諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
2026年5月31日日曜日
2026年5月24日日曜日
5月31日(日)三位一体主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
三位一体とは・・・?
三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子
これらが同時に一つであるというのが私たちの神
秋久 潤 牧師
本日の福音書には、十字架上で死んで復活したイエ
スが、弟子たちと再び出会った場面が記されていま
す。それは、十一人の弟子たちが故郷のガリラヤに
行き、イエスが指示しておかれた山に登った時のこ
とでした。
たかというと、復活のイエスと出会ったマリアたち
から、「ガリラヤに行くように」というイエスの伝言
を聞かされたからでした。
弟子たちは、イエスが十字架につけられるまでの約
三年間、イエスと共に過ごし、イエスとの交わりをも
ちました。しかしイエスが十字架につけられたこと
で、イエスと弟子たちが共に過ごす日々と、イエスと
弟子たちの関係性は壊されました。イエスが捕らえら
れたとき、不安と恐れに駆られた弟子たちはイエスを
拒否し、逃亡しました。しかしのちに、弟子たちはこ
の拒否と逃亡を通し、イエスの十字架を媒介として、
以前よりも本質的な意味で、再びイエスに近づくこと
ができたのです。
私たちの人生においても、それまで一緒にいた大切
な人が目の前からいなくなったあとに、改めてその人
と過ごした日々の意味やありがたさが分かったり、そ
の人との関係性を構築し直すことがあるのだと思いま
す。
復活したイエスは、弟子たちに近寄ってこう言いま
した。「わたしは天と地の一切の権能を授かってい
る」。
「天」とは「神の栄光の座」を指します。イエス・キ
リストは、十字架の死を経て復活し、天に昇り、神の
栄光の座に着かれました。そして神が世界を統治され
るように、イエス・キリストも「地」、すなわち神が創
造された地上の主であられます。
マタイ福音書の最後は、イエスの次の言葉で締め括
られます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたが
たと共にいる」(マタイ28:20)。
イエスのこの言葉から、思い起こされることがあり
ます。イエスの誕生を天使がヨセフに告げた際、その
出来事は、イザヤ書の預言の実現であるといわれてい
ました(マタイ1:23)。それはこのような預言です。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は
インマヌエルと呼ばれる」。インヌマエルとは、「神は
私たちと共にいます」という意味です。神は世の終わ
りまで、いつも私たちと共におられるのです。
この地上を旅する私たちは、いつも神と共にいま
す。イエス・キリストは、私たちの人生における長い
旅路の果てで待っているのではなく、日々、私たちに
寄り添い、共に歩んでくださる方なのです。
イエス・キリストは高いところから私たちを見下ろ
しておられる方ではなく、私たちの嘆き・苦しみ・悲
しみの中に、愛と慈しみをもって共にいてくださいま
す。だからこそ私たちは、どんな苦難の中にいる時
も、希望と慰めの歩みを進めていくことができるの
です。
創造主である神は、天地と、私たちをお造りになり
ました。また神は、私たちにこう生きるべきと道を示
してくださいました。しかし私たちが神の御心通りに
生きることができないがゆえに、イエスが地上に人の
子として生まれ、私たちと共に歩み、私たちが歩む道
をひらいてくださいました。そして神は、聖霊として
私たちの内に宿り、私たちに立ち上がる力を与え、語
るべき言葉を与えてくださるのです。
旧約聖書の列王記下20章5節にこうあります。
「……主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞
き、涙を見た」。
すべての人にとって、この地上での旅路は平坦では
ないと思います。「人生は夢・幻」と言われますが、
夢・幻にしてはやけに大変だと思えることもあるので
はないでしょうか。しかし私たちは、どんなに辛く苦
しい時も、激しく心が痛む時も、にっちもさっちもい
かない追い詰められた状況の時も、涙を流しながら神
に祈ることがゆるされているのです。
涙を流すことは、喪失感や悲しみを癒し、心の浄化
をもたらします。私たち人間には、涙を流しながら神
に祈ることが必要な時があるのだと思います。
しかし私たちは、あまりにも枯渇し、疲弊しきって
いる時は、涙を流しながら祈るような気力すら湧か
ず、とてもそのような気持ちにはなれないかもしれま
せん。
そんな時でも、いつもあなたと共にいてくださるイ
エス・キリストが、あなたの代わりに涙を流しながら
神に祈ってくださっていることを、心に覚えていてく
ださい。
フランスの修道女リジューのテレーズは、こう述べ
ています。「結局、人生とは一夜の夢に過ぎないのでは
ないでしょうか。それなのに、この夢で人びとを救う
ことができるとは! 人びとの救いを忘れないように
しましょう!」。私たちは、人生という一夜の夢の中で
人を救うことができ、また自分自身も救われるのです。
自分の人生を振り返ってみて、完璧な人生だったと
思える人はほとんどいないと思います。これまでの自
分の道のりを振り返ってみたとき、「馬鹿な人生だっ
た」「愚かな人生だった」と思えてしまう時もあるかも
しれません。過去に自分が、人の心を傷つけてしまっ
たのではないかという罪悪感に苦しむ時もあるかもし
れません。
しかし旧約聖書のイザヤ書は、私たちにこう告げま
す。「たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤く
ても、雪のように白くなる」(1章18節[新改訳])。
緋とは、燃え盛る様子を連想させる鮮やかな赤色の
ことです。私たちの罪が緋のように赤くても、それは
雪のように白くなると言っているのです。
この世に生まれてからの歩みにおいて、初めからず
っと雪のように白い人はいないのです。私たち人間
は、それぞれの紆余曲折の人生を歩んでいくうちに、
初めは緋のように赤かったものが、だんだんと雪のよ
うに白くなっていくのだと思います。
そしてまた私たちは、自分の内側で燃え盛る怒りや
憎しみの炎に取り込まれてしまうのではなく、それは
やがて雪のように白くなるものであることを知りま
しょう。
神のゆるしと愛のうちに、私たちは、悲しみの中に
いる時も、喜びの中にいる時も、主イエス・キリスト
と共に日々を歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
全能の神様。いつも私たちを守り導いてくださりあ
りがとうございます。聖霊を通して語られるあなたの
御言葉を、私たちがいつも心に響かせながら生きてい
くことができますように。あなたの喜びを、私たちの
喜びとさせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2026年5月17日日曜日
5月24日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
聖霊降臨祭(ペンテコステ)って何?
★ 主日の祈り
神様。
あなたはこの日、あなたを信じる者に聖霊を送って、
心を開いてくださいます。
聖霊の光で導き、私たちが全てにおいて正しく判断
し、あなたの平和の内に、いつも喜ぶことができる
ようにしてださい。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
清重 尚弘 牧師
2026年5月10日日曜日
2026年5月3日日曜日
5月10日(日)復活節第6主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
★ 主日の祈り
永遠に生きておられる全能の神様。
あなたは、天と地のすべてを一つに結びあわせてく
ださいます。
豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもた
ちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を
授けてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
秋久 潤 牧師
日本にキリスト教が伝来したのは、今から470年
ほど前の戦国時代末期のことでした。ヨーロッパ
からやって来た宣教師たちは、病気の貧しい人の
ための施設を建て、捨てられていく子供たちを救
済する働きをしました。争いのために困窮し、見
捨てられ、虐げられた人々を支える働きは、地域
に広く受け入れられていきました。
「大切にする」という言葉に置き換えて、人々に
伝道しました。「神の愛」という言葉を「デウスの
御大切(ごたいせつ)」、すなわち「神の御大切」
と伝えたのです。「愛」という言葉が、恋愛的な愛
と混同されるのを避けるためでした。
を大切にする」ことです。もちろん、「物を大切に
する」ことなどもそれなりに大事でしょう。しかし、
「人を大切にする」ことよりも「物を大切にする」
ことを優先させると、過ちが起き、罪が生じてしま
うのです。日本のある昔話の、殿が大事にしていた
皿を誤って割ってしまった召使いを罰として殺した
話は、まさにそれを物語っています。
間に向けられている言葉です。神が大切にされてい
るのは、私たちの持ち物・財産・身分等ではありま
せん。神がかけがえのないものとして大切にされて
いるのは、すべての付随物や肩書きが取り払われた、
生身の私たち一人一人なのです。
が凍てつき、塞ぎ込み、抑圧された気持ちになって
いる人は多いと思います。そのような状態のときの
心には、「愛する」という言葉がまぶしすぎて、相入
れなく感じることもあるのではないでしょうか。そ
のような時は、「愛する」という言葉の代わりに、
「大切にする」という言葉の方が心に響いてくるか
もしれません。
返し出てきます。この「愛する」という言葉を、ぜ
ひ今日は、「大切にする」という言葉に置き換えて
読んでみてください。十字架の死が間近に迫る中、
イエスは弟子たちにこう言います。「あなたがたは、
わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。
いう言葉に言い換えて読んでみます。「あなたがた
は、わたしを大切にしているならば、わたしの掟
を守る」。
イエスを大切にすることは、人間同士が互いに
大切にし合うことです。イエスを大切にするよう
に、敵であっても、気に入らない人物であっても、
その相手を大切にすることです。そしてイエスは、
次のように約束してくださるのです。「わたしは父
にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永
遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。
イエスがここで言われた、父なる神にお願いし
て、ご自分が去ったあとに弟子たちに遣わす「別
の弁護者」とは、聖霊のことです。聖霊とは、真
理の霊です。イエスは決して弟子たちとの関わり
を絶って去るのではありません。イエスは、ご自
分が地上にいなくなったあとも、代わりに聖霊を
私たちのもとに送って、私たちを助け続けること
を約束してくださったのです。
私たち人間は、誰もがいつの日かこの世の生を
終えます。そして、人の姿をもって天から降られ
たイエスの地上の生涯にも限りがありました。し
かし、イエスと弟子たちとの交わりは、イエスの
地上での生涯の終わりと共に終了するわけではな
いのです。これは私たちと全ての大切な人との別
れにおいても言えることです。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」
とイエスは言います。これは、イエスが地上を去
ることを意味しています。ですが、次にイエスは喜
びの約束を私たちにしてくださいます。「あなたが
たはわたしを見る。わたしが生きているので、あな
たがたも生きることになる」。
「わたしが生きている」とは、「わたしは十字架の
死を超えてさらに生きている」、すなわち「復活の
命を生きている」という意味です。ここでの「生き
ている」には、「生き続ける」という意味がありま
す。イエスが復活の命を生き続けておられ、だから
こそ私たちもイエスから送られる真(まこと)の命
を受けて生き続けることができるのです。
生きるとは、神の霊を与えられた存在として、祝
福され、赦されて生きることを意味しています。今
日(こんにち)、多くの人々にとって、この世を生き、
自分の人生を生きることは、祝福よりも重荷と苦し
みを感じるものになっているかもしれません。生き
る意味や目標が見出せず、ただ自分の肉体が生きな
がらえているだけのような空虚な気持ちになること
もあるでしょう。
しかし、そんな迷える存在である私たち人間に、
イエス・キリストは「わたしが生きているので、あ
なたがたも生きる」と言ってくださっているのです。
本日の福音書の最後に記されているイエスの「愛
する」という言葉を、「大切にする」に言い換えて読
んでみます。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人
は、わたしを大切にする者である。わたしを大切に
する人は、わたしの父に大切にされる。わたしもそ
の人を大切にして、その人にわたし自身を現す」。
イエスを大切にするとは、他者を大切にすることで
もあります。敵・味方にかかわらず、自分の好き嫌い
の感情に流されず、他者の内にイエス・キリストを見
て、他者を大切にする人は、自分自身も父なる神に大
切にされるのです。
絶対に許すことができないと感じる相手の中にも、
イエス・キリストの姿を見ることで、私たちは、神の
赦しに近づくことができるのだと思います。
さて、今日は「愛する」を「大切にする」という言
葉に置き換えてお話しさせていただきました。そして
最後は「愛」という言葉に戻りたいと思います。
私たちは、愛の祈りをしましょう。イエス・キリス
トが私たちに与えてくださった愛をもって、この世に
おいて、愛の祈りをしましょう。
傷ついたこの世界の回復を、心から祈りましょう。
私たちが、いま試練の中で苦しんでいる人々と、共
に苦しみ、共に希望をもち、共に喜ぶことができます
ように。
どんな時も、イエス・キリストが私たちと共にいて、
私たちと共に悲しみ、私たちと共に嘆き、私たちと共
に喜んでくださいますように。
主イエス・キリストの御名を通して祈ります。
アーメン
2026年4月26日日曜日
5月3日(日)復活節第5主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
現代ではあまり使われませんが、微行(びこう)
という言葉があります。これは、身分の高い人が、
自分の本当の姿や身分を隠して出歩くことを意味
します。それは、地上での歩みにおいて、徹底して
貧しい僕(しもべ)の姿をされたイエス・キリスト
にも当てはまる言葉だと思います。また、私たちの
社会において、魂において崇高で気高い人々が、不
遇な状況で目立たず、社会の底辺に埋もれた微行者
(びこうしゃ)であることが多くあるでしょう。
地上でのイエスの道のりは、強くて華々しい救世
主を望む人々にとって、期待外れのものでした。そ
れは、イエスの弟子たちからでさえも、見損なわれ、
誤解されるような、僕(しもべ)としての歩みでした。
イエスは、十字架にかけられた時、人々から罵
(ののし)りを投げかけられました。「十字架から降
りて自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分
は救えない」(マルコ15:29-31)。
イエス・キリストは、人を救うためには奇跡を行っ
ても、自らを救うためにはこれを行いませんでした。
キリスト者の内村鑑三は、人を助けるための不思議な
力 —— 異能を備えたイエス・キリストは、自己を救う
ためには全然無能であったと述べています。
弱い者を救うためには風をも叱咤してこれを止める
ことができたイエス・キリストは、自らを脅かす敵の
前では、これに手向かおうとして指一本さえ挙げるこ
とができなかったのです。
キリストの奇跡よりもさらに不思議なものは、キリ
ストの無私の心であり、この心があってこそ、初めて
キリストの奇跡の業が行われたのであると内村鑑三は
言いました。
本日の福音書は、イエスが十字架の死の直前に弟子
たちに語った教えの一部です。これは弟子たちとの別
れの説教であるゆえ、「告別説教」とも呼ばれています。
まずイエスは弟子たちに「心を騒がせるな」と言い
ます。「騒がせる」の原語であるギリシア語「タラッソ
ー」は、水が掻き立てられる動きを意味します。
「あなたたちの心は、かき乱されてはならない」とイ
エスが弟子たちに伝えたこのことは、現在の不安定な
社会情勢の中を生きる私たちの心にも、力をもって働
きかけてくる言葉だと思います。
イエスはこう続けます。「神を信じなさい。そして、
わたしをも信じなさい」。イエスは、十字架の死が目前
に迫る中で、ご自分との別離によって弟子たちに生じる
であろう不安と動揺を、神とイエスとに信頼することで
克服するように弟子たちに伝えます。到来する苦難の中
で、神への信頼を強めることを、イエスは何よりも求め
ます。
現代においても、あまりにも悲惨で絶望的な出来事が
世の中には数多くあり、神がいるならどうしてこのよう
なことが起きるのか、神の救いはどこにあるのかという
気持ちになることがあるでしょう。しかし、そんな私た
ちに、イエスは「あなたがたのために場所を用意してお
く」と約束してくださっているのです。恐れと不安と迷
いの中で翻弄される私たち人間を、天の国に居場所を持
ち、神の平安の家に迎え入れられる存在としてくださっ
たのが、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。
パウロは、神が人間の罪を取り除くために、御子イエ
スを罪深い人間の肉体と同じ姿でこの世に送り、罪を罪
として処断したのだと言いました(ローマ8:3)。イエス
は、人間の姿をもってこの世に降り、私たちの罪の赦し
と、救いと、平安のために、私たちと同じ肉体をもって
十字架上で苦しまれ、罪の贖(あがな)いをしてくださ
いました。
フィリピの信徒への手紙で、イエス・キリストの生涯
を要約した次の言葉があります。「かえって自分を無にし
て、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人
間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十
字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:7-8)。
イエスを本当に見ることは、弱々しい僕のイエスの姿
の中に、真の救い主である神の子キリストの姿を認める
ことでした。しかし、それはイエスの弟子たちにとって
も容易ではありませんでした。僕イエスの姿は、弟子た
ちにとってもつまずきでした。だからイエスは、こう言
われるのです。「わたしにつまずかない人は幸いである」
(マタイ11:6、ルカ7:23)。
人が求め期待するのは、もっと豊かに、もっと華々し
く、もっと高いところへという、上昇していく道です。
しかしイエスの道は逆であり、天から地へと下る道、神
が人となり、富める者が貧しくなり、高きにいます方が
この世の最低地点にまで下られる道です。
しかしそれだけではなく、イエスの道は同時に、人を
神へと結びつけ、仲介する道です。イエス・キリストは
天と地と、神と人との間に架け橋をつなぐ方なのです。
イエスは、この地上において、神と人との仲介者として、
天と地の仲介者としての道を歩まれました。
仲介者とは、本人自体はそれほど目立たない存在だと
思います。しかし、優れた仲介者の存在によって、両者
の関係は正しく築かれ、大いなる調和と平和が生み出さ
れていくのです。そして、イエスの道を歩む者たちもま
た、仲介者としての役割を委ねられていることを、私た
ちは心に覚えておきましょう。
さて、早いもので、もう5月に入りました。
あなたには、あなたに害を与えてくる存在として、と
てつもなく脅威と憎しみを感じていた相手のことが、突
如、ちっぽけで憐れな存在に思える時が来るかもしれま
せん。
「憐れに思う」ことは、赦しへの始まりです。敵を
「憐れに思う」ことは、凝り固まった憎しみや、決して
許すことのできない気持ちを解きほぐしてくれるものな
のだと思います。
イエス・キリストは、ご自分を十字架につけた者たち
に対して、憎しみではなく、限りない憐れみを感じてお
られました。
私たちが、イエス・キリストから与えられた赦しと愛
と憐れみによって、憎しみを赦しに、失望を希望へと転
換させることができますように。
私たちの内が、イエス・キリストの愛に満たされ、喜
びをもって日々を生きていくことができますように。
主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。
現代では
イエスは















