諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
私たちをお守りくださる神様。
私たちの内と外に吹き荒れる嵐は、私たちを恐
れさせます。
あなたの民を絶望から救い出し、あなたの子ど
もたちを恐れから解き放ち、御子を信じる信仰
の内に私たちを守ってください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
秋久 潤 牧師
祈りとは、何でしょうか。祈りとは、ひとつには、
自らの心の内を静めて沈黙し、神の存在をそばに感
じ、神からの語りかけを待つことだと思います。「ユ
ー・レイズ・ミー・アップ (You Raise Me Up)」とい
う有名な歌があります(Secret Gardenの楽曲)。人間
同士のラブソングとして聞くこともできますが、神へ
の祈りを思わされる深いメッセージが込められた歌で
す。その歌詞の日本語訳をお読みします。
「落ち込んで心がとても疲れたとき/悩みが押し寄
せ、心にのしかかるとき/そんな時、私はただ静かに
じっとここで待つ/あなたが来て私の隣に座ってくれ
るまで」(私訳)。
この詞の「あなた」の部分で、自分にとっての特定
の誰かを思い浮かべる人もいれば、神の存在を思い浮
かべる人もいるでしょう。また、特定の誰かと神の存
在が同時に重なって思い浮かぶ人もいるかもしれませ
ん。
もう一度この詞をお読みしますので、自分にとって
の「あなた」を感じながら、聞いてみてください。
「落ち込んで心がとても疲れたとき/悩みが押し寄
せ、心にのしかかるとき/そんな時、私はただ静かに
じっとここで待つ/あなたが来て私の隣に座ってくれ
るまで」(私訳)。
中世ドイツの神学者マイスター・エックハルト(12
60年頃-1327年)は、祈りについて、次のように説教を
しています。「イエスが魂の内で語るのを求めるなら
ば、魂はひとりでいなくてはならないし、イエスが語
るのを魂が聞きたいと思うならば、魂はみずから沈黙
しなければならない」。
祈りとは、人間がまず魂において沈黙し、神の言葉
を聞くことだとエックハルトは言います。私たちは、
多くの人々の中にあっても、心の中にただひとりの空
間を作ることが大切です。ここでの「ひとり」とは、
誰とも、自分とすら言葉を交わさない状態のことを言
います。人が自分の声を聞いている間は、神からの呼
びかけには気がつきません。魂の内でイエス・キリス
トからの語りかけを聞くには、魂はみずからは何も願
わず、ただ沈黙することが必要なのです。
本日の福音書は、イエスが弟子たちを強いて舟に乗
せ、ガリラヤ湖の向こう岸へ先に行かれ、その間に群
衆を解散させた場面から始まります。
これは、五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の群
衆を満腹にさせたイエスの奇跡の、すぐあとのことで
した。
イエスの奇跡によって、人々の心は高揚し盛り上が
っていたと思われます。しかしそんな中、イエスは弟
子たちをその場から引き離すかのように舟に乗せ、群
衆を解散させ、祈るためにひとり山に登りました。聖
書の中で山は、日常生活と離れた神聖な場所の象徴で
あり、神がおられる聖なる場所とされています。
華々しい奇跡を起こしたあとのイエスは、人々から
離れひとりになって、静かに祈る必要があったので
しょう。イエスにとって祈ることは、神の思いとひと
つになるための大切な時でした。私たちもまた、イエ
ス・キリストを手本として、ひとりになって静かに祈
ることが必要なのです。
イエスがひとり山で祈っている中、弟子たちは、イ
エスから離れてガリラヤ湖の上で舟に乗っていまし
た。周囲の地形よりも低い位置にあるガリラヤ湖
(海抜マイナス208メートル)は、すり鉢状になって
いて、周りの小高い丘から吹き下ろす風によって、し
ばしば嵐になることがあるようです。この時もそうで
した。弟子たちは逆風に遭い、舟は進めなくなってし
まったのです。
イエスはなぜ弟子たちを、彼らだけで舟に乗せたの
でしょうか。イエスは、群衆とだけでなく、弟子たち
とご自身との間にも、一旦、距離を置く必要を感じた
のだと思います。
しかし、嵐の中、舟の上で波に脅かされていた弟子
たちは、決して見捨てられてはいませんでした。「夜
が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのと
ころに行かれた」のです。それまでイエスは一晩中、
山の上で祈り続けていたのでしょう。しかし荒れる湖
の上で悩まされている弟子たちのために、山から下り
てきて、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた
のです。
弟子たちは、湖の波の上を歩くイエスを見て、「幽
霊だ」と言っておびえます。「おびえ」と訳されている
言葉は、原語であるギリシア語タラッソーを直訳すれ
ば「かき回される」「かき乱される」という意味です。
舟が逆風にかき回されるだけではなく、弟子たちの心
もかき乱され、彼らは恐怖のあまり叫び声を上げま
す。
おびえる弟子たちに、イエスはすぐに話しかけまし
た。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。
ここでイエスが言われる「わたしだ」とは、「わたし
はいる」という意味でもあります。これは、イエス・
キリストが神として顕現される時に使われる言葉で
す。
「わたしはいる」とは、神の存在が根源的であるこ
とを示す言葉です。神は誰かによって存在させられた
のではなく、ご自分でとこしえに存在しています。ま
た、ご自分でとこしえに存在し、すべてのものを存在
させるのが神であります。
イエス・キリストは私たちに対して、私たちがどの
ような嘆きや苦しみの中にあっても「わたしだ」と語
りかけてくださいます。イエス・キリストは、わたし
が一緒にいるのだから、どんな時も大丈夫だと、いつ
も私たちを力づけてくださっているのです。
あらゆる場面において、弟子のペトロは積極的で
す。このときもペトロは、自分も湖の上を歩かせてほ
しいとイエスに申し出ました。イエスはそんなペトロ
の願いを受け入れます。イエスはペトロに対して一
言、「来なさい」と言われました。
ペトロは、嵐が吹き荒れる厳しい状況の中、イエス
・キリストを信じて、水の上で一歩を踏み出します。
イエス・キリストだけをまっすぐに見つめながら歩き
始めたとき、ペトロは湖の上を歩くことができたので
す。
しかしペトロは、強い風に気づいて怖くなり、沈み
かけます。ペトロは強い風に気をとられ、怖れにとら
われて、イエスから目を逸らしてしまったのです。水
の中に沈みかけ「主よ、助けてください」と叫ぶペト
ロに、イエスはすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、
こう言います。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
そして、イエスとペトロの二人が舟に乗り込むと、風
は静まりました。
私たちの日々も、いつ嵐が来るか分からない湖に漂
う小舟のようなものだと思います。しかしイエス・キ
リストは、私たちが嵐の中にいる時も、波立つ湖の上
を歩かせてくださり、沈みかけても手を差し伸べてく
ださるお方なのです。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というイエス
の言葉は、叱責ではなく、私たちへの深い憐れみと慈
しみが込められたものだと感じます。
先ほどお読みした「ユー・レイズ・ミー・アップ
(You Raise Me Up)」の歌詞の他の箇所をお読みしま
す。
「あなたが私を立ち上がらせてくれるから、私は高
い山々の上にも立てる/あなたが私を立ち上がらせ
てくれるから、私は嵐の海も歩ける/あなたの肩に
身を預ける時、私は強くなれる/あなたは私を立ち
上がらせ、『私以上の私』にしてくれる」(私訳)。
神は、どんな時も私たちのそばにいてくださり、心
の重荷によってうずくまり動けなくなった私たちを、
愛によって立ち上がらせてくださいます。そしてまた
私たち自身も、隣人のかたわらに寄り添い、うずくま
る隣人を愛によって立ち上がらせる存在となることが
できるのです。
私たち人間は弱い存在ですが、神への祈りによっ
て、私たちの心は強められ、高められます。
あなたがどんな苦しみや不安の中にいる時も、神は
決してあなたを見捨てません。
私たちは、試みの中にいる時こそ、イエス・キリス
トを真っ直ぐに見つめ、差し伸べてくださるキリスト
の御手をしっかりと握り、共に日々を歩んでいきま
しょう。
お祈りをいたします。
神様、御名を賛美いたします。熊本地震で被災され
た方々が、暑さの中で大変な思いをされています。
どうか、あなたの慰めと支えをお与えください。
被災された方々のために、私たちがなすべきことをお
示しください。主イエス・キリストの御名によって祈
ります。アーメン











