2026年5月3日日曜日

5月10日(日)復活節第6主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。




















★ 主日の祈り

永遠に生きておられる全能の神様。

あなたは、天と地のすべてを一つに結びあわせてく

ださいます。

豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもた

ちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を

授けてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(新約聖書)使徒言行録 

       17章22節~31節                                                                       (新約聖書)ペトロの手紙(一)

       3章13~22節

(新約聖書)ヨハネによる福音書    

       14章15節~21節

あなたがたは、私を愛しているならば、
わたしの掟を守る。
わたしは父にお願いしよう。
父は別の弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと一緒に
いるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。


















「 真理の霊 

       秋久 潤 牧師 


2026年4月26日日曜日

5月3日(日)復活節第5主日礼拝のご案内

諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります


教会は、誰でも自由に来ることができます。
私たち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。












★ 主日の祈り

全能の神様。

御子イエス・キリストは道であり、真理であり、

のちです。

私たちが互いに愛し合い、主の戒めの道を歩んで、

御子の復活の命を世界中の人々と分かち合ことが

できるように恵みを与えてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(新約聖書)使徒言行録 

       7章55節~60節                                                                       (新約聖書)ペトロの手紙(一)

       2章2~10節

(新約聖書)ヨハネによる福音書    

       14章1節~14節
















「 願い

       秋久 潤 牧師 

 現代ではあまり使われませんが、微行(びこう)

という言葉があります。これは、身分の高い人が、

自分の本当の姿や身分を隠して出歩くことを意味

します。それは、地上での歩みにおいて、徹底して

貧しい僕(しもべ)の姿をされたイエス・キリスト

にも当てはまる言葉だと思います。また、私たちの

社会において、魂において崇高で気高い人々が、不

遇な状況で目立たず、社会の底辺に埋もれた微行者

(びこうしゃ)であることが多くあるでしょう。

 地上でのイエスの道のりは、強くて華々しい救世

主を望む人々にとって、期待外れのものでした。そ

れは、イエスの弟子たちからでさえも、見損なわれ、

誤解されるような、僕(しもべ)としての歩みでした。

 イエスは、十字架にかけられた時、人々から罵

(ののし)りを投げかけられました。「十字架から降

りて自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分

は救えない」(マルコ15:29-31)。

 イエス・キリストは、人を救うためには奇跡を行っ

ても、自らを救うためにはこれを行いませんでした。

キリスト者の内村鑑三は、人を助けるための不思議な

力 —— 異能を備えたイエス・キリストは、自己を救う

ためには全然無能であったと述べています。

 弱い者を救うためには風をも叱咤してこれを止める

ことができたイエス・キリストは、自らを脅かす敵の

前では、これに手向かおうとして指一本さえ挙げるこ

とができなかったのです。

 キリストの奇跡よりもさらに不思議なものは、キリ

ストの無私の心であり、この心があってこそ、初めて

キリストの奇跡の業が行われたのであると内村鑑三は

言いました。

 本日の福音書は、イエスが十字架の死の直前に弟子

たちに語った教えの一部です。これは弟子たちとの別

れの説教であるゆえ、「告別説教」とも呼ばれています。

 まずイエスは弟子たちに「心を騒がせるな」と言い

ます。「騒がせる」の原語であるギリシア語「タラッソ

ー」は、水が掻き立てられる動きを意味します。

「あなたたちの心は、かき乱されてはならない」とイ

エスが弟子たちに伝えたこのことは、現在の不安定な

社会情勢の中を生きる私たちの心にも、力をもって働

きかけてくる言葉だと思います。

 イエスはこう続けます。「神を信じなさい。そして、

わたしをも信じなさい」。イエスは、十字架の死が目前

に迫る中で、ご自分との別離によって弟子たちに生じる

であろう不安と動揺を、神とイエスとに信頼することで

克服するように弟子たちに伝えます。到来する苦難の中

で、神への信頼を強めることを、イエスは何よりも求め

ます。

 現代においても、あまりにも悲惨で絶望的な出来事が

世の中には数多くあり、神がいるならどうしてこのよう

なことが起きるのか、神の救いはどこにあるのかという

気持ちになることがあるでしょう。しかし、そんな私た

ちに、イエスは「あなたがたのために場所を用意してお

く」と約束してくださっているのです。恐れと不安と迷

いの中で翻弄される私たち人間を、天の国に居場所を持

ち、神の平安の家に迎え入れられる存在としてくださっ

たのが、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。

 パウロは、神が人間の罪を取り除くために、御子イエ

スを罪深い人間の肉体と同じ姿でこの世に送り、罪を罪

として処断したのだと言いました(ローマ8:3)。イエス

は、人間の姿をもってこの世に降り、私たちの罪の赦し

と、救いと、平安のために、私たちと同じ肉体をもって

十字架上で苦しまれ、罪の贖(あがな)いをしてくださ

いました。

 フィリピの信徒への手紙で、イエス・キリストの生涯

を要約した次の言葉があります。「かえって自分を無にし

て、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人

間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十

字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:7-8)。

 イエスを本当に見ることは、弱々しい僕のイエスの姿

の中に、真の救い主である神の子キリストの姿を認める

ことでした。しかし、それはイエスの弟子たちにとって

も容易ではありませんでした。僕イエスの姿は、弟子た

ちにとってもつまずきでした。だからイエスは、こう言

われるのです。「わたしにつまずかない人は幸いである」

(マタイ11:6、ルカ7:23)。

 人が求め期待するのは、もっと豊かに、もっと華々し

く、もっと高いところへという、上昇していく道です。

しかしイエスの道は逆であり、天から地へと下る道、神

が人となり、富める者が貧しくなり、高きにいます方が

この世の最低地点にまで下られる道です。

 しかしそれだけではなく、イエスの道は同時に、人を

神へと結びつけ、仲介する道です。イエス・キリストは

天と地と、神と人との間に架け橋をつなぐ方なのです。

イエスは、この地上において、神と人との仲介者として、

天と地の仲介者としての道を歩まれました。

 仲介者とは、本人自体はそれほど目立たない存在だと

思います。しかし、優れた仲介者の存在によって、両者

の関係は正しく築かれ、大いなる調和と平和が生み出さ

れていくのです。そして、イエスの道を歩む者たちもま

た、仲介者としての役割を委ねられていることを、私た

ちは心に覚えておきましょう。

 さて、早いもので、もう5月に入りました。

 あなたには、あなたに害を与えてくる存在として、と

てつもなく脅威と憎しみを感じていた相手のことが、突

如、ちっぽけで憐れな存在に思える時が来るかもしれま

せん。

 「憐れに思う」ことは、赦しへの始まりです。敵を

「憐れに思う」ことは、凝り固まった憎しみや、決して

許すことのできない気持ちを解きほぐしてくれるものな

のだと思います。

 イエス・キリストは、ご自分を十字架につけた者たち

に対して、憎しみではなく、限りない憐れみを感じてお

られました。

 私たちが、イエス・キリストから与えられた赦しと愛

と憐れみによって、憎しみを赦しに、失望を希望へと転

換させることができますように。

 私たちの内が、イエス・キリストの愛に満たされ、喜

びをもって日々を生きていくことができますように。


主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。


現代では 

イエスは

2026年4月19日日曜日

4月26日(日)復活節第4主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります



教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。















★ 主日の祈り

私たちの羊飼いである神様。

あなたは私たちひとりひとりの名を呼んで、死の谷

を越えて安らかな地へと導いてくださいます。

あなたの家に用意されている喜びの宴に向かって確

かな足取りで歩むことができるよう、御声をもって

私たちを導いてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(新約聖書)使徒言行録 

       2章42節~47節                                                                       (新約聖書)ペトロの手紙(一)

       2章19~25節

(新約聖書)ヨハネによる福音書    

       10章1節~10節

わたしは羊の門である。
わたしが来たのは、
羊が命を受けるため、
しかも豊かに受けるためである。















「 羊の門

       秋久 潤 牧師

 今、世界は大きく揺れています。人間は、平和と

愛を望まず、平和と愛を選択しない生き物であるの

かと思わされる出来事が、この世には多くあります。

しかし一方で、愛をもって世界の平和と幸せを願っ

きた歴史上の人々、そして今も、世界の平和と幸

を願い続けている人々がいるのです。私たちはこ

の地上が、愛と光によって癒されることを心から求

め願い、祈りましょう。

 聖書には、羊と羊飼いの話がよく出てきます。羊

飼いの生活というと、ポカポカとした陽だまりの中、

青々とした草ばらで羊と一緒に寛(くつろ)いでい

るような、のどかな光景が思い浮かぶかもしれませ

ん。しかし実際の羊飼いの仕事は、自分の命と体を

削って、狼や強盗など様々な敵から羊を守らねばな

らない過酷なものでした。

 サムエル記上17章では、羊飼いであったダビデが

羊を飼っていた時に、獅子や熊と戦って、その口の

中から羊を助け出したと語られています。羊飼いは、

羊を脅かす敵と戦って、場合によっては自分の命を

捨てることもありました。

 本日の福音書の1節から5節までのイエスの言葉は、

当時のパレスチナにおける実際の羊飼いたちの生活

と働きをありのまま描いたものです。

 「羊の囲い」には門がひとつだけあります。その正

規の門から入って、羊を外に連れ出すのが羊飼いで

す。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」

とは、羊に襲いかかる「盗人であり、強盗」です。

 イエスは、ご自分が羊飼いであり、かつ羊の門で

あると語ります。そして私たち人間は、羊飼いであ

る主イエス・キリストに養われ、導かれる羊なので

す。

 イエスはこう言います。「羊飼いは自分の羊の名を

呼んで連れ出す」。羊飼いは、羊に一匹一匹名前をつ

けて、羊たちを名前で呼びます。これと同じように、

主イエス・キリストは、私たち一人一人の名前を呼

んでくださるお方なのです。

 「十把一絡げ」(じっぱひとからげ)という言葉が

あります。これは、稲を10把(たば)で一つと数え

ることから生まれた言葉です。これは、個々の特徴

や価値を無視して無差別にひとくくりにすることの

たとえです。

 一人一人の名前が呼ばれることは、一人一人の人

間の存在が尊重されることです。ナチスの強制収容

所において、囚人として捕らえられていた人々が、

名前を剥奪され、番号で呼ばれていたことが思い起

こされます。

 徴兵され、壮絶な戦争体験をしたキリスト者の石

原吉郎(いしはらよしろう)さんは、次の言葉を残

しています。「人は死において、ひとりひとりその名

を呼ばれなければならないものなのだ」。

 石原さんのこの言葉は、戦争や大量殺戮において、

数に埋れて、個々人が抹消されてしまうことの理不

尽さを私たちに訴えます。一人一人が尊重され、一

人一人の名前が呼ばれることは、平和の象徴でもあ

るのです。

 羊は、迷いやすく弱い存在です。本日の福音書で

は、私たち人間が羊にたとえられています。「弱さ」

はマイナスなことだというイメージがあるかもしれ

ません。強くあらねばならないという価値観が、こ

の社会にはあるかもしれません。しかし、コリント

の信徒への手紙 二 で、パウロは神から「力は弱さの

中でこそ十分に発揮される」と言われたと証言します。

 パウロは「弱さ」を抱えていました。それはパウロ

の持病だったと言われています。パウロはそのことを、

「わたしの身にひとつのとげが与えられました」と述

べています(IIコリ12:7)。パウロは自分にとってのと

げであるその病を取り除いて欲しいと、神に祈り求め

ました(IIコリ12:8)。

 しかしパウロの祈りの中で神が示したのは、「私の

恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分

に発揮される」という答えだったのです(IIコリ12:9)。

弱さの中でこそ、キリストの力は発揮されるというの

です。それゆえに、パウロは次のように宣言します。

「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、

むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

……なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。

 「弱いときにこそ強い」。これは、多くのキリスト者

が身をもって証してきた真理であると思います。

 さて、早いもので4月も終わりに近づき、もうすぐゴ

ールデンウィークです。

 イエス・キリストは、人の罪を赦(ゆる)すために、

この世に降(くだ)られました。イエス・キリストの

生涯は、私たちの罪を贖(あがな)う、贖罪(しょく

ざい)の生涯でした。

 私たち人間は、今、主イエス・キリストの御前で、

罪の赦しを乞いましょう。

 イエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持ってい

ることを知らせよう」と言いました(ルカ5:24)。

 しかし私たちは、今、世界で起きている出来事など

を思う時、主イエス・キリストのこの言葉が、スッと

心に入ってこないことがあるのではないかと思います。

 この世に横行する、あまりにも残酷で横暴な人間の

罪が、本当に赦されるべきものなのだろうかという思

いのもと、「罪が赦される」という言葉が、心にピンと

こない時があるのではないでしょうか。

 また私たちは、心が塞ぎ込み抑圧されている時、自

分の罪が赦されることもないだろうという意識になる

かもしれません。

 しかしそれでも私たちは、神の御前で罪を懺悔(ざ

んげ)し、罪の赦しを乞うことが必要なのだと思いま

す。

 たとえ、赦されないかもしれないと思っても、それ

でもなお、罪の赦しを神に求め続けることが大切なの

です。

 私たちは、日々、祈りつつ、試みの時も、喜びの時

も、主イエス・キリストと共に歩んで行きましょう。


 お祈りをいたします。

 天の父なる神様。いつも私たちが、愛と希望をもっ

て生きていくことができるように導いてください。常

に私たちが、あなたの御子イエスの声に立ち帰ること

ができますように。イエス・キリストによって祈りま

す。

アーメン



2026年4月12日日曜日

4月19日(日)復活後第3主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります


教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。















★ 主日の祈り

神様。

御子はパンを裂くことによって、弟子たちにご自身

を知らせてくださいます。

御子の贖いの働きを見ることができるように、私た

ちの信仰の目を開いてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(新約聖書)使徒言行録 

       2章14節a、36節~41節                                                                       (新約聖書)ペトロの手紙(一)

       1章17~23節

(新約聖書)ルカによる福音書    

       24章13節~35節















「 心は燃えて

       秋久 潤 牧師

2026年4月5日日曜日

4月12日(日)復活節第2主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。











イースターとは・・・?

復活祭とは、一度死んだイエス キリストが復活し
た日であり、そのお祝いのことです。生命の復活を
お祝いするという意味から、卵 (イースターエッグ)
 や多くの子供を持つウサギ (イースターバニー) な
どがシンボルとなっています。イースターが来ると、
やっと春が訪れる実感が湧きます。
この日、庭に隠したカラフルなゆで卵を子供たちが
探す遊びも世界中で行われています。

Easter (イースター) は、毎年日付が変わります。
3 月 22 日 ~ 4 月 25 日の間の日曜日になります。
今年は4月5日です。
復活祭は、クリスマスと並んで、教会では大事なお
祝いです。



★ 主日の祈り

全能・永遠の神様。

あなたは信じる者の力です。

疑う私たちを、見ないで信じる信仰によって、キリ

ストの豊かな祝福に与からせてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)エレミヤ書 

       31章1節~6節                                                                       (新約聖書)コロサイの信徒への手紙

       3章1~4節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       28章1節~10節


トマスの不信
カラバッジョ Caravaggio
サンスーシギャラリー
1601-1602年


イエスはトマスに言われた。
「私を見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は、幸いである。」






「 平和 
        秋久 潤牧師
 本日の福音書は、十字架の死から三日目に復活し
たイエスが、弟子たちの前に現れた場面から始まり
ます。
 復活したイエスが弟子たちにあらわれた時、弟子
たちは恐れの真っ只中にいました。なぜなら、イエ
スを憎み、イエスを殺したユダヤ人たちが、弟子で
ある自分たちをも迫害するのではないかと怯えてい
たからです。弟子たちは、家の戸に鍵をかけて閉じ
こもっていたのです。
 しかし、どのような隔(へだ)ても障壁(しょう
へき)も、復活のイエスの前には意味を成しません
でした。家の戸に鍵がかかっていたのにもかかわら
ず、するりとそこをくぐり抜けて来たかのように、
イエスは部屋の中で弟子たちの真ん中に立ち「あな
たがたに平和があるように」と言ったのです(19節)。
 このイエスには、澄み渡った軽やかさがあります。
十字架上で壮絶な死を遂げた私たちの主イエス・キ
リストは、よみがえったあと、悲壮感や重々しさを
もって弟子たちの前に現れたわけではありませんで
した。ユーモアを感じさせられるほどの軽やかさと、
あふれる慈愛をもって姿を現したのです。
 イエスは、十字架上で受けた、手とわき腹の傷を
弟子たちに見せます。手には、十字架上で打ち付け
られた釘の跡が、わき腹には槍で突かれた跡があり
ます。イエスが体に受けた傷は、イエスが復活して
もなお、そのまま残っていました。
 ペトロの手紙一 4章1節にこうあります。「キリス
トは肉に苦しみをお受けになったのですから、あな
たがたも同じ心構えで武装しなさい」。
 イエスが肉体に苦しみを受けたことは、単なる不
運な出来事だったのではなく、意味のあることだっ
たのです。そして私たち人間にとっても、「肉に苦し
みを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なの」
だとペトロは言います(1ペトロ4:1)。肉体に苦しみ
を受けるのは、残りの生涯を、自分の欲望にではな
く神の御心に従って生きるようになるためだと言う
のです。
 復活の主イエス・キリストを見た弟子たちは喜び
ました。暗闇の中にいた弟子たちの心は、主イエス
の光に照らされ、あふれる喜びで満たされたのです。
 弟子たちの喜びについて、イエスは生前、こう語
りました。「これらのことを話したのは、わたしの喜
びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満
たされるためである」(ヨハネ15:11)。
 私たちの内なる真(しん)の喜びは、自分の心の
中だけで作り出したものではなく、復活の主イエス・
キリストの喜びであるからこそ、尽きせぬ泉のよう
に湧き上がる、永遠の喜びとなるのです。
 ここでイエスが弟子たちに伝えた「あなたがたに
平和があるように」という言葉は、文語訳聖書では
「平安なんぢらに在(あ)れ」と訳されており、原
文のギリシア語を直訳すると「平安 汝らに」です
(ヨハネ20:19, 20:21)。
 「平安 汝らに」。それは、十字架上でこの上ない苦
しみを受けた主イエス・キリストの言葉であるから
こそ、大きな力があります。私たちは、どんな苦難
や困難の中にいる時も、心の内のあらゆる不安、恐
れ、憎しみが消え去り、主イエス・キリストの喜び
と平安で満たされることができるのです。
 イエスがご自分から弟子たちのもとに来てくださ
ったことで、弟子たちは至福の喜びにあふれました。
しかしこの時、弟子の一人であるトマスはこの場に
居合わせませんでした(24節)。トマスは、他の弟子
たちからイエスの復活について聞かされても、信じ
ようとしませんでした。
 その一週間後の日曜日、イエスは、家の中にいた
弟子たちの前に、再び同じように現れ、今度はトマ
スもその場にいました。
 現実に自分の目でイエスを見て、イエスの声を聞
いたトマスの疑いの心は完全に解け、トマスの心は
喜びと平安に満たされました。
 イエスから直(じか)に語りかけられたトマスは、
悲しみと苦しみの中で固く閉ざされていた心をイエ
スに開き、「わたしの主、わたしの神よ」と応答しま
す(28節)。
 イエスは、トマスにこう言います。「わたしを見た
から信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いであ
る」(29節)。
 これが本日の福音書箇所に記されているイエスの
最後の言葉です。そして、福音書記者は締めのよう
に次の説明をつけています。「このほかにも、イエス
は弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、そ
れはこの書物には書かれていない」(30節)。
 これは、私たちが具体的にはまだ知らないイエス
のわざが、他にも多くあることが示されている言葉
だと思います。
 キリスト者の内村鑑三(うちむらかんぞう)はこ
う述べています。「聖書はなお未完の書である」。そ
して私たちが、今日(こんにち)キリストの霊を受
けて、聖書の続きを新たに造らなければならないと
言います。
 完成したひとつの書物として客観的に聖書を読む
のではなく、神の愛と平安に満ちた聖書の続きが、
私たちの未来と現実の中に新たに造られていく心持
ちで、聖書を私たち自身が生きるのが大切なのだと
思います。
 復活のイエスはご自分の傷口を見せながら、トマ
スにこう語りかけました。「あなたの指をここに当
てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を
伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)。
 慈愛と憐れみをもって語られた主イエス・キリス
トのこの言葉は、この世界の痛みを表していると感
じます。
 さらにイエスは「信じない者ではなく、信じる者
になりなさい」と言いました(27節)。
 イエスがトマスに語ったこの言葉は、私たちに向
けられた言葉でもあります。
 「信じる者」とは、この世界でどのような悲惨な出
来事、絶望的なことが起ころうとも、それでもなお、
この世界に希望と愛を見出し続ける者なのではない
でしょうか。
 世界で起きていることの報道などを見ると、この
世は弱肉強食であり、弱く心優しい人々は底辺に埋
もれ力を持たない世界に思えるかもしれません。で
すがそうではありません。この世界は、心が弱く繊
細で優しい、そのような人々によって支えられてい
るのだと思います。
 あまりにも残酷なことが起きるこの世は、愛のな
い場所だと感じることがあるかもしれません。しか
し一方では、私たちの日常はささやかな愛であふれ
ているのです。夜、一日を振り返ってみて、それを
心に感じてみてください。
 私たちは、まだこの世界に残されている希望と愛
を信じながら、祈りのうちに、主イエス・キリスト
と共に歩んでいきましょう。

 お祈りをいたします。
 天の父なる神様。私たちは、確かなものを求めよ
うとして、すぐ近くにあらわれているあなたの御子
の存在を信じることができなくなることがあります。
私たちの心を開き、愛によって、あなたに信頼する
道を歩ませてください。御子 主イエス・キリストに
よって祈ります。アーメン