諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
たとえば、「自分の人生の現実を見てください」と
言われたら、あなたはどんな気持ちになるでしょう
か。ワクワクとした気持ちや、楽しい気持ちにはな
らないのではないでしょうか。「現実」という言葉か
ら伝わってくるものは、夢やロマンが感じられない、
味気ない響きかもしれません。
「現実」と逆の言葉のひとつは「象徴」だと思いま
す。「人生の象徴を見てください」と言われた方が、
はっきりとした意味は分からないながらも、何か心
の奥から、生きる力と希望が湧いてくるのではないで
しょうか。
カール・グスタフ・ユング、心理学で有名なユング
はこう述べています。「象徴的な生を生き、自分は神的
なドラマの参加者なのだと感じるとき、それが平和を
与えてくれます。それこそが人間の人生に唯一の意味
を与えてくれるものなのです」。
象徴とは、目に見えない抽象的な事柄を、具体的な
かたちに置き換えて表現することです。たとえば、ハ
ートや赤い薔薇は愛の象徴であり、鳩は平和の象徴で
す。また、十字架はイエス・キリストの象徴と言える
でしょう。ユングが言う「象徴的な生」とは、特別な
象徴と共にある人生、象徴を大切な導きとする人生の
ことです。
「象徴的な生を生きる」とは、「愛を象徴とした生を
生きる」「平和を象徴とした生を生きる」、そして「キ
リストを象徴とした生を生きる」などの、精神的で霊
的なテーマを表明した人生を生きることなのだと思い
ます。
人生の中心に大切な象徴があるとき、私たちは生き
ることの意義と目的を実感するでしょう。そして、そ
のような象徴的な生を生きる人は、おのずと周囲の人
々の心を揺り動かし、霊的な影響を与えていくのだと
思います。
また、ユングはこう述べています。「ところが、神話
はフィクションではないのだ。それは何度でも観察可
能な、たえず繰り返される事実なのである。神話は人
間に生じる。ギリシャ神話の英雄たちと同じように、
人間には神話的な運命があるのだ」。
神話とは、人間の集合的な心の体験が、象徴的に表現
された物語です。象徴的な生を生きる人ほど、この世
の現実において、まるで神話やおとぎ話のような経験
をそのままするのではないでしょうか。そしてまた、
象徴的な生を生きる人のその体験が、人間の集合的な
心の体験を作り変え、進化させていく役割を持つのだ
と思います。
そして私たちは、その役割を他の誰かに任せるので
はなく、一人ひとりがこの人生において、神から与え
られた私たちの命をもって、象徴的な生を生きていく
ことが大切です。
さて、本日の福音書には、イエスが十二人の弟子た
ちを、神の福音を宣べ伝えるために人々のもとへ派遣
するときに語った言葉が記されています。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、
わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受
け入れるのである」とイエスは言いました。
神の福音を伝える働きは、単なる個人的活動ではな
く、神から遣わされた者が行う神の働きそのものであ
ることを、イエスは弟子たちに伝えます。
これは、今の時代に生きる私たちにも言えることで
す。私たち一人ひとりが神の福音を他者に伝えるとき、
その働きは単なる人間的な活動ではなく、神の国の使
者としての働きなのです。
イエスは、預言者を預言者として受け入れる人は、
預言者と同じ報いを受けると言いました。預言者とい
うと、未来に起きることを予告する人というイメージ
があるかもしれませんが、必ずしもそれだけではあり
ません。預言者とは神の言葉を預かり、それを伝えて
人々を神の方に向かせる導き手のことです。
「預言者と同じ報いを受ける」の「報い」とは、差
し出したものに見合った報酬が返ってくる「対価」で
はありません。「報い」とは、私たちがなすことをは
るかに越えて、愛と恵みによって限りなく与えてくだ
さる、計り知れない神からの賜物です。
ヨハネ福音書6章28節において、「神の業を行うため
には、何をしたらよいでしょうか」と人々がイエスに
尋ねました。イエスはこう答えます。「神がお遣わし
になった者を信じること、それが神の業である」。
「何をしたらよいか」という問いに対して、ただイエ
スは「神がお遣わしになった者を信じなさい」と言っ
たのです。信じることそのものが、既に神の業だと言
うのです。「信じる」とは、何か行動を起こすよりも抽
象的なことです。様々な困難や問題に直面する私たち
の人生において、ただ「信じる」だけでは、心もとな
く感じることがあるでしょう。しかしイエスは、まず
初めにただ信じることが大切であると私たちに伝えま
す。すべては神を信じることから始まり、行動はあと
から自ずとついてくるのです。
そして私たちは、自分を受け入れてくれる人から与
えられる一杯の水を、神から与えられたものとして、
心から受けとりましょう。
そうした時、私たちの日々は、神の愛と祝福にあふ
れていることを知ることができるでしょう。
私たちは生きていく中で、危機を感じるときがあり
ます。それは、自分の心の危機であったり、病気や痛
みによる身体の危機だったりするでしょう。危機は避
けたいものであり、自らそれを望む人はいないと思い
ます。しかしその危機こそが、人生においての大きな
転期となるのです。
もう生きているのが嫌だと思えるような苦難の中に
いるときこそ、私たちはすべてを神に委ね、神の言葉
に耳を傾けることが大切です。私たちは深い嘆きや苦
しみの中にいるときこそ、神と共にまっすぐな道を歩
んでいきましょう。まっすぐな道とは、神の愛と平安
に根差した道です。
「まっすぐな道」も象徴的な言葉と言えます。この世
にある現実の道路や道に、寸分の歪みもない完全にま
っすぐな道はないからです。
生きていく中の、つらく苦しい状況において、自暴
自棄になったり人を恨みたくなることもあるかもしれ
ません。心が荒み、負の連鎖に陥っていくような、荒
れた行動を起こしたくなるときもあるでしょう。です
が、どんな困難や苛立ちの中にあるときも、私たちは
心の中に「まっすぐな道」という象徴を置いて、神と
共に歩んでいきましょう。
憐れみ深く慈愛に満ちた、主イエス・キリストの御名
を通して祈ります。
お祈りをいたします。
神様、私たちが心の平安のうちに、日々を歩んでい
くことができますようにお導きください。あなたの愛
によって、助けを必要とする隣人に手を差し伸べるこ
とができますように、力をお与えください。あなたの
喜びが私たちの喜びとなり、私たちの喜びがあなたの
喜びとなりますように。主イエス・キリストの御名に
よって祈ります。
アーメン















