2026年9月20日日曜日

9月27日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります















教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

命の与え主・愛の神様。

あなたは、私たちがいつも過ちを犯す者である

ことをご存じです。

恵みによって私たちを過ちから守り、それを乗

り越え、救いの道へと導いてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)エゼキエル書 

       18章1節~4節

          25節~32節                                                                            (新約聖書)フィリピの信徒への手紙

       2章1~13節
(新約聖書)マタイによる福音書    

       21章23節~32節



徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより
先に神の国に入るだろう。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、
あなたたちは彼を信ぜず、
徴税人や娼婦たちは信じたからだ。











 
 




 「 父の望み 」

       秋久 潤 牧師 


2026年9月13日日曜日

9月20日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝のご案内

本日の礼拝は、午前10時30分から始まります












教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。

甲信地区合同礼拝(WEB礼拝)


★ 主日の祈り

全能・永遠の神様。

あなたは僕(しもべ)である私たちに、限りな

い慈しみをあらわしてくださいます。

自分の力に依り頼むことのできない私たちを憐

れみ深く裁き、御子が示した心の広さを持つこ

とができるように育ててください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)ヨナ書 

       3章10節~4章11節                                                                       (新約聖書)フィリピの信徒への手紙

       1章21~30節
(新約聖書)マタイによる福音書    

       20章1節~16節

ぶどう園の労働者のたとえ 
レンブラント 1637年











 
 
   「わたしはこの最後の者にも、
     あなたと同じように、
    支払ってやりたいのだ。」






 様々な苦労  」

       朝比奈 晴朗 牧師 


 今から30年以上前、東京の恵比寿にある、華僑、つ
まり中国系の人々が集う教会に通っていたことがあり
ます。
 礼拝出席は200名くらいの規模の大きい教会で、日
本に留学してきた若者がこの教会でイエス様を信じて
洗礼を受け、教会を支え、やがて青年会の仲間と結婚
して家庭を作り、子どもが生まれれば家族そろって礼
拝に集う、という良い循環を生み出していました。
 子ども達は中学生や高校生になっても自主的に礼拝
に通っていて、日本人の友人を誘って来ることも多
く、教会はいつもにぎやかでした。華僑の子ども達は
両親が使う中国語より日本語の方が得意なので、日本
語で聖書を教えられる教会学校教師は重宝され、私も
低学年の暴れん坊達のクラスの教師にスカウトされま
した。
 その時期はちょうど中高生が立て続けに洗礼を受
け、教会学校の教師になったり聖歌隊に入ったり、そ
れぞれ楽しそうに過ごしていました。そんなおり、た
またまですが、洗礼も奉仕も礼拝出席も、なんとなく
拒んでいる感じの高校生と話す機会がありました。
 「君は他の子みたいに洗礼を受けないの?」と尋ねる
と、彼はニヤッと笑って「僕は歳とって死ぬ間際に
なったら受けるんで」と答えたのです。私はこの言葉
に違和感を覚えたものの、あまり追求できず「あ、そ
うなんだ」と答えただけでした。
 普通の高校生ですから、自分は明日死ぬかもしれな
い、などとは考えないでしょう。だからと言って「奉
仕はせず、礼拝出席もほどほどにして、自分のやりた
いことをやって歳をとり、死ぬ直前に洗礼を受けて天
国に滑り込んでやる」と宣言するのは行き過ぎな気が
して、あまりいい気分ではありませんでした。
 このお話を聞いている皆さんの多くは、私の感じた
違和感に共感してくださるでしょう。そしてその方々
はおそらく、洗礼を受けてから何年も教会に集い、ク
リスチャンの少ない日本で、苦労しながら様々な奉仕
を掛け持ちして頑張っている方々ではないでしょう
か。
 ちょっと意地の悪い言い方になりますが、実は今日
の福音書の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、真面目
で誠実なクリスチャンであればあるだけ共感しにくい
お話だと言われています。実際、私の知人のクリス
チャンが「この話はわからない」とぼやくのを聞いた
ことがあります。
 これがどんなお話だったか、もう一度福音書を見て
みましょう。「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働
者を雇うために、夜明けに出かけて行った」とイエス
様のお話が始まります。主人が出かけたのは日雇い労
働者が職を求めて集まる「寄せ場」のようなところ
だったのでしょう。
 主人は1日につき1デナリオン支払う約束をして労
働者達を自分のぶどう園に送ります。1デナリオンは
当時の労働者の1日分として標準の給料ですから、彼
らは納得して出かけて行きました。
 主人はその後、何度も寄せ場に出かけては、人を雇
い入れます。朝の9時、昼の12時、夕方の3時、そして
ほとんどの仕事が終わろうかという夕方5時にもまた
出かけて、誰からも雇われず、一日中立ち尽くしてい
た人々に声をかけてぶどう園に行かせたのです。
 やがて労働時間が終わり、主人は監督に、最後に来
たものから順に支払うように命じます。監督は主人に
言われた通り、まず夕方5時ごろに来た人々に1デナ
リオンずつ支払います。順番に支払いを終え、最初に
雇われた人の番がきます。しかし彼らが受け取ったの
も同じ1デナリオンでした。
 早朝から働いた人々は、「遅く来た彼らが1デナリ
オンもらえるなら、自分はもっともらって良いはず
だ」と、主人に不満をぶつけます。 しかし主人は彼
らに向かって、「1日1デナリオンで雇われたのだか
ら、自分の分を受け取って帰りなさい。」と言います。
そして「最後の者にもあなたと同じように支払ってや
りたいのだ。自分のものを自分がしたいようにするの
は当たり前だ」とも言ったのです。
 約束通りとはいえ、あまりにも不公平だと揉める人
々の気持ちもわかります。まして夕方5時ごろまで仕
事もせず、ぶらぶらしている人をたった1時間だけ雇
い、1日分の給料を払うとは、とんでもない話です。
 さらには「私は自分のものを自分がしたいようにす
る」とか「彼にいくら払おうが、あなたには関係がな
い」と言うのですから、これは大問題です。この噂が
広まれば、この主人のぶどう園で朝早くから汗を流し
て働く人はいなくなるでしょう。
 しかし、このお話を読むとき大切なのは、これは
「この世の話」ではなく、「神様がお決めになった、
天の国のルール」である、と言うことです。天の国の
ルールだからこそ、神様は日が暮れる直前まで誰から
も見向きもされなかった人を、あえてぶどう園に招か
れるのです。
 すでにお気づき方も多いと思いますが、夕方5時ご
ろに雇われた人、とは人生の遅い時期に神様を信じ、
何一つ奉仕ができなかったような人のことで、夜明け
から働いた人とは長い間奉仕を続けてきた人です。
 神様は、たとえ人生の最後の残りわずかな時間で
あっても、ご自分の愛を知り、受け取ってくれる人が
愛おしいのです。そして、長い間共に働いたあなた方
は、悔い改めた人を「滑り込みだ」「ずるい」などと
裁いたりせず、一緒に喜んでほしい、と思っておられ
るのです。
 この神様のルールは、本日読んでいただいたもう一
つの聖書箇所、旧約聖書のヨナ書にも、はっきりと見
ることができます。主人公のヨナは、ぶどう園で朝か
ら働いて1デナリオンもらった人々よりも、もっと
もっと不条理な思いをした人物でしょう。
 ヨナ書のお話をおさらいしておきましょう。ヨナ
は、神様からニネベという大きな町に行って「あなた
方は滅びる」と告げるよう命じられます。ニネベとい
うのは当時の大国アッシリアの首都で、イスラエルの
敵国ともいうべき国です。
 ヨナはそんな町に行くのは嫌だとばかり、役目を拒
んで逃亡しようとしますが、海に放り込まれたり魚に
呑み込まれたり、と散々な目に遭います。苦労の末に
悔い改めたヨナはニネベに辿り着くと、神様から命じ
られた通り「あと40日でニネベは滅びる」と人々に告
げました。
 それを聞いたニネベの王様は豪華な服を脱ぎ捨て、
ボロボロの衣に着替えて国民に呼びかけます。「人も
家畜も断食して神様の前に祈り、いっさいの悪いこと
をやめなさい。そうすれば神様が思い直してくださる
かもしれない。」国民は皆、このおふれに従います。
 神様は彼らが悔い改め、悪の道を離れたことをご覧
になって、なんとニネベを滅ぼす予定を取りやめられ
ます。ニネベの人々はどんなに喜んだことでしょう。
 しかし収まらないのはヨナの方です。こんなに大変
な思いをして神様の御心を告げに来たのに、神様の方
が予定変更するなんてあんまりだと嘆き、こんなこと
なら死んだ方がマシだ、とまで言い始めます。
 そんなヨナに神様は、ニネベの人々が悔い改め、悪
から離れたことがどれほど嬉しかったかしれない、と
告げるのです。
 お話は神様の言葉で終わっているので、ヨナがどん
な顔をして聞いていたかはわかりません。しかし自分
もまた神様を裏切り、苦しみの中で悔い改め、救わ
れ、赦された存在だった、と苦難の一つ一つを思い返
すことができたなら、きっと清々しい顔で納得できた
ことでしょう。
 そしてここにもまた「ご自分の愛を知り、受け取っ
てくれる人の存在がどんなにか愛おしい」という神様
の思いが込められています。そこにはヨナ自身も含ま
れていて、「ヨナも一緒に喜んでほしい」と言う神様
のメッセージもまた、ここにあるのです。
 今日共に読みました「ぶどう園の労働者」と「ヨナ
書」のエピソードは、一生懸命働く奉仕者の視点から
見ると、ただただ不公平であんまりなお話かもしれま
せん。しかし神様はそんな私たちにも目を注いでくだ
さっています。
 私たち一人ひとり、信仰生活の長い人がいればも短
い人もいる、教会から離れた経験のある人もいれば、
ずっと通い続ける人もいる。そんな私たちが神様に
よって一つ所に集められたのには、神様にしかわから
ない理由があります。その理由は御国に招かれて神様
の御前に立つ時、はっきりとわかることでしょう。そ
の時まで、私たちはイエス様と共に労苦を重ねなが
ら、神様に与えられた人生を歩んでまいりましょう。


 


2026年9月6日日曜日

9月13日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

憐れみ深い、裁き主である神様。

あなたの赦しは、泉のごとく尽きることがあり

ません。

私たちの石のように頑なな心を、あなたを愛し

敬う心に置き換え、み旨を喜んで行うことがで

きるようにしてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)創世記 

       50章15節~21節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       14章1~12節
(新約聖書)マタイによる福音書    

       18章21節~35節












 
 




 ゆるし  」

       秋久 潤 牧師 


 ドイツの神学者であり牧師のディートリッヒ・ボン
へッファー(1906 - 1945年)という人がいました。
ボンヘッファーは、ナチスの支配に抵抗したことで処
刑され、殉教した牧師としても知られています。
 ボンヘッファーは37歳の時、ナチスから迫害されてい
るユダヤ人の亡命に協力したなどの理由によって逮捕
されます。しかし、ボンへッファーは、囚人として拘
束されている状況においても、周囲の囚人たちや、監
視の兵士までにも魂の導き手である牧者としての働き
をして、人々から信頼されました。
 そのことが、ボンヘッファーが牢獄の中で書いたキ
リスト教の神学にまつわる思想を、外部の同志に伝え
ることを可能にしました。それによって、ボンヘッ
ファーの獄中での思索が明るみに出て、後世に残った
のです。
 ボンヘッファーが獄中から友人に宛てた手紙の中
に、このような言葉が綴られています。「私たちの喜
びは苦難の中に、私たちの生は死の中に隠れていま
す」(1944821日)。
  逮捕されてから2年後、ボンヘッファーが39歳の
時、彼がヒトラー暗殺計画に関わったことが発覚して
ボンヘッファーは死刑判決を受け、その翌日に処刑さ
れることになりました。  
 絞首刑が執行される前に、ボンヘッファーは最後の
祈りをささげ、こう言いました。「これが最後です。
私にとってはいのちの始まりです」。 
 ボンヘッファーは肉体の生死を超えたところに、
「まことの生」「まことのいのち」を見ていたのだと
思います。
 本日、私たちに与えられた福音書は、マタイによる
福音書1821節から35節です。ボンヘッファーは、
1935117日、29歳の時に、この箇所の説教をした
ことがありました。
 本日の福音書は、弟子のペトロがイエスのところに
来て、こう尋ねる場面から始まります。「主よ、兄弟
がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきで
しょうか。七回までですか」。
 当時、ユダヤ社会では、アモス書1章の言葉をもと
にして「赦しは三回まで」と考えられていました。三
回までは赦しても、四回目は、もはや赦されるべきで
はないということです。
 ペトロは、三回どころか、七回まで赦すべきですか
と言って、イエスに「立派だ」と認められたい気持ち
があったのかもしれません。しかしイエスはそんなペ
トロに「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」
と答えたのです。
 770倍は490であり、途方もない回数です。そして
これは、490回までは赦して491回目からは赦さなくて
もよいという意味ではありません。これは、何度でも
無制限に赦しなさいということです。相手が何回罪を
犯し、自分が何回赦したかを数えているような心は、
およそ真(しん)の赦しから程遠いのだということだ
と思います。
 そしてさらにイエスは、ペトロに天の国のたとえ話
をしました。このたとえ話は、ある王が、家来たちに
貸した金の決済をしようとするところから始まります。
 王は家来の一人に、一万タラントンのお金を貸して
いました。一万タラントンとは六千億円ほどであり、
私たちの想像を絶する金額です。この家来は、一生を
かけても絶対に返すことのできない多額の借金を負っ
ていたのです。
 家来は「どうか待ってください。きっと全部お返し
します」としきりに王に願います。王は、その家来を
憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてあ
げました。
 ここでの王は、私たちにとっての神を表しているこ
とは明白です。神は、私たちが一生かかっても返しき
れないほどの借金、すなわち罪や過ちを赦してくださ
るお方なのです。
 しかし、このたとえ話はここで終わりません。あり
がたい恩赦を王から受けたこの家来は、その大いなる
恵みを活かすことができなかったのです。
 彼は釈放された後に、今度は自分がお金を貸してい
る仲間に出会います。仲間に貸している借金は、100
デナリオンという約100万円の金額であり、金額とし
ては大きいものの、自分が王から帳消しにしてもらっ
た金額のわずか60万分の1の額でした。しかしこの家
来は、借金を返せない仲間を赦さず、牢に入れます。
神に赦された者が隣人を赦せないのです。大きな赦し
が与えられたのに、それをすっかり忘れてしまう人間
の姿がここにあります。
 ボンヘッファーが、この福音書箇所の説教の中で、
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回
赦すべきでしょうか」というペトロの問いにイエスが
返答している形をとって、それについて語っている部
分があります。
 彼の説教のその部分をお読みしますので、信義のた
めに自らの命をキリストにささげた、ボンヘッファー
の心と魂、そしてイエス・キリストを感じながら聞い
てみてください。では、お読みします。
 「ペテロよ、数えてはならない。そうしないで、数
限りなく、赦すがよい。いつまでという問いに悩まさ
れず、無限に、ペテロよ、無限に、赦すがよい。それ
が赦しなのだ。—— そして、それがあなたに対する恵
みなのであり、そうすることのみがあなたを自由にす
るのだ!  
 一回、二回、三回、とあなたは数える。そのため
に、事態はあなたにとって、だんだんと威嚇的にな
り、兄弟への関係は、だんだんと悩み多きものとな
る。あなたがなおも数えている限りは、繰り返し繰り
返し、他人の昔の罪を数え上げているのであって、実
際には、まだ、—— まだ一度も! —— 赦してなんか
いないのに、実際、あなたは何も気がついていないの
か。数えることから、ペテロよ、自由になれ。赦しと
許しは、数も終りも知らないのだ。あなた自身の正し
さに心を煩わす必要はない。それは神の所にたくわえ
られているのだ。無限に赦すがよい! 赦しには、初
めもなく、終りもない。赦しは、日ごとに、絶え間な
く、起こるのだ。赦しは神から来るからだ。」
(『ボンヘッファー説教全集3  1935-1944年』)
 ボンヘッファーの死後、81年が経ちましたが、今も
なお、ボンヘッファーが残した言葉は、この地上で生
き続けています。
 さて、9月も半分が過ぎようとしています。先日、
外を歩いていた時、赤トンボが飛んでいて、秋の気配
を感じました。
 人は、神と共に生きている。
 こういった言葉は、私たちが耳で聞いたり、文字で
目にしたりして、これまで何度も触れてきた言葉で
しょう。
 しかし私たちはこのことを、外から入ってくる概念
としてではなく、自分自身の心の底から感じる時があ
るのだと思います。
 人は、神と共に生きている。
 それを心の底から感じた時、私たちは自分の過去・
現在、自分の全人生においての、測り知れぬほどの神
の祝福と愛に気づくことができるでしょう。
 神が私たちを赦してくださるように、私たちも隣人
と自分自身を赦しながら、この地上での時を、希望と
喜びにあふれて共に歩んでいきましょう。

お祈りをいたします。

 神様、御名を賛美いたします。私たちが、あなたか

ら与えられたいのちを輝かせながら生きていくことが

できますように、力をお与えください。私たちの心が、

あなたの愛をそのまま映し出し、あなたの愛によって

隣人と自分自身を赦し愛することができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン


2026年8月30日日曜日

9月6日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

主なる神様。

あなたの限りない憐れみによって、教会を活か

してお守りください。

私たちは脆く、あなたの助けなしには何もでき

ません。

あらゆる危害から遠ざけて、命と救いへと導い

てください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)エゼキエル書 

       33章7節~11節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       13章8~14節
(新約聖書)マタイによる福音書    

       18章15節~20節









 
     





 二人または三人  」

       秋久 潤 牧師 

2026年8月23日日曜日

8月30日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

神様。

世のために苦しみの道を選ばれた御子に、感謝

します。

御子に倣って、私たちが己を低くし、従順の道

を歩み、あなたの戒めに従うことができるよう

に力を与えてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)エレミヤ書 

       15章15節~21節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       12章9~21節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       18章21節~28節

「わたしについて来たい者は、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、
私に従いなさい。」






 





       





 十字架を背負って  」

       秋久 潤 牧師 

 旧約聖書のイザヤ書にこう記されています。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わた

しの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる」

(イザヤ55:8)。

 私たち人間には、不快なことや嫌なことを避けたい

と願う気持ちがあると思います。しかし、神の計り知

れない大きな思いは、私たちの小さな思いをはるかに

超えています。試練や苦しみの中にこそ、神の救いの

計画が備えられていることがあるのです。

 神は、私たちが苦しみの中にあるときも、絶望では

なく希望を与えようとしています。どのような困難の

中においても、私たちが希望と喜びを持ち続けること

を、神は望まれます。そして、キリストの受難と十字

架、復活が、私たちの光であり希望なのです。

 本日の福音書は、イエスがご自分の受難と死、復活

を初めて弟子たちに打ち明ける場面から始まります。

「打ち明ける」という言葉には、ある種の重さがあり

ます。「打ち明ける」とは、自分の秘密や心の内にある

苦しみを、思い切って人に話したり、自分の胸の内を

包み隠さず誰かに伝えることです。

 私たちも人生の中で、自分の秘密やそれまで隠して

いた心の痛み、苦しみを誰かに打ち明けたことがある

のではないでしょうか。逆に、誰かからその人の秘め

たる胸中を打ち明けられたことがあるかもしれませ

ん。

 また、もし今まで、人に自分の心の内を打ち明けた

ことも、人から打ち明けられたこともなかったとして

も、これから先に、そのようなことがあるかもしれま

せん。

 本日の場面で弟子たちは、他ならぬイエスから、イ

エスご自身の今後にまつわる深刻な内容を打ち明けら

れます。イエスが弟子たちに打ち明けたことは、実の

ところは、深刻というよりも、極めて深淵な内容でし

た。しかしこの時の弟子たちには、それが分かりませ

んでした。弟子たちには、イエスが深刻になって、何

か悲壮感漂う話をしているかのように感じたかもしれ

ません。

 イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長

老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて

殺され、三日目に復活することになっていると弟子た

ちに伝えます。「必ずエルサレムに行って……復活する

ことになっている」の「必ず……することになってい

る」とは、イエスの強い決意を示しているだけではあ

りません。それが神の定めた計画だということを表し

ているのです。

 神の計画は、イエスの苦難と死と復活を通して、救

いを実現させることでした。イエスはその神の救いの

計画にどこまでも従おうとされたのです。十字架は決

して敗北ではなく、罪と死に対する勝利へ向かうもの

であることが、この「三日目に復活することになって

いる」という言葉の中に含まれています。

 しかし、弟子たちはイエスの受難予告を理解できま

せんでした。そこでペトロはイエスをわきへお連れし

て、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあっ

てはなりません」と言ってイエスをいさめます。ここ

の原文のニュアンスは、ペトロがイエスを非難し叱り

つけた、という激しいものです。

 それは、イエスの身を案じ、イエスを思いやる気持

ちからの言葉でもあったと思います。弟子たちの混乱

や、やる気を削がれることへの懸念と、イエスが死ん

だら弟子の自分はどうなるのかとの不安を打ち消した

い思いもあったことでしょう。弟子たちは、当時のほ

かの人々と同様、地上で栄光に輝き、勝利を収めるメ

シア像しか受け入れられなかったのです。

 イエスはそんなペトロに向かって「サタン、引き下

がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で、イ

エスが悪魔に向けて発した「退け、サタン」を思わせ

る厳しい言い方です。サタンとは、人を神から引き離

す力の象徴です。

 イエスはなぜここまで強く反応したのでしょうか。

それは、ペトロの言葉の中に「神の思い」に抵抗する

「人の思い」が含まれていたからです。「人の思い」

とは、「人間の欲・打算」とも言えるでしょう。そし

てペトロがイエスに向けたその言葉は、サタンが荒れ

野の誘惑の中でイエスに語ったことと同じ性質のもの

だったのです(マタイ4章)。

 荒れ野のサタンの誘惑とは、要するに「苦しみなど

通らず、みんながアッと驚くような方法で、栄光を得

よ」というものでした。ペトロの言葉もまた、「苦し

みも死も通らずに、メシアとしての栄光を輝かせてほ

しい」と願うものでした。良かれと思ってのペトロの

願いでしたが、それはイエスを十字架から遠ざけよう

とする願いでした。しかし、神の救いの計画は、受難

と十字架を通して成し遂げられねばならなかったので

す。

 そしてイエスは、こう言われました。「わたしについ

て来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負っ

て、わたしに従いなさい」。

 「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょう

か。これは、様々な解釈ができる言葉です。まず、こ

こでの「自分の十字架」を、私たちがそれぞれに背負

わされている人生の困難のこととして考えてみてくだ

さい。私たち人間には、「これさえなければ、どんな

にいいか」と願う自分固有の悩みや苦しみがそれぞれ

あると思います。

 あなたにとって、それは一体、何でしょうか。あな

たが普段、「これさえなければどんなにいいか」と感

じているものについて思いを向けてみてください。

 「自分の十字架を背負う」にはもう一つの意味があ

ります。それは、先ほど述べた自分自身の重荷や苦し

みを背負うことの他に、死に向かって自ら歩いていく

という意味合いです。

 イエスの時代、死刑判決が下った犯罪人は十字架刑

の場所まで、自分で十字架を背負って行くことが強制

されていたからです。したがって、「自分を捨て、自分

の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、死

をもいとわず主イエス・キリストに従うようにという

ことなのです。

 一見、それは重たく思えることかもしれません。し

かし実のところ、それは、「これさえなければどんなに

いいか」と思える自分固有の悩み・苦しみを十字架と

して背負うよりも、はるかに軽やかで、希望と喜びに

あふれたものではないでしょうか。

 キリストに従う時、私たちは古い自分を捨て、軽や

かに十字架を背負いながら、死をもいとわず、キリス

トの後に続いて歩んでいくのです。

 さて、8月も終わりに近づいてきました。

人間にとって最大の悲しみとは何でしょうか。

それは、人によって様々だと言えるかもしれません。

ですが、一人ひとりの人間の最大の悲しみの根底に

は、共通するものがあるのではないでしょうか。

 ある人から、次の話を聞いたことがあります。その

人は普段、外出先でお店の店員等と接するとき、目を

伏せて相手の顔をあまり見ないことが多かったそうで

す。ですが、あるとき、これまでよりも積極的に店員

や病院の医者等、普段はあまり目を合わせることのな

かった人々と目を合わせて会話をしてみたところ、こ

れまで見えていなかったものが見えた思いがしたとい

うことでした。それというのは、この世で生きている

人の心、すなわちこの世は悲しみに満ちているという

ことだったのです。

 私たち人間は、悲しみと共に生きています。しかし

また私たちは、悲しみを愛することができるのだと思

います。そして悲しみを愛することは、人と自分を愛

することでもあるのです。

 主イエス・キリストの十字架の受難と復活によっ

て、神は私たちに、救いと恵みの御業を示してくださ

いました。

 私たちは、神の大いなる愛と祝福に満たされなが

ら、希望と喜びをもって、主イエス・キリストと共に

この地上での時を歩んでいきましょう。

 

お祈りをいたします。

 神様、御名を賛美いたします。

私たちは、日々、落ち込んだり、嘆いたり、悩みなが

ら日々を過ごしています。うつむく私たちがあなたの

愛と御心のもとに、前を向いて希望と喜びをもって歩

んでいくことができますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

 


2026年8月16日日曜日

8月23日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝のご案内

  諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

神様。

あらゆる時代の信じる者たちとともに、いのち

の岩であるあなたをほめたたえます。

私たちの堅い土台となって、私たちを御子のか

らだに形づくり、喜んで全世界に仕える者とし

てください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書 

       51章1節~6節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       12章1~8節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       16章13節~20節

「シモン・パルヨナ、
あなたは幸いだ。
あなたにこのことを表したのは、
人間ではなく、私の天の父なのだ。
わたしも言っておく。
あなたは、ペトロ。
私はこの岩の上にわたしの教会を建てる。
陰府の力もこれに対抗できない。
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
あなたが地上でつなぐことは、
天上でもつながれる。
あなたが地上で解くことは、
天上でも解かれる。」


 





         


















「  神の子 

       秋久 潤 牧師 


 オスカー・シンドラーという人がいました。映画

『シンドラーのリスト』のモデルである人物で、第二

次世界大戦中、自らの財産を投じ命をかけて、千二百

人のユダヤ人の命を、ナチスによる虐殺から救った人

物です。

 シンドラーは次のように書き残しています。「私は

悩み、葛藤した。しかし自分の判断と感情そして人間

としての心だけを生かそうという結論に辿り着いた」。

 人間らしい心を持って生きることが極めて困難だっ

た時代、彼はそれまで築き上げた財産を投げ打ち、命

の危険を冒してまで、人間らしく生きようとしまし

た。

 救われたユダヤ人たちは、感謝の証(あかし)とし

て、シンドラーにひとつの指輪を送りました。その指

輪には、タルムード(ユダヤの律法学者の口伝と解説

を集めたもの)の次の言葉がこう刻まれていました。

「一人の人間を救う者は、世界を救う」。

 シンドラーが救ったユダヤ人の数は、実際は一人で

はなく千二百人でした。しかし、重要なのはその数で

はないのだと思います。救った人数が何千人であろう

と、たった一人であろうと、それは世界を救うことに

等しいのです。

 さて、本日の福音書は、イエスが弟子たちに、「人

々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ね

る場面から始まります。人の子とは、イエスご自身を

指しています。弟子たちは、人々がイエスのことを

「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一

人」だと言っているとイエスに伝えます。

 洗礼者ヨハネは、この時点で既にヘロデ王に処刑

されていました。しかし、天の国の到来と悔い改め

を呼びかけていた洗礼者ヨハネは、イエスとしてよ

みがえったのではないかという憶測があったのです。

また、エリヤもエレミヤも有名な預言者で、どちら

もこの世の終わり、終末に再び天からやって来ると

信じられていた預言者でした。人々はイエスのこと

を、救い主メシアに先立ってこの世の終わりにやっ

て来る預言者の一人ではないかと思ったのです。

 弟子たちからの返答を聞いた後、イエスは弟子た

ちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを

何者だと言うのか」と尋ねます。

 イエスの問いかけに対して、弟子のシモン・ペト

ロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え

ました。「神の子」という言い方は、ご自分のこと

を「人の子」と呼ばれたイエスの言葉と対比してい

るようです。

 イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」

と喜びつつ、「あなたにこのことを現したのは、人

間ではなく、わたしの天の父なのだ」と付け加えら

れました。私たちは自分の意志で信仰告白をしたよ

うであっても、そこには必ず見えざる神の導きがあ

るのです。

 シモンのその言葉は、彼の考えではなく、まさに

父なる神によってもたらされたものでした。それは

私たちの信仰告白が、聖霊のみわざであるのと同じ

です。神は直接にではなく、あえて人の口を介して

ご自分の御旨(みむね)を人々にお示しになるので

す。

 さらにイエスはこう続けられます。「わたしも言っ

ておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわ

たしの教会を建てる」。

 「ペトロ」とはギリシア語で「石」という意味で

す。もっともペトロの信仰そのものは、決して「岩」

のように堅固なものではありませんでした。このの

ち、ペトロは何度も主イエスにつまずき、十字架の

時には、主イエスを三度も「知らない」と言ってし

まいます。

 ペトロは、岩というよりも、むしろ揺らぎやすく

転がる石のような人物でした。しかしペトロは、イ

エス・キリストによって次第に不動の「岩」になっ

ていき、彼を中心に初代教会が築かれていきました。

弱さを持つペトロが、主イエスに愛され、教会の土

台となったのです。

 シモン・ペトロが率直に信仰を告白した時に、イ

エスは彼を「岩」と呼び、ご自分の教会をその信仰

の上に築く意向を表しました。そしてまたペトロは、

私たち自身のことだとも言えるでしょう。

 この「岩の上に教会を建てる」という話は、以前、

イエスが語った「岩の上に自分の家を建てた賢い人」

と、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」のたとえ

話(マタイ7:24以下)が前提にあります。

 その時、イエスは次のように言われました。「わた

しのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自

分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が

あふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかっ

た。岩を土台としていたからである」。

 本日の福音書の「岩の上に建てられた教会」には、

建物のイメージがあります。そして、「陰府の力もこ

れに対抗できない」の「陰府の力」も、直訳は「陰

府の門」で、これも建物を連想させられます。それ

との関連で「鍵」という言葉が出てくるようです。

人が死後、とどめられている地下の場所が陰府で、

その門を開けて死者を生き返らせることは神以外の

誰にもできないと考えられていました。

 イエスはペトロにこう言います。「わたしはあな

たに天の国の鍵を授ける」。これは、天の国にも門

があり、その門を開ける鍵があることを思わされる

言葉です。ペトロの役割は、単なる門番ではなく、

天の国の門を開けるという大きな役割なのです。

 そして、イエスから鍵を渡され、天の国の門を開

けるという役割は、イエスの弟子である私たち一人

ひとりにも託されているのだと思います。

 天の国の門を開けるために、どのような鍵を渡さ

れるかは、一人ひとり違うでしょう。ですが私たち

は、主イエス・キリストから渡されたそれぞれの鍵

でもって、天の国の門を開いていきましょう。

 ユダヤ人たちがシンドラーに贈った指輪にはこう

刻まれていました。「一人の人間を救う者は、世界

を救う」。私たちも、常にこの指輪をつけているつも

りで、日々を過ごしていきましょう。

 人生の中で、たった一人でも救うことができたな

ら、それは計り知れないほど大きな価値のあること

なのだと思います。

  私たちは、イエスから「あなたがたはわたしを何

者だと言うのか」と問われた時、何と答えるでしょ

うか。

 その答えのひとつは、「あなたは私をお遣わしにな

った方です」だと思います。私たちは、イエス・キ

リストから遣わされた者たちなのです。

 私たちは神の御心と共に、たった一人でもいいか

ら、人を助けましょう。そして、その「たった一人」

とは、「無限大の一人」なのです。

 

 人智では計り知ることのできない神の御心のもと

に、私たちは神の偉大なる大きな愛を、私たちの小

さな心に映し出しながら、日々を共に歩んでいきま

しょう。

  

お祈りをいたします。

 神様、御名を賛美いたします。私たちが、どのよ

うな状況の中にあろうとも、自分の内に愛と真実を

もって生きていくことができますように力をお与え

ください。私たちがあなたの愛のもとに、自分自身

を大切にし、隣人を大切にして日々を歩んでいくこ

とができますように。主イエス・キリストの御名に

よって祈ります。アーメン