諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
教会は、誰でも自由に来ることができます。
私たち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。
★ 主日の祈り
恵み深い天の父なる神様。
御子イエス・キリストによって、聖なる公同の教会
を真理と平和で満たしてください。
御子により、腐敗をきよめ、過ちを改め、正しいと
ころを強め、必要を満たし、分かたれたふたつをひ
とつに戻してください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
(旧約聖書)エレミヤ書
31章31節~34節 (新約聖書)ローマの信徒への手紙(一)
3章19節~28節
(新約聖書)ヨハネによる福音書
8章31節~36節
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「わたしの言葉にとどまるならば、 あなたたちは本当に私の弟子である。 あなたたちは真理を知り、 真理はあなたたちを自由にする。」 |
「 真理と自由 」
秋久 潤 牧師
聖書は、神の命と聖霊が宿った生きた書物です。皆
様が、聖書を開き、直に聖書に触れる機会が多くあり
ますことを願っています。
聖書をきちんと読もうとすると、なかなか取り掛か
れないことがあるでしょう。ですが、聖書をじっくり
と読まなくとも、たとえば椅子に座っている時など
に、聖書を開いてテーブルの傍らに置いておき、聖書
の言葉をいつも少しずつ目に入れて取り込んでいくだ
けでも、聖書と親密につながることができると思いま
す。
聖書を開くごとに、皆様の心と魂に、生きた水が川
となって流れ込むように神の命と聖霊が注がれますよ
うに。皆様が神の愛と喜びに満たされますことをお祈
りしています。
本日は、宗教改革主日です。今から約500年前の
1517年10月31日、マルティン・ルターが、「95ヶ条の
論題」を掲げて、教会による贖宥状(しょくゆう
じょう:いわゆる免罪符)の販売を批判したのが、宗
教改革の始まりとなりました。
ルター(1483年−1546年)が生きた中世の末期は、
死が隣り合わせにある「死と不安」の時代でした。こ
の頃、ペストの大流行があり、ヨーロッパの人口の4
分の1以上が減ったと言われています。日常にペストや
戦争による死があふれ、人々は死に脅えていました。
そんな中、芸術においても、骸骨などがモチーフと
なった死の香りと不吉さが漂う作品が多く生まれまし
た。「メメント モリ (memento mori)」とは、ラテン
語で「死を思い出せ」「死を忘れるな」という意味を
持ちます。死がいつも身近にあったこの時代、「メメン
ト
モリ(死を忘れるな)」の声が、渦を巻くように社
会全体で高まっていたのです。
死んだ後に天国へ行くことができるのか、地獄に落
ちるのか、天国と地獄の間でしばし苦しめられる煉獄
(れんごく)にとどめ置かれるのか。死におけるこう
した深刻な不安のもと、人々は、それを買えば罪が赦
されるという贖宥状(しょくゆうじょう:免罪符)の
購入に走ったのです。
贖宥状(しょくゆうじょう)とは、教会が販売して
いた、罪の赦しにおいて課される贖(あがな)いが免
除される証書です。当時は、罪の赦しの贖(あがな)
いをやりきらずに死ぬと、死後に天国でも地獄でもな
い煉獄(れんごく)という所に行き、やり残した贖い
に応じた期間、煉獄にとどめ置かれると考えられてい
ました。そして、贖宥状を買うと煉獄での苦しみから
逃れることができるとされていたのです。贖宥状は、
自分自身のためだけでなく、既に亡くなった人のため
に買うこともでき、それを買えば、亡くなった人がい
ま煉獄にとどまっていたとしても、即座に天国に入れ
ると言われました。それゆえに人々は、亡くなった人
のためにも贖宥状を買いました。
溺れる者は藁をも掴むというたとえがあります。民
衆は、こぞって贖宥状(しょくゆうじょう)を自分の
死後のために、あるいは今、煉獄(れんごく)で苦し
んでいるかもしれない亡き父母や家族のためにも購入
したのです。
しかし、罪の赦しを金銭で解決するという贖宥状の
在り方は間違っているとルターは確信します。ルター
は、人間が聖書の真理に立ち返り、自らが神の前に立
ち、神の前で悔い改めることの必要性を人々に説きま
した。
本日の福音書は、イエスが御自分を信じたユダヤ人
たちに、真理について次のように諭す場面から始まり
ます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたち
は本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知
り、真理はあなたたちを自由にする」。
イエス・キリストの言葉にとどまるならば、私たち
はキリストの弟子となって真理を知り、その真理が私
たちを自由にすることを、イエスは私たち人間に伝え
ます。
真理とは、いったい何でしょうか。イエスが裁判に
かけられたとき、真理について語ったイエスに、ポン
ティオ・ピラトはこう問いました。「真理とは何か」
(ヨハネ18:38)。ピラトのこの問いは、私たち人間の
問いを代弁していると思えます。
真理という言葉は、「真実」よりもさらに深く、不
動の軸をもった本質そのものを示す言葉です。真理
は、「真実」を越えて、永遠に決して変わることのない
永久不変のものです。
イエスはこう言われました。「わたしは道であり、真
理であり、命である」(ヨハネ14:6)。真理とは、イエ
ス・キリストご自身のことであり、真理そのものであ
るイエス・キリストは、私たちを罪と死から解放して
自由にします。私たちが、キリストによって真理の霊に
従って歩むとき、私たちは本当の自由を得ることがで
きるのです。
今から約500年前の1517年10月31日、マルティン・
ルターが神の真理を求めたことが、宗教改革の口火を
切ることになりました。
社会全体を大きく揺り動かし、改革を推し進めてい
ったルターでしたが、強靭な人物だったわけではあり
ませんでした。数々の病気やうつ状態によって、肉体
的にも精神的にも苦しめられていたようです。
ルターは、うつ状態になった時、自分は人々を間違
った方向に導いてしまったのではないかという自責の
念に苦しめられたこともあったと言われています。
苦悩したり後悔する中で、なお神の真理を求め、模
索しながら信仰の道を歩んでいたルターを思わされま
す。
少し話は変わりますが、フローレンス・ナイチンゲ
ール(1820年─1910年)という人について、最近、私
の中で思い起こされた話があります。
ナイチンゲールは、クリミア戦争で看護婦として従
軍して、負傷した兵士たちを精力的に看護して助けた
ことで有名な人物です。
「クリミアの天使」、「白衣の天使」と呼ばれ、戦場で
兵士たちを献身的に介護したことで知られているナイ
チンゲールですが、彼女は他にも、社会起業家、統計
学者などの様々な肩書きを持っていました。
次のことは、私が何かで読んだことがあるだけで、
真偽のほどは定かではありませんが、ナイチンゲール
は「クリミア戦争での看護婦の仕事が、自分の人生に
おいて最もくだらない仕事だった」と言っていたこと
があるということでした。
神の声に導かれ、自分の人生を捧げるようにして始
めたことが、後になってみると「自分の人生において
最もくだらないことだった」と思えることが、私たち
人間にはあるかもしれません。
しかし、「人生において最もくだらないことだった」
と後から感じるその事柄の中にこそ、自分の人生にお
ける最も本質的なものと、価値ある宝が秘められてい
る場合があるのではないでしょうか。
さて、10月も終わりに近づき、もう少しで11月に入
ります。
イエス・キリストはこう言われました。「あなたたち
は真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
私たちが、どんなに後悔し、落ち込み、悩んでいる
時でも、決して揺らぐことのない神の真理がとこしえ
に立っていて、私たちは神の真理によって、あらゆる
嘆きや思い煩い、罪と死から解放されて自由になれる
のです。
私たちが主イエス・キリストとひとつになっている
とき、私たちは神の愛と神の真理とひとつになってい
ることを覚えながら、私たちは、神への祈りと賛美の
うちに、この地上での日々を共に歩んでいきましょ
う。
お祈りをいたします。
神様。御名を賛美いたします。私たちひとりひとり
の人生が、あなたの御手の内で創造される、かけがえ
のない大切なものであることを、いつも私たちが忘れ
ずにいることができますように。あなたの愛のうち
に、日々、私たちが生かされていることに感謝いたし
ます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン