諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
新約聖書のローマの信徒への手紙13章11節以下に
こう記されています。「今や、わたしたちが信仰に入
ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は
更け、日は近づいた。……主イエス・キリストを身に
まといなさい」。
本日の福音書は、イエスが天の国についてのたとえ
を、次のように語る場面から始まります。「天の国は、
ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」。
イエスがこのたとえを語ったのは、イエスが十字架
につけられる三日前のことでした。このたとえを通し
て、イエスは人々に、悔い改めと、神による、天の国
への愛の招きを真剣に受け止めることが、いかなるこ
とよりも大切であると訴えています。
このたとえの中の、王子のために婚宴を催した王と
は神を表し、婚宴とは天の国の喜びを表しています。
原語のギリシア語では、この婚宴という言葉が、複
数形で語られています。昔のユダヤでは、婚宴は一日
では終わらず、一週間続いていたからです。さぞかし
豪華で華々しく、そのための準備はたいへん大掛かり
なものだったでしょう。
しかし、王子のために最高の披露宴の準備をしてい
る王の招きに対して、招待客たちは生活上の都合やさ
まざまな理由を優先してそれを無視します。それどこ
ろか、「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまっ
た」人々までいたのです。
怒った王は、家来を殺したこの者たちを滅ぼし、そ
の町を焼き払ってしまいました。ここに表されている
神の裁きを受けて滅ぼされてしまう人間の姿からは、
創世記のノアの方舟を思い起こさせられます。
その次に王は、「町の大通りに出て、見かけた者は
誰でも婚宴に連れて来なさい」と家来たちに命じま
す。もうこの際、誰でも良いから連れてくるようにと
いうことです。ここには、急ぎ足での神の招きが表さ
れています。救いは、一刻も早く成されなければなら
ない場合があるのです。
王の命令によって、町の大通りから、人を選ぶこと
なく、善人でも悪人でも誰でも連れてくるわけですか
ら、すぐに婚宴は客でいっぱいになりました。
ところが、王が客を見ようと入ってくると、礼服を
着ていない者が一人いました。王は、「友よ、どうし
て礼服を着ないでここに入って来たのか」と問いま
す。
私たちの感覚からすると、皆、町の大通りからいき
なり連れて来られたのですから、婚礼の礼服など着て
いないのが当然ではないかと思えるかもしれません。
ですが当時は、お金持ちが人々を招待する時には、招
待客の礼服まで用意したそうです。ですからこれは
「主人が用意していた礼服をなぜ着ないのか」が問わ
れたということです。
神が私たちに用意してくださった礼服とは、イエス
・キリストのことです。先ほどお読みしたローマ書の
福音を再びお読みします。「今や、わたしたちが信仰
に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
夜は更け、日は近づいた。……主イエス・キリストを
身にまといなさい」(13:11-14)。
「礼服を着る」とは、「イエス・キリストを着る」と
いうことです。自分で頑張って立派な服を準備しなく
ても、神は私たちにイエス・キリストという礼服を用
意してくださっているのです。
私たち人間は、人生の中で、誰しも人から酷い目に
遭わされた経験があると思います。人から受ける酷い
目の遭わされ方の一つに、虐待というものがありま
す。
虐待を受けたことによる心の傷は、そののちもずっ
と、それを受けた側の内側に影を落とし、後遺症を残
してしまうほど、虐待には破壊的な作用があります。
あの時に受けた虐待によって自分は人生を踏み外し
た、と感じて苦しむ人がたくさんいると思います。
なぜ、自分はあのような虐待を受けねばならなかっ
たのか、自分に何か落ち度があったのだろうかと自己
否定に陥ってしまうこともあるでしょう。しかしそれ
は、自分が悪かった、自分が愚かだったということで
は全くありません。
なぜなら、あなたを虐待したその人が、その時、礼
服を着るようにキリストを着ていれば、決してあなた
にそのようなことはしなかったからです。
人生の中で、人があなたに酷い仕打ちをした時のこ
とを思い返してみて、その時のその人を、キリストを
着ていた姿に置き換えて心に浮かべてみてください。
キリストを着たその人であれば、あなたに対して、
あなたの心に深い爪痕を残すような、酷いこと、残酷
なこと、無礼なことは決してしなかったのです。
私たち人間は誰もが、不完全で弱い存在です。
一般的には、弱い存在というと、立場が弱い いじめ
られる側のことが思い浮かぶかもしれません。しか
し、力を振るって、人をいじめたり虐待することも、
その人の弱さからきているのです。
イザヤ書にこうあります。「主は救いの衣をわたしに
着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる」(61:10)。
過去がどうであれ、いつでも私たちには、悔い改
め、キリストをまとって、新しい人生を歩むことがゆ
るされています。
王は、礼服を着ていなかった者に対して、こう呼び
かけました。「友よ、どうして礼服を着ないでここに
入って来たのか」。
この「友よ」という呼びかけには、罪深い私たち人
間への神の深い憐れみと慈しみが込められています。
神からこのように呼びかけられた時、私たちは黙ら
ずに、返答することが求められます。
私たちは、どのような苦しみや、後悔や、葛藤の中
にいる時も、やけを起こさずに、神からの呼びかけに
応答しながら、主イエス・キリストと共に日々を歩ん
でいきましょう。
お祈りをいたします。
天地の造り主である神様。御名を賛美いたします。
日々の生活の中で、あなたの呼びかけに応えながら、
私たちが希望と喜びを持って歩んでいけますようにお
導きください。
あなたの愛が、私たちのうちに満ち溢れ、私たち
が、あなたの愛とひとつになれますように。主イエス
・キリストの御名によって祈ります。
アーメン












