手を取ると、少女は起き上がりまし
た。父親の願い通り、少女は生き返ったのです。
本日の福音書において、イエスは徴税人マタイを召
し、十二年間出血が続いていた女性の病を治し、死ん
だ少女を生き返らせました。
イエスのこの言葉を、私たちは心にとどめましょう。
「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえでは
ない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。
現代の私たちの社会にも、直接的に命を奪うという
ことはないにしても、自分たちの身の保身のために、
他者をいけにえにすることが行われている側面があり
ます。
たとえば、人が人を差別したり、仲間外れにする意
識の根底にあるものの一つは、「誰かをいけにえにして、
自分たちは安全な場所にいたい」というものだと思い
ます。しかしそういった自己保身の中に、真の喜びは
ありません。
神が求めるのは憐れみであって、いけにえではない
ということを、私たちはこの人生の道のりの中で知っ
ていくことが大切です。そしてまた、私たちは自分自
身のこともいけにえにしてはならないのだと思います。
神は、自己犠牲だけであなたの人生が終わるのでは
なく、あなたが自分自身の人生を生き生きと喜びにあ
ふれて歩んでいくことを望まれています。
私たちは、神のゆるしと愛のうちに、私たちの心を
神に明け渡し、希望と喜びをもってこの地上での時を
共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、私たちがいつもあなたの御心のうちに、日々
を歩んで行くことができますように、力をお与えくだ
さい。私たちが隣人を大切にし、また自分自身を大切
にして生きていくことができますように。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン















