2026年7月12日日曜日

7月19日(日)聖霊降臨後大8主日礼拝のご案内

  諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります









教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

憐れみ深い裁き主・まことの神様。

あなたはあなたの子どもたちを、確信と憐れみ

のうちに顧みてくださいます。

御子の道に根ざすことができるように、御国に

生きる私たちを、あなたの霊によって養ってく

ださい。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書 

       44章6節~8節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       8章12~25節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       13章24節~30節、
          36節~43節
















「  麦のたとえ 

       秋久 潤 牧師 

2026年7月5日日曜日

7月12日(日)聖霊降臨後第7主日礼拝のご案内

  諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

全能の神様。

私たちに御言葉の種をまいてくださり、感謝い

たします。

聖霊の助けによって、喜びをもって御言葉を受

け入れ、御言葉に従って生き、信仰と希望と愛

において成長することができるようにしてくだ

さい。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書 

       55章10節~13節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       8章1~11節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       13章1節~9節、
          18節~23節


















「  種を蒔く人 

       秋久 潤 牧師 


  心理学者のカール・グスタフ・ユングはこう言いま

す。「われわれの生まれてきた世界は、無慈悲で残酷

である。そして同時に、神聖な美しさをもっている」。

 世の中には、まるで愛を感じさせられない出来事

がたくさんあります。生身の人間の心よりも、目先の

利益や効率を優先させ、人を切り捨て、人の心を踏み

にじるようなことがあちらこちらで起きています。

 私たちは誰もがいつの日か、この地上での生を終え

ます。自分も他者もいつかは死す運命にあるのだか

ら、この世にせっかく生まれてきた隣人をもっと大切

にすれば良いのに、それがなかなかできないのが、罪

人である私たち人間の姿です。

 しかし、どこかで愛は、確かに存在しているので

す。この世に全く愛がなければ、この世はとっくに滅

びているでしょう。岩だらけの殺伐とした荒野の中

に、光を放つダイヤモンドが散りばめられているかの

ように、無慈悲で残酷な側面を持つこの世界にも、確

実に愛は存在しているのです。 

 ユングはこうも言います。「けれども、愛がわたした

ちに本当に報いてくれるのは、わたしたちが真剣に愛

を受け止めたときだけなのです」。

 愛は、単独でただそこにあるだけでは成り立たない

のだと思います。「愛の効果」が発揮されるのは、私た

ちがその愛を真剣に受け止めたときなのです。

 本日の福音書では、「種を蒔く人のたとえ」がイエス

によって語られています。蒔かれる種は、「神の言葉」

を表しています。それは「神の愛」と言い換えること

ができるでしょう。そして、種が蒔かれる土壌とは、

神の言葉・神の愛が蒔かれる「私たち人間の心」のこ

とです。

 イエスは、ある人が蒔いた種のそれぞれの行方につ

いて、四つの例を用いて語ります。一つ目の種は道端

に落ち、鳥が来て食べてしまいます。二つ目の種は石

だらけで土の少ないところに落ちます。植物は地上に

見えている部分の何倍もの長さの根によって支えられ

ています。

 ゆえに土の少ないところに落ちた種は、すぐ芽を出

すものの土が少ないため根を張ることができず枯れて

しまいます。三つ目の種は茨の間に落ち、茨が伸びて

それをふさいでしまいます。四つ目の種だけが、良い

土地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは

六十倍、あるものは三十倍にもなったのです。

 道端に落ちたり、石だらけのところや茨の中に落ち

たりと、この種の蒔き方は、私たちからすると非効率

で無駄な蒔き方に思えるかもしれません。効率良く収

穫を得たいのならば、最初から「良い土地」だけを選

んで種を蒔けば良いのにと思えてしまうでしょう。で

すが、当時のパレスチナでは、これは通常の種蒔きの

方法だったようです。農夫は腰につけた種の袋に手を

入れて、勢いよくパーッと種を蒔き、種はところかま

わず落ちていきます。そしてその後に土を耕すので

す。

 イエスがこのたとえで示したように、神はどこにで

も種が蒔かれることを望まれています。効率や損失な

どには気を留めず、おおらかに種を蒔き、実りを期待

します。種を蒔く人は、土地に優劣をつけて種を蒔く

わけではありません。

 私たちがどのような嘆き・悲しみ・苦しみの中にあ

る時も、神は私たちに根気よく御言葉の種を蒔き続け

てくださっています。たとえなかなか実りに至らなく

ても、神は愛と慈しみをもって私たちの心に種を蒔き

続けてくださいます。

 それを受け止める私たちの心は、鳥が来て種を奪っ

てしまう道端のようだったり、石地のように浅かった

り、茨にふさがれてどうしようもなくなっていること

もあるでしょう。しかし、その中で私たちが、御言葉

を聞いて悟る者となることを、主は愛と慈しみをもっ

て待ち望んでくださっているのです。

 イエスの語ったこのたとえの中で、キーワードとな

る言葉は、「御言葉を聞いて悟る人」ではないでしょう

か(23節)。

 「御言葉を聞いて悟る」とは、どういうことでしょう

か。それは、聞いた言葉と自分の心がひとつとなり、

それを何らかの形で具現化していくことだと思いま

す。

 アッシジの聖フランシスコは「人間というものは、

具体的に実行することだけを、本当に知っているとい

えるのである」と言いました。それは、「聞いたこと

のあるもの」として知っているだけでは、本当に知っ

ているとは言えないということです。御言葉を聞いて

悟るとは、土に蒔かれた種が土と一体になるように、

御言葉を自らの心の奥に受け入れ、御言葉とひとつに

なり、自分自身の日常を通してその実を結ぶことなの

だと思います。

 礼拝の中で、聖書を朗読する前に「御言葉を聞きま

しょう」と司式者が言います。ある方が、「御言葉を聞

きましょう」というその言葉を聞くと、それだけで心

が豊かになる思いがすると言われていました。「御言葉

を聞きましょう」という言葉を毎回聞き続けているだ

けで、心が深く豊かになり、心の中に何かが芽吹いて

くる感じがするということでした。「御言葉を聞く」

というこの言葉自体が、大きな力を持っていることを

改めて感じさせられました。 

 イエスがこのたとえの中で語られている「種を蒔く

人」とは、神の代理人として、神の言葉・神の愛を人

々に伝える者のことです。キリストの弟子と言うこと

もできるでしょう。ですから私たちは、神から種を蒔

かれる側でありながら、同時に「種を蒔く人」となる

ことができるのです。

 この世の中が無慈悲で冷酷で愛のない場所だと感

じ、生きる中で、この世が嫌になることもあるかも

しれません。「厭世観(えんせいかん)とは、「この

世は不幸や不条理に満ちており、生きる価値や意味

を見出しにくい」という、世に対する失望を表す言

葉です。誰もが多かれ少なかれ、このような厭世観

を感じたことがあるのではないでしょうか。

 しかし、そのように感じられる世の中においても、

自分自身が人々に愛の種を蒔く者となれば、そこか

ら愛と光が広がっていくのです。

 さて、梅雨はまだ完全には明けていませんが、最近

は青空が広がる日も多くなってきました。

 私たちは、神のゆるしと愛のもとに、この世に神聖

な美しさを見出しながら、この地上での時を共に歩ん

でいきましょう。

  

お祈りをいたします。

 神様、いつも私たちと共にいてくださりありがとう

ございます。あなたから与えられる愛と恵みを、私た

ちが日々のほんのささやかなことからでも気づくこと

ができますように。私たちが隣人を大切にし、あなた

と隣人から与えられる愛を、感謝して心から受け取る

ことができますように。主イエス・キリストの御名に

よって祈ります。

アーメン


2026年6月28日日曜日

7月5日(日)聖霊降臨後第6主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

神様。

偉大なあなたをほめたたえます。

あなたに向けて創られた私たちは、みもとに憩

うまで安らぐことができません。

あなたを信じ、あなたに依り頼み、あなたを知

り、仕えようとする私たちの願いを聞き入れて

ください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)ザカリヤ書 

       9章9節~12節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       7章15~25節a

(新約聖書)マタイによる福音書    

       11章16節~19節、
          25節~30節





















「  わたしのくびき 

       秋久 潤 牧師 

 

 本日の福音書は、イエスが当時の子供の遊び歌をた

とえに用いる場面から始まります。これは、「笛吹け

ども踊らず」ということわざの由来となっている言葉

です。その意味は、人に何かをしてもらおうと働きか

けても、相手が動いてくれないというものです。

 イエスがたとえに用いた子供の遊び歌は、次のよう

なものでした。「笛を吹いたのに、/踊ってくれなかっ

た。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかっ

た。」

 この歌が表しているのは、結婚式ごっこをして笛を

吹いても他の者が乗ってこず、お葬式ごっこをしても

嘆き悲しむ真似をしてくれないから、結婚式ごっこや

お葬式ごっこが成り立たないということです。

 イエスは、今の時代が、このように自分の要求を相

手が受け入れてくれないと不満を言い合っている子供

たちの姿に似ていると言い表したのだと思います。

 「結婚式」と「葬式」は、対照的なものです。そして

また、本日の福音書でイエスが言及する洗礼者ヨハネ

も、イエスとは対照的な人物でした。洗礼者ヨハネは

禁欲的で、荒野でいなごや野蜜を食物とし、常に断食

に近い生活をしていました。他方でイエスは、人と共

に食事や宴会を楽しみました。人々は、食べも飲みも

しないヨハネを「悪霊に取りつかれている」と中傷し、

徴税人や罪人とされる人々とも一緒に食事をしていた

イエスを「大食漢で大酒飲み」だと中傷します。どち

らにせよ批判し、拒絶して受け入れようとしないので

す。

 大きなことから小さなことまであらゆる領域におい

て、私たち人間にとって「受け入れる」ことは案外難

しいことです。私たちは、どうしても自分の価値観や

偏見に基づく判断をしてしまいがちです。受け入れて

いるつもりでも、心から受け入れているわけではない

ことも多いでしょう。

 自分の思い通りに相手がしてくれないと不満を言い

合っている子供のように、神がメシアの先駆けとして

遣わした洗礼者ヨハネのことも、そしてメシアとして

来られたイエスのことも、人々は自分の期待とは違う

と言って受け入れなかったのです。

 ですが、人々から拒絶され、受け入れられないこと

のみで終わるのではないと、イエスは次の言葉で表し

ます。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって

証明される」(マタイ11:19)。

 ここで言われる「知恵」とは、「神の知恵」を意味

します。旧約聖書の箴言[しんげん]8章1節にこうあ

ります。「知恵が呼びかけ/英知が声をあげているでは

ないか」。

 旧約聖書における「知恵」とは、人間の持つ知識で

はなく、知恵それ自体が独立して命を持ち、人々に語

りかけ、何事かを実現していく、神の力に溢れた能動

的な存在として記されています。

 そして、知恵は自らを「わたし」と呼び、人間にこ

う語りかけていくのです。「人よ/あなたたちに向かっ

てわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは

声をあげる」(箴言8:4)。

 この知恵は、神の御子である主イエス・キリストと

結びついています。パウロは、自らの伝道を、神の力、

神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのだと言い

ました(コリントの信徒への手紙一1:24)。

 ヨハネ福音書15節にこうあります。「光はやみの中

に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。

暗闇は、私たち人間の心の中にもあります。どんなに

明るく見える人にも、心のどこかに暗闇があるのだと

思います。しかし闇の中でこそ、光は輝き、際立つの

です。生きることの新たな可能性は、闇の中から生じ

る光から生まれてくるのです。

 イエス・キリストはまことの知恵であり、闇の中に

輝く光です。そしてそれは、イエス・キリストの業や

言葉によって証明されるのです。

 イエスはこう言いました。「疲れた者、重荷を負う

者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ

げよう」(マタイ11:28)。これは聖書の中で、もっと

も有名な言葉の一つだと思います。

 この言葉から思い起こされる次の聖句があります。

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないよう

な試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それ

に耐えられるよう、逃れる道をも備えていてください

ます」(コリントの信徒への手紙ー10:13)。

 ここには、神が私たちに「逃れる道」、すなわち

「逃げ道」を備えてくださっていることが語られてい

ます。一般的に、「逃げる」という言葉にはマイナス

のイメージがあるかもしれません。けれども神は、私

たちに「逃げてよい」と言ってくださっているのです。

むしろ「逃げる」ことが、私たちにとって重要な時が

あるのです。

 旧約聖書には「逃げる」場面がたくさん出てきます。

勇敢に立ち向かうというより、むしろ、逃げ続ける人

物たちの姿がそこにあります。しかしその「逃げ道」

が、同時に、「神への道」につながっているのです。

 旧約聖書の詩編に、「避けどころ」という言葉が出

てきます(詩編46:2)。困難に遭遇した時、逃げ込む

ことができる場所、そうして自分を守ってくれる場所

です。神ご自身が、私たちの「避けどころ」なのです。

 そして、私たちが逃げ込むことのできる「避けどこ

ろ」とは、新たな世界への入り口でもあるのだと思い

ます。

 どういうわけか私たち人間は、喜びや楽しさだけを

感じるようには造られていません。過去を振り返って

悔やんだり、未来のことに不安になったり、人と自分

を比べて落ち込んだり、ありとあらゆる否定的な思い

をもつのが、創造主である神が造られた私たち人間で

す。

しかし、憐れみ深く慈愛に満ちた神は、どんな時も、

あなたの「避けどころ」となって「逃げ場」をつくっ

てくださっているのです。

 本日の福音書で、主なる神への祈りにおいて、イエ

スはこう祈りました。「天地の主である父よ、あなた

をほめたたえます」(25節)。イエスにとって、祈りと

は何よりもまず賛美でした。これは、祈りの本質であ

ると思います。何かを神に願うことも祈りですが、祈

りとはまず神を賛美することなのです。

 そして、私たちは苦しみの中にいる時こそ、神をほ

めたたえ賛美しましょう。日々の生活の中で心と身体

が疲弊して、神をほめたたえる力が自分には残ってい

ないと思える時も、主イエス・キリストがあなたと共

に神をほめたたえ賛美してくださっていることを、い

つも心に覚えていてください。

 詩編10219節にこうあります。

「主を賛美するために民は創造された」。

 私たちの人生において、何よりも重要な私たちの務

めは、神をほめたたえ賛美することなのだと知る時、

私たちは、あらゆる苦悩や思い煩いから解放されるで

しょう。

 私たちは、主イエス・キリストの御名のもとに、い

つも喜び、祈り、神を賛美しながらこの地上での時を

共に歩んでいきましょう。

 

お祈りをいたします。

 神様、いつも私たちと共にいてくださりありがとう

ございます。夏の暑さの中も、冬の寒さの中も、私た

ちが今ここに生かされていることに喜び感謝して、日

々を歩んでいくことができますように。あなたのゆる

しと愛によって、私たちが隣人を大切にし、自分自身

を大切にしながら生きていくことができますようにお

導きください。御子イエス・キリストの御名によって

祈ります。

アーメン








2026年6月21日日曜日

6月28日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります












教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

神様。

あなたは私たちを恵みによって導き、正義と憐

れみの御言葉により世界を造り直してください

ます。

御言葉を受け入れ、互いに仕える民へ、私たち

を形づくってください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)エレミヤ書 

       28章5節~9節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       6章12~23節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       10章40節~42節

私の弟子だという理由で、
この小さな者の一人に、
冷たい水一杯でも
飲ませてくれる人は、
必ずその報いを受ける。























「  冷たい水一杯 

       秋久 潤 牧師 

  たとえば、「自分の人生の現実を見てください」と

言われたら、あなたはどんな気持ちになるでしょう

か。ワクワクとした気持ちや、楽しい気持ちにはな

らないのではないでしょうか。「現実」という言葉か

ら伝わってくるものは、夢やロマンが感じられない、

味気ない響きかもしれません。

 「現実」と逆の言葉のひとつは「象徴」だと思いま

す。「人生の象徴を見てください」と言われた方が、

はっきりとした意味は分からないながらも、何か心

の奥から、生きる力と希望が湧いてくるのではないで

しょうか。

 カール・グスタフ・ユング、心理学で有名なユング

はこう述べています。「象徴的な生を生き、自分は神的

なドラマの参加者なのだと感じるとき、それが平和を

与えてくれます。それこそが人間の人生に唯一の意味

を与えてくれるものなのです」。

 象徴とは、目に見えない抽象的な事柄を、具体的な

かたちに置き換えて表現することです。たとえば、ハ

ートや赤い薔薇は愛の象徴であり、鳩は平和の象徴で

す。また、十字架はイエス・キリストの象徴と言える

でしょう。ユングが言う「象徴的な生」とは、特別な

象徴と共にある人生、象徴を大切な導きとする人生の

ことです。

 「象徴的な生を生きる」とは、「愛を象徴とした生を

生きる」「平和を象徴とした生を生きる」、そして「キ

リストを象徴とした生を生きる」などの、精神的で霊

的なテーマを表明した人生を生きることなのだと思い

ます。

 人生の中心に大切な象徴があるとき、私たちは生き

ることの意義と目的を実感するでしょう。そして、そ

のような象徴的な生を生きる人は、おのずと周囲の人

々の心を揺り動かし、霊的な影響を与えていくのだと

思います。

 また、ユングはこう述べています。「ところが、神話

はフィクションではないのだ。それは何度でも観察可

能な、たえず繰り返される事実なのである。神話は人

間に生じる。ギリシャ神話の英雄たちと同じように、

人間には神話的な運命があるのだ」。

神話とは、人間の集合的な心の体験が、象徴的に表現

された物語です。象徴的な生を生きる人ほど、この世

の現実において、まるで神話やおとぎ話のような経験

をそのままするのではないでしょうか。そしてまた、

象徴的な生を生きる人のその体験が、人間の集合的な

心の体験を作り変え、進化させていく役割を持つのだ

と思います。

 そして私たちは、その役割を他の誰かに任せるので

はなく、一人ひとりがこの人生において、神から与え

られた私たちの命をもって、象徴的な生を生きていく

ことが大切です。

 さて、本日の福音書には、イエスが十二人の弟子た

ちを、神の福音を宣べ伝えるために人々のもとへ派遣

するときに語った言葉が記されています。

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、

わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受

け入れるのである」とイエスは言いました。

 神の福音を伝える働きは、単なる個人的活動ではな

く、神から遣わされた者が行う神の働きそのものであ

ることを、イエスは弟子たちに伝えます。

 これは、今の時代に生きる私たちにも言えることで

す。私たち一人ひとりが神の福音を他者に伝えるとき、

その働きは単なる人間的な活動ではなく、神の国の使

者としての働きなのです。

 イエスは、預言者を預言者として受け入れる人は、

預言者と同じ報いを受けると言いました。預言者とい

うと、未来に起きることを予告する人というイメージ

があるかもしれませんが、必ずしもそれだけではあり

ません。預言者とは神の言葉を預かり、それを伝えて

人々を神の方に向かせる導き手のことです。

 「預言者と同じ報いを受ける」の「報い」とは、差

し出したものに見合った報酬が返ってくる「対価」で

はありません。「報い」とは、私たちがなすことをは

るかに越えて、愛と恵みによって限りなく与えてくだ

さる、計り知れない神からの賜物です。

 ヨハネ福音書628節において、「神の業を行うため

には、何をしたらよいでしょうか」と人々がイエスに

尋ねました。イエスはこう答えます。「神がお遣わし

になった者を信じること、それが神の業である」。

 「何をしたらよいか」という問いに対して、ただイエ

スは「神がお遣わしになった者を信じなさい」と言っ

たのです。信じることそのものが、既に神の業だと言

うのです。「信じる」とは、何か行動を起こすよりも抽

象的なことです。様々な困難や問題に直面する私たち

の人生において、ただ「信じる」だけでは、心もとな

く感じることがあるでしょう。しかしイエスは、まず

初めにただ信じることが大切であると私たちに伝えま

す。すべては神を信じることから始まり、行動はあと

から自ずとついてくるのです。

 そして私たちは、自分を受け入れてくれる人から与

えられる一杯の水を、神から与えられたものとして、

心から受けとりましょう。

 そうした時、私たちの日々は、神の愛と祝福にあふ

れていることを知ることができるでしょう。

 私たちは生きていく中で、危機を感じるときがあり

ます。それは、自分の心の危機であったり、病気や痛

みによる身体の危機だったりするでしょう。危機は避

けたいものであり、自らそれを望む人はいないと思い

ます。しかしその危機こそが、人生においての大きな

転期となるのです。

 もう生きているのが嫌だと思えるような苦難の中に

いるときこそ、私たちはすべてを神に委ね、神の言葉

に耳を傾けることが大切です。私たちは深い嘆きや苦

しみの中にいるときこそ、神と共にまっすぐな道を歩

んでいきましょう。まっすぐな道とは、神の愛と平安

に根差した道です。

 「まっすぐな道」も象徴的な言葉と言えます。この世

にある現実の道路や道に、寸分の歪みもない完全にま

っすぐな道はないからです。

 生きていく中の、つらく苦しい状況において、自暴

自棄になったり人を恨みたくなることもあるかもしれ

ません。心が荒み、負の連鎖に陥っていくような、荒

れた行動を起こしたくなるときもあるでしょう。です

が、どんな困難や苛立ちの中にあるときも、私たちは

心の中に「まっすぐな道」という象徴を置いて、神と

共に歩んでいきましょう。

憐れみ深く慈愛に満ちた、主イエス・キリストの御名

を通して祈ります。

  

お祈りをいたします。

 神様、私たちが心の平安のうちに、日々を歩んでい

くことができますようにお導きください。あなたの愛

によって、助けを必要とする隣人に手を差し伸べるこ

とができますように、力をお与えください。あなたの

喜びが私たちの喜びとなり、私たちの喜びがあなたの

喜びとなりますように。主イエス・キリストの御名に

よって祈ります。

アーメン


2026年6月14日日曜日

6月21日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります















教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。



★ 主日の祈り

慈しみ深い主なる神様。

あなたに仕えることを教えてください。

見返りを求めず与え、傷を恐れず戦い、休みを

求めず労し、報いを求めず働いて、御心を行う

ことに満足することができますように。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)エレミヤ書 

       20章7節~13節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       6章1節b~11節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       10章24節~39節

自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、
わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとするものは、
それを失い、
私のために命を失う者は、
かえってそれを得るのである。




















「  自分の十字架 

       秋久 潤 牧師 


★ 秋久牧師の説教で、永井隆博士のお話がありまし
  た。永井隆とは、どのような人でしょう?

永井隆と「 長崎の鐘 」

 永井隆は、1908年(明治41年)に長崎で誕生。1932

年(昭和7年)長崎医科大学(現・長崎大学医学部)を

卒業し、放射線医学を専攻し、母校長崎大学の助手と

る。妻緑の影響を受け、26歳の時、カトリックの洗

礼を受ける。 

 日中戦争勃発後、第5師団衛生隊隊長・軍医中尉とし

出征。現地では日本軍のみならず、中国人への医療

も従事した。1940年(昭和15年)日本に帰国。功五

金鵄勲章を受章。

 1945年(昭和20年)89日、長崎市に原子爆弾が投

され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大

の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負う

も、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下さ

れた爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日

に投下したビラを読んでからのことであった。この原

爆で、妻緑を亡くしている。

 一時昏睡状態に陥り、告解をして終油の秘蹟を受け

たが、奇跡的に生還。その後は大学を休職し療養に専

念した。来日中のヘレン・ケラーが永井の見舞いに訪

れたこともある。1951年(昭和26年)死去。「如己愛

人(己の如く人を愛せよ)」が座右の銘。

「長崎の鐘」

 内容は、長崎医科大学助教授だった永井が、原爆爆

心地に近い同大学で被爆した時の状況と、重症を負い

ながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。

長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いなが

ら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いてい

る。「長崎の鐘」とは原子爆弾の投下により吹き飛ば

されてしまった旧浦上天主堂の「アンジェラスの鐘」

のことである。サトウハチロー作詞・古関裕而作曲で

同書をモチーフとした歌謡曲が発売されて大ヒット

し、1950年(昭和25年)には松竹により映画化さ

れた。

被爆地に心を寄せていたベルギー国王

 現在天皇陛下は、オランダ・ベルギーをご訪問中で

すが、陛下が現ベルギー王の父王ボードワン国王に初

めて会われたのは、19643歳の時。ヨーロッパの国

王の初来日で、国王夫妻は被爆地の広島や長崎を訪ね、

原爆慰霊碑や平和公園で慰霊している。長崎の教会で

『この子を残して』などの著作で知られる被爆者の永

井隆博士の遺児・茅乃さんに会い、国王は「お父さん

の本を読んでいます。あの本に感激して日本に行こう

という気になりました」と話した。


2026年6月7日日曜日

6月14日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。



★ 主日の祈り

憐れみ深い神様。

あなたは私たちに道を開き、御許に導いてくだ

さいました。

私たちの心にあなたの愛を注ぎ、溢れる喜びを

もって御国の祝福を分かち合い、御子の福音を、

忠実に宣べ伝えさせてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)出エジプト記 

       19章2節~8節a                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       5章1~8節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       9章35節~10章8節


群衆が飼い主のいない羊のように
弱り果て、打ちひしがれているのを見て、
深く憐れまれた。

















「  羊のように 

       秋久 潤 牧師 


  聖書に記されていることを、2000年前の遠い場所で

起きたこととしてではなく、現在の自分のこととして

主観的に読むと、聖書との関わりが、より親密で生き

たものとなると思います。

 本日の福音書は、イエスが福音伝道と、あらゆる病

気や患いをいやすわざを「町や村を残らず回って」お

こなった場面から始まります。ここをイエスが、日本

中のすべての町や村を残らず回って、福音を宣べ伝え、

私たちのありとあらゆる病気や患いをいやしたとして

みてください。

 イエスがすべての町や村を残らず回ったことは、救

いはすべての人の上にあることを表しています。イエ

スは、これらの働きを続けながら、私たち群衆が飼い

主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている

のを見て、深く憐れまれます。

 イエスは私たちの内に、私たちが自覚している以上

の大きな問題を見ています。病気や人間関係の悩み、

お金の悩み、生活の悩みなど、そういった現実的な悩

みと共に、私たちが自覚していない魂の飢え渇きを見

ているのです。

 羊は、羊飼いなしには生きていくことができない無

力な動物です。羊の視力は数メートル先までしか及ば

ないと言われています。そのために、良い羊飼いを持

たない羊は、もし群れを離れたら、自力で群れに戻る

ことができません。

 羊である私たちには、導き手である羊飼いが必要で

す。弱った私たちを力づけ、病める私たちを癒し、傷

ついた私たちを包み、散らされた私たちを連れ戻し、

失われた私たちを捜し求めてくださる羊飼いが必要な

のです。

 イエス・キリストこそが私たちの羊飼いとなって、

私たちを深く憐んでくださるのです。イエスが私たち

を憐れむのは、イエスが私たちの苦しみを知っている

からです。

 イエス・キリストは、私たちを深く憐れみ、救いの

言葉を語ります。またそれは、いやしの行為となって

表われます。イエスは、ご自身がメシヤであることを

証明するためにいやしのわざを行うのではありません。

イエスの内にある愛がそうさせるのです。

 世の中のありとあらゆる苦しみ、悲しみを前にして、

イエスはその嘆きの部分だけを見るのではありません。

その向こうにある神の恵みと栄光を見ているのです。

 私たちの困窮を見て、イエスは、私たちの魂を導く

ための働き手が少ないと考えます。イエスはこう言い

ます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収

穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主

に願いなさい」。そしてイエスは、働き手として十二

人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能を授けま

す。

 ここまでは、飼い主がいない羊のように魂が飢え乾

いている群衆を私たちに置き換えてみましたが、この

十二人の弟子のことも、私たちのこととして読んでみ

ましょう。この十二人の中に、自分の名前も載ってい

るとしてみてください。

 十二人の名前のリストのうち、徴税人マタイと熱心

党のシモンには、名前だけでなく肩書きが記されてい

ます。もしここに自分の肩書きが記される時は、どん

な肩書きになるのかを想像してみてください。

 ここでマタイとシモンにそれぞれ「徴税人」「熱心

党」と肩書きが記されているのは、イエスの弟子選び

がバラエティーに富んでいることを表すためだと思い

ます。徴税人と熱心党員は、対極の存在だったからで

す。

 熱心党員とは律法に対して非常に熱心だったユダヤ

人のことで,彼らは自分たちの国であるユダヤを支配

していたローマ帝国を拒み,ローマ帝国を自国から追

放しようとした愛国主義者です。

 一方、徴税人は、そのローマ帝国に納める税金を徴

収し、さらに自分の取り分を上乗せして、本来の何倍

ものお金を同胞のユダヤ人から巻き上げていました。

それゆえに徴税人は、人々から、ローマ帝国に魂を売

り渡した、金に貪欲な裏切り者として嫌われていまし

た。

 しかしイエスはここで、そのような愛国主義者と、

いわば自国を売って生きていると見なされていた人を

同時に召しているのです。水と油のように相容れない

熱心党員と徴税人が、イエス・キリストのもとで、弟

子として集められるのです。

 イエスは弟子たちに、汚れた霊を追い出し、あらゆ

る病気や患いをいやすための権能をお授けになりまし

た。それは、救いのわざをなす力が弟子たちに与えら

れたということです。ですから私たちも、隣人への救

いのわざを行いましょう。救いのわざと言っても、そ

れは、日々のほんのささやかなことでもいいのです。

 最近、私が小学4年生頃のある出来事をふと思い出

しました。冬の寒い日のこと、授業中に何かの課題で、

他の生徒と席を替わった時のことでした。私がある女

の子の席に座り、それから自分の席に戻ったあと、私

が座っていた女の子の席に私の体温が残っていて、椅

子が温かくなっていたようでした。そのことを、自分

の席に戻った女の子が嬉しそうに「ありがたい」と言

ってくれたことが大きな印象をもって私の心に残って

います。

 私は、自分に自信のない子供でした。そんな私に、

その女の子が、私の体温が自分の椅子に残っているこ

とを嫌がらずに喜んでくれたことが、私は嬉しかった

のだと思います。些細なことですが、あの出来事は一

生、私の心のどこかに残り続けると思います。本人に

そんなつもりはなくとも、その女の子はささやかな救

いの灯(ともしび)を私の心に灯してくれたのです。

 以前、エマオの途上をイエスと二人の弟子が共に歩

いて行く箇所(ルカ24:13)で、こうお話しさせてい

ただきました。「私たちは、いつも希望の明日に向か

って押し出され、主イエス・キリストと共に日々を歩

んで行くのです」。

 人生において辛いことや苦しいことがたくさんあり、

身体も心も疲れている日々の中では、この「希望の明

日に向かって押し出され」という言葉は、相容れなく

感じるかもしれません。ですが、これまではピンとこ

なかった言葉が、ある時、心にピッタリとくることが

あるのだと思います。

  聖霊に満たされた私たちは、希望の明日に向かって

押し出され、主イエス・キリストと共に歩んでいくの

です。神は愛によって、主イエス・キリストを私たち

のもとに遣わしてくださいました。

 私たちは、イエス・キリストに心を委ね、一日一日

を新たな気持ちで、共に歩んでいきましょう。

 

お祈りをいたします。

 神様、あなたの愛のうちに、私たちが一瞬一瞬を喜

びながら生きていくことができますように。私たちの

喜びが、いつもあなたと共にありますように。御子イ

エス・キリストによって祈ります。

アーメン