2026年4月12日日曜日

4月19日(日)復活後第3主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります


教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。















★ 主日の祈り

神様。

御子はパンを裂くことによって、弟子たちにご自身

を知らせてくださいます。

御子の贖いの働きを見ることができるように、私た

ちの信仰の目を開いてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(新約聖書)使徒言行録 

       2章14節a、36節~41節                                                                       (新約聖書)ペトロの手紙(一)

       1章17~23節

(新約聖書)ルカによる福音書    

       24章13節~35節















「 心は燃えて

       秋久 潤 牧師

2026年4月5日日曜日

4月12日(日)復活節第2主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。











イースターとは・・・?

復活祭とは、一度死んだイエス キリストが復活し
た日であり、そのお祝いのことです。生命の復活を
お祝いするという意味から、卵 (イースターエッグ)
 や多くの子供を持つウサギ (イースターバニー) な
どがシンボルとなっています。イースターが来ると、
やっと春が訪れる実感が湧きます。
この日、庭に隠したカラフルなゆで卵を子供たちが
探す遊びも世界中で行われています。

Easter (イースター) は、毎年日付が変わります。
3 月 22 日 ~ 4 月 25 日の間の日曜日になります。
今年は4月5日です。
復活祭は、クリスマスと並んで、教会では大事なお
祝いです。



★ 主日の祈り

全能・永遠の神様。

あなたは信じる者の力です。

疑う私たちを、見ないで信じる信仰によって、キリ

ストの豊かな祝福に与からせてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)エレミヤ書 

       31章1節~6節                                                                       (新約聖書)コロサイの信徒への手紙

       3章1~4節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       28章1節~10節


トマスの不信
カラバッジョ Caravaggio
サンスーシギャラリー
1601-1602年


イエスはトマスに言われた。
「私を見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は、幸いである。」






「 平和 
        秋久 潤牧師
 本日の福音書は、十字架の死から三日目に復活し
たイエスが、弟子たちの前に現れた場面から始まり
ます。
 復活したイエスが弟子たちにあらわれた時、弟子
たちは恐れの真っ只中にいました。なぜなら、イエ
スを憎み、イエスを殺したユダヤ人たちが、弟子で
ある自分たちをも迫害するのではないかと怯えてい
たからです。弟子たちは、家の戸に鍵をかけて閉じ
こもっていたのです。
 しかし、どのような隔(へだ)ても障壁(しょう
へき)も、復活のイエスの前には意味を成しません
でした。家の戸に鍵がかかっていたのにもかかわら
ず、するりとそこをくぐり抜けて来たかのように、
イエスは部屋の中で弟子たちの真ん中に立ち「あな
たがたに平和があるように」と言ったのです(19節)。
 このイエスには、澄み渡った軽やかさがあります。
十字架上で壮絶な死を遂げた私たちの主イエス・キ
リストは、よみがえったあと、悲壮感や重々しさを
もって弟子たちの前に現れたわけではありませんで
した。ユーモアを感じさせられるほどの軽やかさと、
あふれる慈愛をもって姿を現したのです。
 イエスは、十字架上で受けた、手とわき腹の傷を
弟子たちに見せます。手には、十字架上で打ち付け
られた釘の跡が、わき腹には槍で突かれた跡があり
ます。イエスが体に受けた傷は、イエスが復活して
もなお、そのまま残っていました。
 ペトロの手紙一 4章1節にこうあります。「キリス
トは肉に苦しみをお受けになったのですから、あな
たがたも同じ心構えで武装しなさい」。
 イエスが肉体に苦しみを受けたことは、単なる不
運な出来事だったのではなく、意味のあることだっ
たのです。そして私たち人間にとっても、「肉に苦し
みを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なの」
だとペトロは言います(1ペトロ4:1)。肉体に苦しみ
を受けるのは、残りの生涯を、自分の欲望にではな
く神の御心に従って生きるようになるためだと言う
のです。
 復活の主イエス・キリストを見た弟子たちは喜び
ました。暗闇の中にいた弟子たちの心は、主イエス
の光に照らされ、あふれる喜びで満たされたのです。
 弟子たちの喜びについて、イエスは生前、こう語
りました。「これらのことを話したのは、わたしの喜
びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満
たされるためである」(ヨハネ15:11)。
 私たちの内なる真(しん)の喜びは、自分の心の
中だけで作り出したものではなく、復活の主イエス・
キリストの喜びであるからこそ、尽きせぬ泉のよう
に湧き上がる、永遠の喜びとなるのです。
 ここでイエスが弟子たちに伝えた「あなたがたに
平和があるように」という言葉は、文語訳聖書では
「平安なんぢらに在(あ)れ」と訳されており、原
文のギリシア語を直訳すると「平安 汝らに」です
(ヨハネ20:19, 20:21)。
 「平安 汝らに」。それは、十字架上でこの上ない苦
しみを受けた主イエス・キリストの言葉であるから
こそ、大きな力があります。私たちは、どんな苦難
や困難の中にいる時も、心の内のあらゆる不安、恐
れ、憎しみが消え去り、主イエス・キリストの喜び
と平安で満たされることができるのです。
 イエスがご自分から弟子たちのもとに来てくださ
ったことで、弟子たちは至福の喜びにあふれました。
しかしこの時、弟子の一人であるトマスはこの場に
居合わせませんでした(24節)。トマスは、他の弟子
たちからイエスの復活について聞かされても、信じ
ようとしませんでした。
 その一週間後の日曜日、イエスは、家の中にいた
弟子たちの前に、再び同じように現れ、今度はトマ
スもその場にいました。
 現実に自分の目でイエスを見て、イエスの声を聞
いたトマスの疑いの心は完全に解け、トマスの心は
喜びと平安に満たされました。
 イエスから直(じか)に語りかけられたトマスは、
悲しみと苦しみの中で固く閉ざされていた心をイエ
スに開き、「わたしの主、わたしの神よ」と応答しま
す(28節)。
 イエスは、トマスにこう言います。「わたしを見た
から信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いであ
る」(29節)。
 これが本日の福音書箇所に記されているイエスの
最後の言葉です。そして、福音書記者は締めのよう
に次の説明をつけています。「このほかにも、イエス
は弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、そ
れはこの書物には書かれていない」(30節)。
 これは、私たちが具体的にはまだ知らないイエス
のわざが、他にも多くあることが示されている言葉
だと思います。
 キリスト者の内村鑑三(うちむらかんぞう)はこ
う述べています。「聖書はなお未完の書である」。そ
して私たちが、今日(こんにち)キリストの霊を受
けて、聖書の続きを新たに造らなければならないと
言います。
 完成したひとつの書物として客観的に聖書を読む
のではなく、神の愛と平安に満ちた聖書の続きが、
私たちの未来と現実の中に新たに造られていく心持
ちで、聖書を私たち自身が生きるのが大切なのだと
思います。
 復活のイエスはご自分の傷口を見せながら、トマ
スにこう語りかけました。「あなたの指をここに当
てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を
伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)。
 慈愛と憐れみをもって語られた主イエス・キリス
トのこの言葉は、この世界の痛みを表していると感
じます。
 さらにイエスは「信じない者ではなく、信じる者
になりなさい」と言いました(27節)。
 イエスがトマスに語ったこの言葉は、私たちに向
けられた言葉でもあります。
 「信じる者」とは、この世界でどのような悲惨な出
来事、絶望的なことが起ころうとも、それでもなお、
この世界に希望と愛を見出し続ける者なのではない
でしょうか。
 世界で起きていることの報道などを見ると、この
世は弱肉強食であり、弱く心優しい人々は底辺に埋
もれ力を持たない世界に思えるかもしれません。で
すがそうではありません。この世界は、心が弱く繊
細で優しい、そのような人々によって支えられてい
るのだと思います。
 あまりにも残酷なことが起きるこの世は、愛のな
い場所だと感じることがあるかもしれません。しか
し一方では、私たちの日常はささやかな愛であふれ
ているのです。夜、一日を振り返ってみて、それを
心に感じてみてください。
 私たちは、まだこの世界に残されている希望と愛
を信じながら、祈りのうちに、主イエス・キリスト
と共に歩んでいきましょう。

 お祈りをいたします。
 天の父なる神様。私たちは、確かなものを求めよ
うとして、すぐ近くにあらわれているあなたの御子
の存在を信じることができなくなることがあります。
私たちの心を開き、愛によって、あなたに信頼する
道を歩ませてください。御子 主イエス・キリストに
よって祈ります。アーメン

2026年3月29日日曜日

4月5日(日)主の復活主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります


イースターとは・・・?

復活祭とは、一度死んだイエス キリストが復活し
た日であり、そのお祝いのことです。生命の復活を
お祝いするという意味から、卵 (イースターエッグ)
 や多くの子供を持つウサギ (イースターバニー) な
どがシンボルとなっています。イースターが来ると、
やっと春が訪れる実感が湧きます。
この日、庭に隠したカラフルなゆで卵を子供たちが
探す遊びも世界中で行われています。

Easter (イースター) は、毎年日付が変わります。
3 月 22 日 ~ 4 月 25 日の間の日曜日になります。
今年は4月5日です。
復活祭は、クリスマスと並んで、教会では大事なお
祝いです。



★ 主日の祈り

神様。

あなたは私たちの贖いのため御独り子を十字架の死

に渡し、栄光の復活によって死の力から私たちを解

放してくださいました。

私たちが日ごとに罪に死に、復活の喜びのうちに御

子と共に永遠に生きることができるようにしてくだ

さい。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)エレミヤ書 

       31章1節~6節                                                                       (新約聖書)コロサイの信徒への手紙

       3章1~4節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       28章1節~10節

イエスは言われた。
「恐れることはない。
行って、わたしの兄弟たちに
ガリラヤへ行くように言いなさい。
そこでわたしに会うことになる。」


















「 復活なさった
        秋久 潤牧師

 本日は、十字架上で死んだ、私たちの主イエス・
キリストが、三日目に復活したことを覚える復活祭、
イースターの日です。
 本日の福音書は、イエスが十字架の死のあとに葬
られた墓を、二人のマリアが見に行った時、天から
降ってきた天使からイエスの復活を告げられた場面
です。
 聖書において、たびたび天使が登場する場面があ
ります。天使は、天上と地上をつなぐように、神と
私たちの橋渡しをし、神からのメッセージを伝える
役割を果たすのです。
 イエスは生前、自分は三日目に復活する、と言っ
ていました(マタイ16:21、17:23、20:19)。イエス
を十字架につけた人々は、イエスの弟子たちがイエ
スの遺体を盗み出し、イエスは死者の中から復活し
たと言いふらして民衆を惑わすことを警戒しました
(27:64)。そこでユダヤの指導者たちは、イエスの
墓に番兵を置きました。見張り役だった番兵たちは、
天から降ってきた天使が稲妻のように輝き、その衣
は雪のように白く、明らかにこの世のものではない
姿に恐れて震え上がり、死人のようになりました。
 突然の天使の出現に、二人のマリアも恐れを感じ
たことでしょう。そんな女性たちに対して、天使は
「恐れることはない」と語りかけます(5節)。
 さらに天使は、彼女らにイエスの復活を告げます。
もともと彼女たちは、イエスを慕う気持ちから、イ
エスの亡骸が葬られている墓を見に来ました。しか
し墓で遭遇した天使が「あの方は、ここにはおられ
ない」と言うように、イエスの遺体はもうそこには
ありません。死の中に、イエスはもういないのです。
 「あの方は死者の中から復活された」と、神の言葉
を伝える天使が告げました(7節)。十字架で死んだ
イエスを、神が死から復活させたのです。復活の体
は、神の栄光を輝かせている体です。
 「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」
と天使が言うように、イエスの復活は、あらかじめ
予告されていたものでした(6節)。マタイ16章21節
に、イエスが弟子たちに、御自分が必ずエルサレム
に行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの
苦しみを受けて殺され、三日目に復活することにな
ていると打ち明けたことが記されています。
 生前のイエスからそのように伝えられていたにも
かかわらず、弟子たちはイエスの復活を待ち受ける
心の準備をしていませんでした。弟子たちは、イエ
スが三日目に復活することを信じていたわけではな
く、イエスが殺されたあと、自分たちにも被害が及
ぶことを恐れて、隠れて息を潜めていました。いわ
ば彼らは、不甲斐無い弟子たちでした。
 しかし、イエスを裏切った引け目と迷いの中にい
る弟子たちを、イエスの方は決して見捨てていなか
ったのです。イエスの墓を訪れた女性たちに、天使
が現れ、イエスの復活を弟子たちに伝えるように命
じます。また、イエスが彼らよりも先にガリラヤに
行かれるので、そこでイエスにお目にかかれると告
げます(7節)。
 女性たちが恐れながらも大いに喜び、弟子たちに
知らせるために走って行くと、今度は天使ではなく、
イエス本人と出会います(9節)。イエスは、先ほど
の天使と同じ次のことを女性たちに伝えます。「恐れ
ることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラ
ヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うこ
とになる」(10節)。
 ガリラヤは、弟子たちが生活していた地であり、
弟子たちがイエスと初めて出会った地でした。ここ
で言われているのは、あなたが生活し、イエスと出
会ったその場へ行きなさい、ということです。そし
てそれは、「戻る」のではなく、「そこから新たに出
発しなさい」ということです。それは、神の無償の
赦しと、神との関係性の回復、そして新たな出発の
約束でした。
 ガリラヤは、イエスと弟子たちが出会い、イエス
の言葉が語られ、イエスの業(わざ)が行われた場
所です。そのとき弟子たちは、イエスが語ったこと
や行(おこな)ったことの本当の意味は分かってい
ませんでした。そして本当の意味が分からぬまま、
イエスとの別れの日が来たのです。
 しかし今、復活の栄光の中で再びイエスと出会い
直すために、原点となるガリラヤへ行きなさいと、
弟子たちは告げられます。神の御業と、神の深い計
画に信頼して歩みを起こす人たちは、神の計らいの
うちにイエスと再び出会います。
 主イエス・キリストの、十字架の死を超えた復活。
これがキリスト教信仰の出発点です。死によってす
べてが終わり閉じられるのではありません。神がそ
の いのちをつかさどり、神との永遠の交わりの中で、
私たちはキリストと共に新たに生き始めるのです。
 死は、復活のいのちに至る新しい命の門であり、
門出です。イエス・キリストは、墓にはもはやおら
れない。イエスの墓の前で、イエスの復活を告げる
天使の言葉がありました。それは死をも超えた、救
いと希望を知らせる言葉でした。
 
 主イエス・キリストは死に打ち勝って、復活したの
です。

 キリスト者である内村鑑三(うちむらかんぞう:
1861年−1930年)は、こう述べています。「愛するこ
と、これこそ勝つことである。憎むこと、これ負ける
ことである。愛をもって勝つことだけが永久の勝利な
のである」。
 さて、新たな出会いの季節である4月に入りました。
新たな出会いとは、全く初めての人と出会うことだけ
でなく、イエスと弟子たちのように、過去に関わりの
あった人と、単なる再会ではない、新しく出会い直す
ことも含まれているでしょう。
 「求めよ。さらば与えられん」とイエスは言います
(マタイ7:7)。神は、私たちが求めるなら、与えてく
ださいます。そして、求めることと、奪うことは違い
ます。私たち人間は、奪おうとするのではなく、真摯
に心から求めなければならないのです。
 私たちは、この地上に、同時ではなく一人一人別々
に生まれ、別々に死んで行く存在です。
 だからこそ私たち人間は、お互いの世界観や在り方
を尊重し、この地上で、人と人、国と国が、ゆるしと
愛と平安をもって共に歩んでいけるように祈りましょ
う。
 私たちは、イエス・キリストが復活した、このイー
スターの時を、喜び祝いましょう。
 イエスが十字架上で死に、三日目に復活したこの時、
絶望は希望へ、悲しみは喜びへ変わったのです。
その喜びは、満ち溢れる喜びであり、歓喜です。

 イースター、おめでとうございます。溢れる神の愛
恵みが、あなたに与えられますように。

 お祈りをいたします。
 天の父なる神様。私たちが、自分の求めているもの
に気付き、あなたが語られた言葉や、これまで私たち
が出会ってきた人やものと、御心によって新たに出会
い直すことができますように。復活の主イエス・キリ
ストによって祈ります。
アーメン