諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
三位一体とは・・・?
三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子
これらが同時に一つであるというのが私たちの神
秋久 潤 牧師
本日の福音書には、十字架上で死んで復活したイエ
スが、弟子たちと再び出会った場面が記されていま
す。それは、十一人の弟子たちが故郷のガリラヤに
行き、イエスが指示しておかれた山に登った時のこ
とでした。
たかというと、復活のイエスと出会ったマリアたち
から、「ガリラヤに行くように」というイエスの伝言
を聞かされたからでした。
弟子たちは、イエスが十字架につけられるまでの約
三年間、イエスと共に過ごし、イエスとの交わりをも
ちました。しかしイエスが十字架につけられたこと
で、イエスと弟子たちが共に過ごす日々と、イエスと
弟子たちの関係性は壊されました。イエスが捕らえら
れたとき、不安と恐れに駆られた弟子たちはイエスを
拒否し、逃亡しました。しかしのちに、弟子たちはこ
の拒否と逃亡を通し、イエスの十字架を媒介として、
以前よりも本質的な意味で、再びイエスに近づくこと
ができたのです。
私たちの人生においても、それまで一緒にいた大切
な人が目の前からいなくなったあとに、改めてその人
と過ごした日々の意味やありがたさが分かったり、そ
の人との関係性を構築し直すことがあるのだと思いま
す。
復活したイエスは、弟子たちに近寄ってこう言いま
した。「わたしは天と地の一切の権能を授かってい
る」。
「天」とは「神の栄光の座」を指します。イエス・キ
リストは、十字架の死を経て復活し、天に昇り、神の
栄光の座に着かれました。そして神が世界を統治され
るように、イエス・キリストも「地」、すなわち神が創
造された地上の主であられます。
マタイ福音書の最後は、イエスの次の言葉で締め括
られます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたが
たと共にいる」(マタイ28:20)。
イエスのこの言葉から、思い起こされることがあり
ます。イエスの誕生を天使がヨセフに告げた際、その
出来事は、イザヤ書の預言の実現であるといわれてい
ました(マタイ1:23)。それはこのような預言です。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は
インマヌエルと呼ばれる」。インヌマエルとは、「神は
私たちと共にいます」という意味です。神は世の終わ
りまで、いつも私たちと共におられるのです。
この地上を旅する私たちは、いつも神と共にいま
す。イエス・キリストは、私たちの人生における長い
旅路の果てで待っているのではなく、日々、私たちに
寄り添い、共に歩んでくださる方なのです。
イエス・キリストは高いところから私たちを見下ろ
しておられる方ではなく、私たちの嘆き・苦しみ・悲
しみの中に、愛と慈しみをもって共にいてくださいま
す。だからこそ私たちは、どんな苦難の中にいる時
も、希望と慰めの歩みを進めていくことができるの
です。
創造主である神は、天地と、私たちをお造りになり
ました。また神は、私たちにこう生きるべきと道を示
してくださいました。しかし私たちが神の御心通りに
生きることができないがゆえに、イエスが地上に人の
子として生まれ、私たちと共に歩み、私たちが歩む道
をひらいてくださいました。そして神は、聖霊として
私たちの内に宿り、私たちに立ち上がる力を与え、語
るべき言葉を与えてくださるのです。
旧約聖書の列王記下20章5節にこうあります。
「……主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞
き、涙を見た」。
すべての人にとって、この地上での旅路は平坦では
ないと思います。「人生は夢・幻」と言われますが、
夢・幻にしてはやけに大変だと思えることもあるので
はないでしょうか。しかし私たちは、どんなに辛く苦
しい時も、激しく心が痛む時も、にっちもさっちもい
かない追い詰められた状況の時も、涙を流しながら神
に祈ることがゆるされているのです。
涙を流すことは、喪失感や悲しみを癒し、心の浄化
をもたらします。私たち人間には、涙を流しながら神
に祈ることが必要な時があるのだと思います。
しかし私たちは、あまりにも枯渇し、疲弊しきって
いる時は、涙を流しながら祈るような気力すら湧か
ず、とてもそのような気持ちにはなれないかもしれま
せん。
そんな時でも、いつもあなたと共にいてくださるイ
エス・キリストが、あなたの代わりに涙を流しながら
神に祈ってくださっていることを、心に覚えていてく
ださい。
フランスの修道女リジューのテレーズは、こう述べ
ています。「結局、人生とは一夜の夢に過ぎないのでは
ないでしょうか。それなのに、この夢で人びとを救う
ことができるとは! 人びとの救いを忘れないように
しましょう!」。私たちは、人生という一夜の夢の中で
人を救うことができ、また自分自身も救われるのです。
自分の人生を振り返ってみて、完璧な人生だったと
思える人はほとんどいないと思います。これまでの自
分の道のりを振り返ってみたとき、「馬鹿な人生だっ
た」「愚かな人生だった」と思えてしまう時もあるかも
しれません。過去に自分が、人の心を傷つけてしまっ
たのではないかという罪悪感に苦しむ時もあるかもし
れません。
しかし旧約聖書のイザヤ書は、私たちにこう告げま
す。「たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤く
ても、雪のように白くなる」(1章18節[新改訳])。
緋とは、燃え盛る様子を連想させる鮮やかな赤色の
ことです。私たちの罪が緋のように赤くても、それは
雪のように白くなると言っているのです。
この世に生まれてからの歩みにおいて、初めからず
っと雪のように白い人はいないのです。私たち人間
は、それぞれの紆余曲折の人生を歩んでいくうちに、
初めは緋のように赤かったものが、だんだんと雪のよ
うに白くなっていくのだと思います。
そしてまた私たちは、自分の内側で燃え盛る怒りや
憎しみの炎に取り込まれてしまうのではなく、それは
やがて雪のように白くなるものであることを知りま
しょう。
神のゆるしと愛のうちに、私たちは、悲しみの中に
いる時も、喜びの中にいる時も、主イエス・キリスト
と共に日々を歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
全能の神様。いつも私たちを守り導いてくださりあ
りがとうございます。聖霊を通して語られるあなたの
御言葉を、私たちがいつも心に響かせながら生きてい
くことができますように。あなたの喜びを、私たちの
喜びとさせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン















