諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
2026年9月20日日曜日
2026年9月13日日曜日
9月20日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝のご案内
本日の礼拝は、午前10時30分から始まります
朝比奈 晴朗 牧師
2026年9月6日日曜日
9月13日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
お祈りをいたします。
神様、御名を賛美いたします。私たちが、あなたか
ら与えられたいのちを輝かせながら生きていくことが
できますように、力をお与えください。私たちの心が、
あなたの愛をそのまま映し出し、あなたの愛によって
隣人と自分自身を赦し愛することができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2026年8月30日日曜日
9月6日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
2026年8月23日日曜日
8月30日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
旧約聖書のイザヤ書にこう記されています。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わた
しの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる」
(イザヤ55:8)。
私たち人間には、不快なことや嫌なことを避けたい
と願う気持ちがあると思います。しかし、神の計り知
れない大きな思いは、私たちの小さな思いをはるかに
超えています。試練や苦しみの中にこそ、神の救いの
計画が備えられていることがあるのです。
神は、私たちが苦しみの中にあるときも、絶望では
なく希望を与えようとしています。どのような困難の
中においても、私たちが希望と喜びを持ち続けること
を、神は望まれます。そして、キリストの受難と十字
架、復活が、私たちの光であり希望なのです。
本日の福音書は、イエスがご自分の受難と死、復活
を初めて弟子たちに打ち明ける場面から始まります。
「打ち明ける」という言葉には、ある種の重さがあり
ます。「打ち明ける」とは、自分の秘密や心の内にある
苦しみを、思い切って人に話したり、自分の胸の内を
包み隠さず誰かに伝えることです。
私たちも人生の中で、自分の秘密やそれまで隠して
いた心の痛み、苦しみを誰かに打ち明けたことがある
のではないでしょうか。逆に、誰かからその人の秘め
たる胸中を打ち明けられたことがあるかもしれませ
ん。
また、もし今まで、人に自分の心の内を打ち明けた
ことも、人から打ち明けられたこともなかったとして
も、これから先に、そのようなことがあるかもしれま
せん。
本日の場面で弟子たちは、他ならぬイエスから、イ
エスご自身の今後にまつわる深刻な内容を打ち明けら
れます。イエスが弟子たちに打ち明けたことは、実の
ところは、深刻というよりも、極めて深淵な内容でし
た。しかしこの時の弟子たちには、それが分かりませ
んでした。弟子たちには、イエスが深刻になって、何
か悲壮感漂う話をしているかのように感じたかもしれ
ません。
イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長
老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて
殺され、三日目に復活することになっていると弟子た
ちに伝えます。「必ずエルサレムに行って……復活する
ことになっている」の「必ず……することになってい
る」とは、イエスの強い決意を示しているだけではあ
りません。それが神の定めた計画だということを表し
ているのです。
神の計画は、イエスの苦難と死と復活を通して、救
いを実現させることでした。イエスはその神の救いの
計画にどこまでも従おうとされたのです。十字架は決
して敗北ではなく、罪と死に対する勝利へ向かうもの
であることが、この「三日目に復活することになって
いる」という言葉の中に含まれています。
しかし、弟子たちはイエスの受難予告を理解できま
せんでした。そこでペトロはイエスをわきへお連れし
て、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあっ
てはなりません」と言ってイエスをいさめます。ここ
の原文のニュアンスは、ペトロがイエスを非難し叱り
つけた、という激しいものです。
それは、イエスの身を案じ、イエスを思いやる気持
ちからの言葉でもあったと思います。弟子たちの混乱
や、やる気を削がれることへの懸念と、イエスが死ん
だら弟子の自分はどうなるのかとの不安を打ち消した
い思いもあったことでしょう。弟子たちは、当時のほ
かの人々と同様、地上で栄光に輝き、勝利を収めるメ
シア像しか受け入れられなかったのです。
イエスはそんなペトロに向かって「サタン、引き下
がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で、イ
エスが悪魔に向けて発した「退け、サタン」を思わせ
る厳しい言い方です。サタンとは、人を神から引き離
す力の象徴です。
イエスはなぜここまで強く反応したのでしょうか。
それは、ペトロの言葉の中に「神の思い」に抵抗する
「人の思い」が含まれていたからです。「人の思い」
とは、「人間の欲・打算」とも言えるでしょう。そし
てペトロがイエスに向けたその言葉は、サタンが荒れ
野の誘惑の中でイエスに語ったことと同じ性質のもの
だったのです(マタイ4章)。
荒れ野のサタンの誘惑とは、要するに「苦しみなど
通らず、みんながアッと驚くような方法で、栄光を得
よ」というものでした。ペトロの言葉もまた、「苦し
みも死も通らずに、メシアとしての栄光を輝かせてほ
しい」と願うものでした。良かれと思ってのペトロの
願いでしたが、それはイエスを十字架から遠ざけよう
とする願いでした。しかし、神の救いの計画は、受難
と十字架を通して成し遂げられねばならなかったので
す。
そしてイエスは、こう言われました。「わたしについ
て来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負っ
て、わたしに従いなさい」。
「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょう
か。これは、様々な解釈ができる言葉です。まず、こ
こでの「自分の十字架」を、私たちがそれぞれに背負
わされている人生の困難のこととして考えてみてくだ
さい。私たち人間には、「これさえなければ、どんな
にいいか」と願う自分固有の悩みや苦しみがそれぞれ
あると思います。
あなたにとって、それは一体、何でしょうか。あな
たが普段、「これさえなければどんなにいいか」と感
じているものについて思いを向けてみてください。
「自分の十字架を背負う」にはもう一つの意味があ
ります。それは、先ほど述べた自分自身の重荷や苦し
みを背負うことの他に、死に向かって自ら歩いていく
という意味合いです。
イエスの時代、死刑判決が下った犯罪人は十字架刑
の場所まで、自分で十字架を背負って行くことが強制
されていたからです。したがって、「自分を捨て、自分
の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、死
をもいとわず主イエス・キリストに従うようにという
ことなのです。
一見、それは重たく思えることかもしれません。し
かし実のところ、それは、「これさえなければどんなに
いいか」と思える自分固有の悩み・苦しみを十字架と
して背負うよりも、はるかに軽やかで、希望と喜びに
あふれたものではないでしょうか。
キリストに従う時、私たちは古い自分を捨て、軽や
かに十字架を背負いながら、死をもいとわず、キリス
トの後に続いて歩んでいくのです。
さて、8月も終わりに近づいてきました。
人間にとって最大の悲しみとは何でしょうか。
それは、人によって様々だと言えるかもしれません。
ですが、一人ひとりの人間の最大の悲しみの根底に
は、共通するものがあるのではないでしょうか。
ある人から、次の話を聞いたことがあります。その
人は普段、外出先でお店の店員等と接するとき、目を
伏せて相手の顔をあまり見ないことが多かったそうで
す。ですが、あるとき、これまでよりも積極的に店員
や病院の医者等、普段はあまり目を合わせることのな
かった人々と目を合わせて会話をしてみたところ、こ
れまで見えていなかったものが見えた思いがしたとい
うことでした。それというのは、この世で生きている
人の心、すなわちこの世は悲しみに満ちているという
ことだったのです。
私たち人間は、悲しみと共に生きています。しかし
また私たちは、悲しみを愛することができるのだと思
います。そして悲しみを愛することは、人と自分を愛
することでもあるのです。
主イエス・キリストの十字架の受難と復活によっ
て、神は私たちに、救いと恵みの御業を示してくださ
いました。
私たちは、神の大いなる愛と祝福に満たされなが
ら、希望と喜びをもって、主イエス・キリストと共に
この地上での時を歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、御名を賛美いたします。
私たちは、日々、落ち込んだり、嘆いたり、悩みなが
ら日々を過ごしています。うつむく私たちがあなたの
愛と御心のもとに、前を向いて希望と喜びをもって歩
んでいくことができますようにお導きください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2026年8月16日日曜日
8月23日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
神様。
あらゆる時代の信じる者たちとともに、いのち
の岩であるあなたをほめたたえます。
私たちの堅い土台となって、私たちを御子のか
らだに形づくり、喜んで全世界に仕える者とし
てください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
秋久 潤 牧師
オスカー・シンドラーという人がいました。映画
『シンドラーのリスト』のモデルである人物で、第二
次世界大戦中、自らの財産を投じ命をかけて、千二百
人のユダヤ人の命を、ナチスによる虐殺から救った人
物です。
シンドラーは次のように書き残しています。「私は
悩み、葛藤した。しかし自分の判断と感情そして人間
としての心だけを生かそうという結論に辿り着いた」。
人間らしい心を持って生きることが極めて困難だっ
た時代、彼はそれまで築き上げた財産を投げ打ち、命
の危険を冒してまで、人間らしく生きようとしまし
た。
救われたユダヤ人たちは、感謝の証(あかし)とし
て、シンドラーにひとつの指輪を送りました。その指
輪には、タルムード(ユダヤの律法学者の口伝と解説
を集めたもの)の次の言葉がこう刻まれていました。
「一人の人間を救う者は、世界を救う」。
シンドラーが救ったユダヤ人の数は、実際は一人で
はなく千二百人でした。しかし、重要なのはその数で
はないのだと思います。救った人数が何千人であろう
と、たった一人であろうと、それは世界を救うことに
等しいのです。
さて、本日の福音書は、イエスが弟子たちに、「人
々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ね
る場面から始まります。人の子とは、イエスご自身を
指しています。弟子たちは、人々がイエスのことを
「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一
人」だと言っているとイエスに伝えます。
洗礼者ヨハネは、この時点で既にヘロデ王に処刑
されていました。しかし、天の国の到来と悔い改め
を呼びかけていた洗礼者ヨハネは、イエスとしてよ
みがえったのではないかという憶測があったのです。
また、エリヤもエレミヤも有名な預言者で、どちら
もこの世の終わり、終末に再び天からやって来ると
信じられていた預言者でした。人々はイエスのこと
を、救い主メシアに先立ってこの世の終わりにやっ
て来る預言者の一人ではないかと思ったのです。
弟子たちからの返答を聞いた後、イエスは弟子た
ちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを
何者だと言うのか」と尋ねます。
イエスの問いかけに対して、弟子のシモン・ペト
ロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え
ました。「神の子」という言い方は、ご自分のこと
を「人の子」と呼ばれたイエスの言葉と対比してい
るようです。
イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」
と喜びつつ、「あなたにこのことを現したのは、人
間ではなく、わたしの天の父なのだ」と付け加えら
れました。私たちは自分の意志で信仰告白をしたよ
うであっても、そこには必ず見えざる神の導きがあ
るのです。
シモンのその言葉は、彼の考えではなく、まさに
父なる神によってもたらされたものでした。それは
私たちの信仰告白が、聖霊のみわざであるのと同じ
です。神は直接にではなく、あえて人の口を介して
ご自分の御旨(みむね)を人々にお示しになるので
す。
さらにイエスはこう続けられます。「わたしも言っ
ておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわ
たしの教会を建てる」。
「ペトロ」とはギリシア語で「石」という意味で
す。もっともペトロの信仰そのものは、決して「岩」
のように堅固なものではありませんでした。このの
ち、ペトロは何度も主イエスにつまずき、十字架の
時には、主イエスを三度も「知らない」と言ってし
まいます。
ペトロは、岩というよりも、むしろ揺らぎやすく
転がる石のような人物でした。しかしペトロは、イ
エス・キリストによって次第に不動の「岩」になっ
ていき、彼を中心に初代教会が築かれていきました。
弱さを持つペトロが、主イエスに愛され、教会の土
台となったのです。
シモン・ペトロが率直に信仰を告白した時に、イ
エスは彼を「岩」と呼び、ご自分の教会をその信仰
の上に築く意向を表しました。そしてまたペトロは、
私たち自身のことだとも言えるでしょう。
この「岩の上に教会を建てる」という話は、以前、
イエスが語った「岩の上に自分の家を建てた賢い人」
と、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」のたとえ
話(マタイ7:24以下)が前提にあります。
その時、イエスは次のように言われました。「わた
しのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自
分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が
あふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかっ
た。岩を土台としていたからである」。
本日の福音書の「岩の上に建てられた教会」には、
建物のイメージがあります。そして、「陰府の力もこ
れに対抗できない」の「陰府の力」も、直訳は「陰
府の門」で、これも建物を連想させられます。それ
との関連で「鍵」という言葉が出てくるようです。
人が死後、とどめられている地下の場所が陰府で、
その門を開けて死者を生き返らせることは神以外の
誰にもできないと考えられていました。
イエスはペトロにこう言います。「わたしはあな
たに天の国の鍵を授ける」。これは、天の国にも門
があり、その門を開ける鍵があることを思わされる
言葉です。ペトロの役割は、単なる門番ではなく、
天の国の門を開けるという大きな役割なのです。
そして、イエスから鍵を渡され、天の国の門を開
けるという役割は、イエスの弟子である私たち一人
ひとりにも託されているのだと思います。
天の国の門を開けるために、どのような鍵を渡さ
れるかは、一人ひとり違うでしょう。ですが私たち
は、主イエス・キリストから渡されたそれぞれの鍵
でもって、天の国の門を開いていきましょう。
ユダヤ人たちがシンドラーに贈った指輪にはこう
刻まれていました。「一人の人間を救う者は、世界
を救う」。私たちも、常にこの指輪をつけているつも
りで、日々を過ごしていきましょう。
人生の中で、たった一人でも救うことができたな
ら、それは計り知れないほど大きな価値のあること
なのだと思います。
私たちは、イエスから「あなたがたはわたしを何
者だと言うのか」と問われた時、何と答えるでしょ
うか。
その答えのひとつは、「あなたは私をお遣わしにな
った方です」だと思います。私たちは、イエス・キ
リストから遣わされた者たちなのです。
私たちは神の御心と共に、たった一人でもいいか
ら、人を助けましょう。そして、その「たった一人」
とは、「無限大の一人」なのです。
人智では計り知ることのできない神の御心のもと
に、私たちは神の偉大なる大きな愛を、私たちの小
さな心に映し出しながら、日々を共に歩んでいきま
しょう。
お祈りをいたします。
神様、御名を賛美いたします。私たちが、どのよ
うな状況の中にあろうとも、自分の内に愛と真実を
もって生きていくことができますように力をお与え
ください。私たちがあなたの愛のもとに、自分自身
を大切にし、隣人を大切にして日々を歩んでいくこ
とができますように。主イエス・キリストの御名に
よって祈ります。アーメン












