諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
現代の社会においても、学歴・資格・地位といった
肩書きは、この世を渡っていく上で大きな力を持ちま
す。ですが、イエスにはそういったものは何もありま
せんでした。イエスの権威は、家柄や、人間社会での
手続きを経て得たものではなく、神から直接来るもの
でした。それゆえにイエスは、人間の力を超えて奇跡
を起こし、人を癒し、救い、赦しを与える権威を神か
ら授かっていたのです。
本日の福音書は、神殿の境内に入って教えておられ
たイエスに、祭司長や民の長老たちが近寄って来て次
のように言う場面から始まります。「何の権威でこのよ
うなことをしているのか。だれがその権威を与えたの
か」。
これはイエスに対して、公的な資格や法的な裏付け
を問う、追求の言葉です。彼らは、宗教家としての地
位と肩書きを持つ自分たちこそが、神殿における一切
の権限を持っていると思っていました。イエスのこと
が目障りで仕方がない彼らは、イエスを問い詰め、排
斥しようとします。
「だれがその権威を与えたのか」という彼らの質問
に、イエスは直接答えずに、逆に次の質問を返しまし
た。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天か
らのものか、それとも、人からのものか」。
ヨハネ、すなわち洗礼者ヨハネは、救い主イエス・
キリストの先駆者として出現した人物でした。ヨハネ
が人々に授けた悔い改めの洗礼は、神から与えられた
権威によるものなのか、あるいは単なる人間的な権威
によるものか、そのどちらだと思うかと、イエスは彼
らに問うたのです。
イエスのこの質問は彼らを戸惑わせました。彼らの
正直な気持ちは、ヨハネの洗礼は神殿の権威を否定
し、民衆を惑わすものであり、決して天からのもので
はないということだったでしょう。
しかし、ヨハネは神からの者ではないと、彼らは口
に出して言うことはしません。ヨハネのことを、神
遣わされた預言者だと信じている群衆を怖れたからで
す。
ですから彼らは、イエスの質問に対して、本心を隠
して「分からない」と曖昧な答え方をしました。地位
ある宗教指導者たちの、人の目を気にする臆病さと自
己保身が、イエスの質問によって浮き彫りにされたの
です。
イエスは、彼らに「ところで、あなたたちはどう思
うか」とさらに問いかけ、一つのたとえ話をします。
それは、ある父親と二人の息子の話です。
父親は兄息子のところへ行って、「今日、ぶどう園
へ行って働きなさい」と言います。兄は「いやです」
と答えましたが、後で考え直して出かけました。さら
に、父親は弟息子のところへも行って、同じことを言
いました。弟は、「お父さん、承知しました」と答え
ましたが、結局行きませんでした。
イエスは、この話を祭司長や民の長老たちに語った
後、彼らにこう質問します。「この二人のうち、どち
らが父親の望みどおりにしたか」。彼らは「兄の方で
す」と答えます。これは誰もがそう答えるであろう、
分かりやすい問いだと思います。
このたとえ話に出てくる二人の息子をもつ父親は、
私たち人間を子とする神を表し、ぶどう園は「神の
国」を表しています。
兄は、初めは神からの招きを拒否しても、考え直
して神に従う者のことであり、弟は、神からの招き
従順なふりをする、見せかけだけの者を表している
と言えるでしょう。
この兄と弟はいったい誰のことを指しているので
しょうか。それは、イエスの次の言葉の中に見出さ
れます。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの
方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。
徴税人や娼婦たちとは、当時、神から離れた罪人
の代表のように人々から見なされていた存在でした。
ところが、そのような人々の方が、地位と名誉ある
宗教指導者たちよりも先に神の国に入るのだとイエ
スは言います。それは、ヨハネが示した義の道を、
徴税人や娼婦たちは信じたからです。
ヨハネが示した「義の道」とは「悔い改めよ。天
の国は近づいた」という招きであり、一人ひとりが、
自分という人間の罪深さを認め、神に立ち返る道で
す(マタイ3章)。徴税人や娼婦たちはこれを信じて、
自分の罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けました。
このように、初めや途中経過はどうであれ、後で
考え直して信じる者は神の国に入ることができると、
イエスは私たちに約束してくださっています。
コヘレトの言葉に「死ぬ日は生まれる日にまさる」
と記されています(7:1)。人生の途上でどんなにし
たり罪を犯したりしても、最後に神に立ち返れば救
われるという大いなる恵みと希望が、私たち人間に
は与えられているのです。
祭司長や民の長老たちが、人の目を気にし、群衆
を恐れたように、どうしても私たち人間は、人目を
気にし、人からの評価に縛られて生きてしまうとこ
ろがあるでしょう。
しかしそんな時は、意識的に自分の目線を高く上
げ、神の方向を見てください。
私たちは、人の目を恐れ縛られた自分の心を、神
の眼差しを感じ取り、神を喜ばせたいと願う心に転
換させることで、より本質的に、より心豊かに生き
ることができるのだと思います。
私たちは誰もがいつの日かこの地上での生を終え
ます。
私たち人間は、この地上で生きている間は、人の
目や、人のことばかりが気になって、私たちを見つ
めている神の眼差しがあることを忘れてしまいがち
かもしれません。
ルターは、死によって地上のあらゆる人々に別れを
告げた後は、ただ神のみを目当てとしなければならな
いと語りました。
そして私たちは、この地上で生きている間も、自分
がただ神のみと繋がっている時をもつことが必要なの
だと思います。
私たちは神の愛のうちに、希望と喜びをもって、主
イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、あなたの喜びを、私たちに与えてくださり あ
りがとうございます。私たちが、あなたの愛によって
心が強められ、立ち上がることができますように力を
お与えください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
本日の礼拝は、午前10時30分から始まります
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
お祈りをいたします。
神様、御名を賛美いたします。私たちが、あなたか
ら与えられたいのちを輝かせながら生きていくことが
できますように、力をお与えください。私たちの心が、
あなたの愛をそのまま映し出し、あなたの愛によって
隣人と自分自身を赦し愛することができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
旧約聖書のイザヤ書にこう記されています。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わた
しの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる」
(イザヤ55:8)。
私たち人間には、不快なことや嫌なことを避けたい
と願う気持ちがあると思います。しかし、神の計り知
れない大きな思いは、私たちの小さな思いをはるかに
超えています。試練や苦しみの中にこそ、神の救いの
計画が備えられていることがあるのです。
神は、私たちが苦しみの中にあるときも、絶望では
なく希望を与えようとしています。どのような困難の
中においても、私たちが希望と喜びを持ち続けること
を、神は望まれます。そして、キリストの受難と十字
架、復活が、私たちの光であり希望なのです。
本日の福音書は、イエスがご自分の受難と死、復活
を初めて弟子たちに打ち明ける場面から始まります。
「打ち明ける」という言葉には、ある種の重さがあり
ます。「打ち明ける」とは、自分の秘密や心の内にある
苦しみを、思い切って人に話したり、自分の胸の内を
包み隠さず誰かに伝えることです。
私たちも人生の中で、自分の秘密やそれまで隠して
いた心の痛み、苦しみを誰かに打ち明けたことがある
のではないでしょうか。逆に、誰かからその人の秘め
たる胸中を打ち明けられたことがあるかもしれませ
ん。
また、もし今まで、人に自分の心の内を打ち明けた
ことも、人から打ち明けられたこともなかったとして
も、これから先に、そのようなことがあるかもしれま
せん。
本日の場面で弟子たちは、他ならぬイエスから、イ
エスご自身の今後にまつわる深刻な内容を打ち明けら
れます。イエスが弟子たちに打ち明けたことは、実の
ところは、深刻というよりも、極めて深淵な内容でし
た。しかしこの時の弟子たちには、それが分かりませ
んでした。弟子たちには、イエスが深刻になって、何
か悲壮感漂う話をしているかのように感じたかもしれ
ません。
イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長
老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて
殺され、三日目に復活することになっていると弟子た
ちに伝えます。「必ずエルサレムに行って……復活する
ことになっている」の「必ず……することになってい
る」とは、イエスの強い決意を示しているだけではあ
りません。それが神の定めた計画だということを表し
ているのです。
神の計画は、イエスの苦難と死と復活を通して、救
いを実現させることでした。イエスはその神の救いの
計画にどこまでも従おうとされたのです。十字架は決
して敗北ではなく、罪と死に対する勝利へ向かうもの
であることが、この「三日目に復活することになって
いる」という言葉の中に含まれています。
しかし、弟子たちはイエスの受難予告を理解できま
せんでした。そこでペトロはイエスをわきへお連れし
て、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあっ
てはなりません」と言ってイエスをいさめます。ここ
の原文のニュアンスは、ペトロがイエスを非難し叱り
つけた、という激しいものです。
それは、イエスの身を案じ、イエスを思いやる気持
ちからの言葉でもあったと思います。弟子たちの混乱
や、やる気を削がれることへの懸念と、イエスが死ん
だら弟子の自分はどうなるのかとの不安を打ち消した
い思いもあったことでしょう。弟子たちは、当時のほ
かの人々と同様、地上で栄光に輝き、勝利を収めるメ
シア像しか受け入れられなかったのです。
イエスはそんなペトロに向かって「サタン、引き下
がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で、イ
エスが悪魔に向けて発した「退け、サタン」を思わせ
る厳しい言い方です。サタンとは、人を神から引き離
す力の象徴です。
イエスはなぜここまで強く反応したのでしょうか。
それは、ペトロの言葉の中に「神の思い」に抵抗する
「人の思い」が含まれていたからです。「人の思い」
とは、「人間の欲・打算」とも言えるでしょう。そし
てペトロがイエスに向けたその言葉は、サタンが荒れ
野の誘惑の中でイエスに語ったことと同じ性質のもの
だったのです(マタイ4章)。
荒れ野のサタンの誘惑とは、要するに「苦しみなど
通らず、みんながアッと驚くような方法で、栄光を得
よ」というものでした。ペトロの言葉もまた、「苦し
みも死も通らずに、メシアとしての栄光を輝かせてほ
しい」と願うものでした。良かれと思ってのペトロの
願いでしたが、それはイエスを十字架から遠ざけよう
とする願いでした。しかし、神の救いの計画は、受難
と十字架を通して成し遂げられねばならなかったので
す。
そしてイエスは、こう言われました。「わたしについ
て来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負っ
て、わたしに従いなさい」。
「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょう
か。これは、様々な解釈ができる言葉です。まず、こ
こでの「自分の十字架」を、私たちがそれぞれに背負
わされている人生の困難のこととして考えてみてくだ
さい。私たち人間には、「これさえなければ、どんな
にいいか」と願う自分固有の悩みや苦しみがそれぞれ
あると思います。
あなたにとって、それは一体、何でしょうか。あな
たが普段、「これさえなければどんなにいいか」と感
じているものについて思いを向けてみてください。
「自分の十字架を背負う」にはもう一つの意味があ
ります。それは、先ほど述べた自分自身の重荷や苦し
みを背負うことの他に、死に向かって自ら歩いていく
という意味合いです。
イエスの時代、死刑判決が下った犯罪人は十字架刑
の場所まで、自分で十字架を背負って行くことが強制
されていたからです。したがって、「自分を捨て、自分
の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、死
をもいとわず主イエス・キリストに従うようにという
ことなのです。
一見、それは重たく思えることかもしれません。し
かし実のところ、それは、「これさえなければどんなに
いいか」と思える自分固有の悩み・苦しみを十字架と
して背負うよりも、はるかに軽やかで、希望と喜びに
あふれたものではないでしょうか。
キリストに従う時、私たちは古い自分を捨て、軽や
かに十字架を背負いながら、死をもいとわず、キリス
トの後に続いて歩んでいくのです。
さて、8月も終わりに近づいてきました。
人間にとって最大の悲しみとは何でしょうか。
それは、人によって様々だと言えるかもしれません。
ですが、一人ひとりの人間の最大の悲しみの根底に
は、共通するものがあるのではないでしょうか。
ある人から、次の話を聞いたことがあります。その
人は普段、外出先でお店の店員等と接するとき、目を
伏せて相手の顔をあまり見ないことが多かったそうで
す。ですが、あるとき、これまでよりも積極的に店員
や病院の医者等、普段はあまり目を合わせることのな
かった人々と目を合わせて会話をしてみたところ、こ
れまで見えていなかったものが見えた思いがしたとい
うことでした。それというのは、この世で生きている
人の心、すなわちこの世は悲しみに満ちているという
ことだったのです。
私たち人間は、悲しみと共に生きています。しかし
また私たちは、悲しみを愛することができるのだと思
います。そして悲しみを愛することは、人と自分を愛
することでもあるのです。
主イエス・キリストの十字架の受難と復活によっ
て、神は私たちに、救いと恵みの御業を示してくださ
いました。
私たちは、神の大いなる愛と祝福に満たされなが
ら、希望と喜びをもって、主イエス・キリストと共に
この地上での時を歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、御名を賛美いたします。
私たちは、日々、落ち込んだり、嘆いたり、悩みなが
ら日々を過ごしています。うつむく私たちがあなたの
愛と御心のもとに、前を向いて希望と喜びをもって歩
んでいくことができますようにお導きください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン