諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
本日の福音書には、イエスが語る天の国のたとえ話
が記されています。これらのたとえ話の中で、はじめ
に登場する「からし種」と「パン種」は、ごく小さな
ものの象徴です。しかしその小さなものが芽を出して
大きく育ったり、パンを大きく膨らませることができ
るのです。天の国はこのようなものであると、イエス
は言われます。
からし種は極めて小さい、粉のような種です。吹け
ば飛んで、見えなくなるような種です。しかし人がそ
れを畑に蒔けば、成長してどの野菜よりも大きくな
り、空の鳥が来て枝に巣を作るほど大きくなるので
す。
パン種は、粉に混じってパンを膨らませる役割をし
ます。「女がこれを取って3サトンの粉に混ぜると、
やがて全体が膨れる」とイエスは言います。1サトン
が13リットル弱なので、3サトンは約40リットル
です。これで百人分くらいのパンが作れるそうです。
それほど大量の麦粉であっても、ほんの少しのパン種
が入れば、生地全体を膨らませることができるので
す。
天の国は、からし種やパン種のように、はじめは人
の目に留まらないほどの小さなものですが、やがては
目を見張るほど大きなものに成長することが、このた
とえで示されています。イエスはこれらのたとえを用
いて、秘められた神の国の力、人間の思いを超えた神
の国の計画を示しているのです。
旧約聖書において、パン種は日常的に用いられなが
らも、不純物を表す悪い象徴にも使われてきました。
パン種に腐敗を促す力があると見なされていたからで
す。たとえば、旧約聖書の出エジプト記にはこう記さ
れています。「まず、祭りの最初の日に家から酵母を
取り除く」(12:15)。また、「わたしにささげるいけに
えの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならな
い」(23:18)ともあります。
種を入れないパンは清らかさの象徴であり、過越し
の祭り・除酵祭[じょこうさい]など、ユダヤ教の祭
りに用いられました。イエスご自身も、パン種を悪い
影響力の象徴として、このように言われたことがあり
ました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種
によく注意しなさい」(マタイ16:6)。
しかしイエスは、本日の福音書において、良い影響
を与える象徴としてパン種のたとえを語ります。パン
種を入れてパンを焼くと、柔らかくふかふかとしたパ
ンになります。パン種には物事を変革する力がありま
す。小さなパン種を粉の中に入れると、驚くべき変化
が起こるのです。
粉のように小さなからし種が大きく成長すること。
ごくわずかなパン種によって、大量の粉が膨らみパン
ができあがること。天の国とは、そのような神の神秘
の働きなのです。
次に続く天の国のたとえ話は、「畑に隠された宝」
と「高価な真珠」のたとえです。
前者のたとえに出てくる人は、畑に隠された宝を見
つけます。その人は、見つけた宝をそのまま隠し、喜
びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑
を買います。その人は、宝だけを持ち去るのではな
く、畑ごと買って宝を手に入れました。ですからその
人には、宝だけを持ち去った後ろめたさはありませ
ん。その人は、宝を手に入れることができた純粋な喜
びにあふれることができたのです。
次のたとえの中では、良い真珠を探し求めていた商
人が、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をすっか
り売り払って、その真珠を買います。
これら二つのたとえに登場する人々は、それぞれ自
分が望んでいたものを見出し、喜びのあまり、自分の
全財産を売り払ってでも、かけがえのないものを得よ
うとしたのです。
ここでの「畑に隠された宝」と「高価な真珠」は、
天の国を表しています。古代ローマの哲学者セネカは
こう言います。「誰かに起こりうることは、誰にでも
起こりうることである」。馥郁[ふくいく]たる天の
国への道しるべに遭遇することは、このたとえの中の
人たちだけではなく、私たちすべての人間に起こりう
ることです。その時、私たちは大いなる喜びに包まれ
て、それに応答せずにはいられないことが、このたと
え話の中に示されているのです。
次の「網の中の魚をより分ける」たとえもまた、天
の国をたとえたものです。ところがこのたとえは、急
にこれまでのたとえとは趣が変わります。ここでは、
終わりの日に、良い者と悪い者が より分けられるとい
う最後の審判について語られています。世の終わりに
天使たちが来て、網の中にいっぱいの魚をより分ける
ように、正しい人々の中にいる悪い者たちをより分
け、燃え盛る炉の中に投げ込むというのです。
本日の福音書のイエスのいくつかのたとえは、いず
れも人間の生活に基づくものです。からし種を蒔いて
大きく育てること。パン種を用いてパンを作ること。
隠された宝や良い真珠に遭遇すること。魚をとるこ
と。それらは、この地上で生きる私たち人間の日常に
即した事柄です。
ですが、最後の審判において、天使たちが来て、正
しい人々の中にいる悪い者たちをより分け、燃え盛る
炉の中に投げ込むという話は、極めて非日常的なもの
です。
この地上で生きている間は決して起こり得ない出来
事を、私たちは終わりの日に見るであろうということ
が、ここに示されていると思います。
私たちはその終わりの日に向けて、日々、悔い改
め、一日一日を心新たにして、この地上での時を歩ん
でいきましょう。
私たちは人生において、多くの心の痛みを経験しま
す。人から受けた仕打ちや出来事による自分自身の心
の痛み、あるいは「自分は人の心を傷つけてしまった
のではないか」と感じる心の痛みなど、ありとあらゆ
る心の痛みがあるでしょう。私たち人間のこの地上で
生きる道のりは、心の痛みと共に歩む道のりだと言え
るかもしれません。
あなたが自分自身の心の痛みに苦しむ時は、意識の
中で、十字架上で苦しまれた主イエス・キリストの心
の痛みの中に潜[もぐ]り込んでみてください。そう
することで、あなたの心の痛みは和らぎ、癒やされる
でしょう。そしてまた私たちは、自分自身の心の痛み
に苦しむ時、意識の中で、他者の心の痛みの中に潜り
込みましょう。
あなたにとって、すべてを捨てても手に入れたいも
のとは何でしょうか。
主イエス・キリストがいつも私たちと共に微笑み、
私たちと共に嘆き悲しんでくださっていることを覚え
ながら、私たちは自分自身の小さな心を神様に明け渡
しましょう。
お祈りをいたします。
神様、今日もこの日の糧を与えてくださり感謝いた
します。私たちが心の痛みの中にいる時も、苛立ちや
迷いの中にいる時も、真摯にあなたを見続けながら生
きていくことができますようにお導きください。あな
たの愛が、私たちの内に満ちあふれますように。主イ
エス・キリストの御名によって祈ります。アーメン











