2026年6月14日日曜日

6月21日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります














教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。



★ 主日の祈り

慈しみ深い主なる神様。

あなたに仕えることを教えてください。

見返りを求めず与え、傷を恐れず戦い、休みを

求めず労し、報いを求めず働いて、御心を行う

ことに満足することができますように。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)エレミヤ書 

       20章7節~13節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       6章1節b~11節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       10章24節~39節

自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、
わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとするものは、
それを失い、
私のために命を失う者は、
かえってそれを得るのである。




















「  自分の十字架 

       秋久 潤 牧師 

2026年6月7日日曜日

6月14日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。



★ 主日の祈り

憐れみ深い神様。

あなたは私たちに道を開き、御許に導いてくだ

さいました。

私たちの心にあなたの愛を注ぎ、溢れる喜びを

もって御国の祝福を分かち合い、御子の福音を、

忠実に宣べ伝えさせてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)出エジプト記 

       19章2節~8節a                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       5章1~8節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       9章35節~10章8節


群衆が飼い主のいない羊のように
弱り果て、打ちひしがれているのを見て、
深く憐れまれた。

















「  羊のように 

       秋久 潤 牧師 


  聖書に記されていることを、2000年前の遠い場所で

起きたこととしてではなく、現在の自分のこととして

主観的に読むと、聖書との関わりが、より親密で生き

たものとなると思います。

 本日の福音書は、イエスが福音伝道と、あらゆる病

気や患いをいやすわざを「町や村を残らず回って」お

こなった場面から始まります。ここをイエスが、日本

中のすべての町や村を残らず回って、福音を宣べ伝え、

私たちのありとあらゆる病気や患いをいやしたとして

みてください。

 イエスがすべての町や村を残らず回ったことは、救

いはすべての人の上にあることを表しています。イエ

スは、これらの働きを続けながら、私たち群衆が飼い

主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている

のを見て、深く憐れまれます。

 イエスは私たちの内に、私たちが自覚している以上

の大きな問題を見ています。病気や人間関係の悩み、

お金の悩み、生活の悩みなど、そういった現実的な悩

みと共に、私たちが自覚していない魂の飢え渇きを見

ているのです。

 羊は、羊飼いなしには生きていくことができない無

力な動物です。羊の視力は数メートル先までしか及ば

ないと言われています。そのために、良い羊飼いを持

たない羊は、もし群れを離れたら、自力で群れに戻る

ことができません。

 羊である私たちには、導き手である羊飼いが必要で

す。弱った私たちを力づけ、病める私たちを癒し、傷

ついた私たちを包み、散らされた私たちを連れ戻し、

失われた私たちを捜し求めてくださる羊飼いが必要な

のです。

 イエス・キリストこそが私たちの羊飼いとなって、

私たちを深く憐んでくださるのです。イエスが私たち

を憐れむのは、イエスが私たちの苦しみを知っている

からです。

 イエス・キリストは、私たちを深く憐れみ、救いの

言葉を語ります。またそれは、いやしの行為となって

表われます。イエスは、ご自身がメシヤであることを

証明するためにいやしのわざを行うのではありません。

イエスの内にある愛がそうさせるのです。

 世の中のありとあらゆる苦しみ、悲しみを前にして、

イエスはその嘆きの部分だけを見るのではありません。

その向こうにある神の恵みと栄光を見ているのです。

 私たちの困窮を見て、イエスは、私たちの魂を導く

ための働き手が少ないと考えます。イエスはこう言い

ます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収

穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主

に願いなさい」。そしてイエスは、働き手として十二

人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能を授けま

す。

 ここまでは、飼い主がいない羊のように魂が飢え乾

いている群衆を私たちに置き換えてみましたが、この

十二人の弟子のことも、私たちのこととして読んでみ

ましょう。この十二人の中に、自分の名前も載ってい

るとしてみてください。

 十二人の名前のリストのうち、徴税人マタイと熱心

党のシモンには、名前だけでなく肩書きが記されてい

ます。もしここに自分の肩書きが記される時は、どん

な肩書きになるのかを想像してみてください。

 ここでマタイとシモンにそれぞれ「徴税人」「熱心

党」と肩書きが記されているのは、イエスの弟子選び

がバラエティーに富んでいることを表すためだと思い

ます。徴税人と熱心党員は、対極の存在だったからで

す。

 熱心党員とは律法に対して非常に熱心だったユダヤ

人のことで,彼らは自分たちの国であるユダヤを支配

していたローマ帝国を拒み,ローマ帝国を自国から追

放しようとした愛国主義者です。

 一方、徴税人は、そのローマ帝国に納める税金を徴

収し、さらに自分の取り分を上乗せして、本来の何倍

ものお金を同胞のユダヤ人から巻き上げていました。

それゆえに徴税人は、人々から、ローマ帝国に魂を売

り渡した、金に貪欲な裏切り者として嫌われていまし

た。

 しかしイエスはここで、そのような愛国主義者と、

いわば自国を売って生きていると見なされていた人を

同時に召しているのです。水と油のように相容れない

熱心党員と徴税人が、イエス・キリストのもとで、弟

子として集められるのです。

 イエスは弟子たちに、汚れた霊を追い出し、あらゆ

る病気や患いをいやすための権能をお授けになりまし

た。それは、救いのわざをなす力が弟子たちに与えら

れたということです。ですから私たちも、隣人への救

いのわざを行いましょう。救いのわざと言っても、そ

れは、日々のほんのささやかなことでもいいのです。

 最近、私が小学4年生頃のある出来事をふと思い出

しました。冬の寒い日のこと、授業中に何かの課題で、

他の生徒と席を替わった時のことでした。私がある女

の子の席に座り、それから自分の席に戻ったあと、私

が座っていた女の子の席に私の体温が残っていて、椅

子が温かくなっていたようでした。そのことを、自分

の席に戻った女の子が嬉しそうに「ありがたい」と言

ってくれたことが大きな印象をもって私の心に残って

います。

 私は、自分に自信のない子供でした。そんな私に、

その女の子が、私の体温が自分の椅子に残っているこ

とを嫌がらずに喜んでくれたことが、私は嬉しかった

のだと思います。些細なことですが、あの出来事は一

生、私の心のどこかに残り続けると思います。本人に

そんなつもりはなくとも、その女の子はささやかな救

いの灯(ともしび)を私の心に灯してくれたのです。

 以前、エマオの途上をイエスと二人の弟子が共に歩

いて行く箇所(ルカ24:13)で、こうお話しさせてい

ただきました。「私たちは、いつも希望の明日に向か

って押し出され、主イエス・キリストと共に日々を歩

んで行くのです」。

 人生において辛いことや苦しいことがたくさんあり、

身体も心も疲れている日々の中では、この「希望の明

日に向かって押し出され」という言葉は、相容れなく

感じるかもしれません。ですが、これまではピンとこ

なかった言葉が、ある時、心にピッタリとくることが

あるのだと思います。

  聖霊に満たされた私たちは、希望の明日に向かって

押し出され、主イエス・キリストと共に歩んでいくの

です。神は愛によって、主イエス・キリストを私たち

のもとに遣わしてくださいました。

 私たちは、イエス・キリストに心を委ね、一日一日

を新たな気持ちで、共に歩んでいきましょう。

 

お祈りをいたします。

 神様、あなたの愛のうちに、私たちが一瞬一瞬を喜

びながら生きていくことができますように。私たちの

喜びが、いつもあなたと共にありますように。御子イ

エス・キリストによって祈ります。

アーメン


2026年5月31日日曜日

6月7日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります


教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。














★ 主日の祈り

神様。

あなたは命の源、私たちの命の礎(いしずえ)

です。

聖霊の力によって傷ついた世を癒やし、私たち

を御子の新しい命へと引き上げてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)ホセア書 

       5章15節~6章6節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       4章13~25節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       9章9節~13節、18節~26節


















「  憐れみ  

       秋久 潤 牧師 


  本日の福音書は、イエスが徴税人マタイを、ご自分

の弟子になるように招いた場面から始まります。当時、

ユダヤの地はローマ帝国に支配されていて、ローマ帝

国に納める税金の徴収は、現地のユダヤ人に委託され

ていました。それゆえに徴税人は、ユダヤ人の同胞か

ら、ローマ帝国に魂を売り渡した卑怯者として嫌われ

ていました。ローマ帝国は異教の国ですから、そのロ

ーマ帝国のために働く徴税人は、ユダヤの神の救いか

ら除外された「罪人」と考えられていたのです。

 しかし、そんな徴税人のマタイを通りがかりに見か

けたイエスは、マタイにこう呼びかけました。「わたし

に従いなさい」。

 召命(しょうめい)という言葉があります。召命と

は、神の恵みによって神に呼び出されることです。人

間社会では、人を自分にとってプラスになる存在か否

かの損得勘定で見てしまうところがあります。しかし

イエスはそうではありません。その人がどれだけご自

分を必要としているかに目を留めるのです。

 収税所に座っていたマタイは、すぐにイエスの招き

に従い、立ち上がりました。そして、イエスによる徴

税人マタイへの恵みの招きにつまずいたのは、周りの

ファリサイ派の人々でした。彼らは、イエスがマタイ

の家で、他の徴税人や「罪人」たちと食事をしている

のを見て、けしからんことだと思いました。

 ファリサイ派の人々にとって、徴税人や罪人は、ユ

ダヤ教の教えである律法を守らず、汚れている存在で

した。そんな彼らと食事をすれば自分たちも汚れると

思っていたのです。

 ファリサイ派の人々に向かって、イエスはご自分を

「医者」にたとえてこう言います。「医者を必要とする

のは、丈夫な人ではなく病人である」。そして病人は、

自分が病人であることを認めればこそ、医者のもとに

来るのです。精神科医のヴィクトール・フランクルは

「本人が自覚していない絶望こそが、実は最も深刻だ」

と言いました。私たちは、自分の闇を「自覚」した時

点で、初めて救いの入り口に立つことができるのだと

思います。

 イエスは、ファリサイ派の人々に対して、旧約聖書

の言葉を引用しつつ、こう続けました。「『わたしが求

めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはど

ういう意味か、行って学びなさい」。

 ここで引用されたのは、ホセア書66節の次の言葉

です。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではな

く/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではな

い」。

 この言葉から、私の中で思い出される話があります。

昔、特集番組で観た、ある古代文明の風習についての

話です。

 その古代文明には、自然の猛威や災害を恐れ、神の

怒りを鎮めるために、選ばれた女の子がいけにえとし

て捧げられる風習があったそうです。いけにえとして

選ばれた女の子は生まれてからずっと、他の子供たち

のように暮らすことができず、隔離され育てられまし

た。そして十代のある年齢に達すると、儀式が執り行

われ、少女は頭を岩で打たれて殺され、神に捧げられ

たのです。

 災いを避けるためや、祈りや願をかけるために、生

きた人間をいけにえとして神に捧げる風習は、歴史的

に、世界中でありました。

 「いけにえ」の根底には、他者を犠牲にしてでも自分

たちは助かりたいという人間の自己防衛本能と恐れが

あると思います。

 イエスが引用したホセア書の「わたしが喜ぶのは/

愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/

焼き尽くす献げ物ではない」という言葉は、神が求め

ておられるのは、外面的な宗教行為や儀式ではなく、

真実な愛であり、神を知り、神と共に生きることであ

ると告げています。

 さて、本日の福音書の後半では場面が変わり、カ

ファルナウムの共同体の指導者がイエスのそばに来て、

ひれ伏してこう言います。「わたしの娘がたったいま死

にました。でも、おいでになって手を置いてやってく

ださい。そうすれば、生き返るでしょう」。

 イエスは、その必死の願いに応えるために、立ち上

がり、彼について行きました。そして、彼の死んだ娘

が眠っている家に向かう途中で、十二年間も長血を患

っている女性と出会います。ユダヤ人社会では、この

ような出血のある女性は汚れた存在とされ、彼女に触

れる人も汚れると考えられていました。

 そこには先ほどの、徴税人や罪人と一緒に食事をす

ると自分たちも汚れるという差別意識に通ずるものが

あります。

 女性は「この方の服に触れさえすれば治してもらえ

る」と思って、後ろからイエスの服の房に触れました。

深い祈りと信仰の中には、限りない希望が秘められて

います。イエスの服に触れ、イエスから声をかけられ

た女性の病は、治りました。

 イエスが指導者の家に着くと、笛を吹く者たちや騒

いでる群衆がいました。笛吹きの存在は、喪の儀式が

はじまろうとしていること、すなわち娘の死の確実さ

を告げています。

 しかし、イエスは彼らにこう言います。「あちらへ行

きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」。

死者は死んでいないと語るイエスを、人々はあざ笑い

ました。

 しかしその中で、死んだ娘に対する想いが他の人々

よりもはるかに強い指導者の父親は、イエスのこの言

葉に大きな希望をもったのはないでしょうか。

 他の人には愚かとしか思えない言葉をイエスが発し

た時、絶望の中にいた彼の心は、救いと希望の光に照

らされたのだと思います。

 イエスが少女の手を取ると、少女は起き上がりまし

た。父親の願い通り、少女は生き返ったのです。

 本日の福音書において、イエスは徴税人マタイを召

し、十二年間出血が続いていた女性の病を治し、死ん

だ少女を生き返らせました。

 イエスのこの言葉を、私たちは心にとどめましょう。

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえでは

ない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。

 現代の私たちの社会にも、直接的に命を奪うという

ことはないにしても、自分たちの身の保身のために、

他者をいけにえにすることが行われている側面があり

ます。

 たとえば、人が人を差別したり、仲間外れにする意

識の根底にあるものの一つは、「誰かをいけにえにして、

自分たちは安全な場所にいたい」というものだと思い

ます。しかしそういった自己保身の中に、真の喜びは

ありません。

 神が求めるのは憐れみであって、いけにえではない

ということを、私たちはこの人生の道のりの中で知っ

ていくことが大切です。そしてまた、私たちは自分自

身のこともいけにえにしてはならないのだと思います。

 神は、自己犠牲だけであなたの人生が終わるのでは

なく、あなたが自分自身の人生を生き生きと喜びにあ

ふれて歩んでいくことを望まれています。

 私たちは、神のゆるしと愛のうちに、私たちの心を

神に明け渡し、希望と喜びをもってこの地上での時を

共に歩んでいきましょう。

 

お祈りをいたします。

 神様、私たちがいつもあなたの御心のうちに、日々

を歩んで行くことができますように、力をお与えくだ

さい。私たちが隣人を大切にし、また自分自身を大切

にして生きていくことができますように。

 御子イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン


2026年5月24日日曜日

5月31日(日)三位一体主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります


教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。















三位一体とは・・・?

一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えていると
いうのが三位一体の意味です。
三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子
としての人格、そして神の霊・聖霊としての人格
の三つです。
これらが同時に一つであるというのが私たちの神
であります。



★ 主日の祈り

全能の創造者、生きておられる神様。

唯一にして三つであるあなたの栄光をあがめ、

三つであり唯一のあなたの大いなる御力をた

たえます。

この信仰に堅く立ち、逆境の中で守り、つい

には、御前にあって永遠の喜びと愛のうちに

住まわせてください。

今も、そして永遠にいます、父、御子、聖霊

の唯一の神に祈ります。

アーメン

 




(旧約聖書)創世記 

       1章1節~2章4節a                                                                       (新約聖書)コリントの信徒への手紙(二)

       13章11~13節

(新約聖書)マタイによる福音書    

       28章16節~20節


「だから、あなたがたは行って、
すべての民をわたしの弟子にしなさい。」


















「 三位一体 

       秋久 潤 牧師 


  本日の福音書には、十字架上で死んで復活したイエ

スが、弟子たちと再び出会った場面が記されていま

す。それは、十一人の弟子たちが故郷のガリラヤに

行き、イエスが指示しておかれた山に登った時のこ

とでした。

  エルサレムにいた弟子たちがなぜガリラヤに行っ

たかというと、復活のイエスと出会ったマリアたち

から、「ガリラヤに行くように」というイエスの伝言

を聞かされたからでした。

 弟子たちは、イエスが十字架につけられるまでの約

三年間、イエスと共に過ごし、イエスとの交わりをも

ちました。しかしイエスが十字架につけられたこと

で、イエスと弟子たちが共に過ごす日々と、イエスと

弟子たちの関係性は壊されました。イエスが捕らえら

れたとき、不安と恐れに駆られた弟子たちはイエスを

拒否し、逃亡しました。しかしのちに、弟子たちはこ

の拒否と逃亡を通し、イエスの十字架を媒介として、

以前よりも本質的な意味で、再びイエスに近づくこと

ができたのです。

 私たちの人生においても、それまで一緒にいた大切

な人が目の前からいなくなったあとに、改めてその人

と過ごした日々の意味やありがたさが分かったり、そ

の人との関係性を構築し直すことがあるのだと思いま

す。

 復活したイエスは、弟子たちに近寄ってこう言いま

した。「わたしは天と地の一切の権能を授かってい

る」。

「天」とは「神の栄光の座」を指します。イエス・キ

リストは、十字架の死を経て復活し、天に昇り、神の

栄光の座に着かれました。そして神が世界を統治され

るように、イエス・キリストも「地」、すなわち神が創

造された地上の主であられます。

 マタイ福音書の最後は、イエスの次の言葉で締め括

られます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたが

たと共にいる」(マタイ28:20)。

 イエスのこの言葉から、思い起こされることがあり

ます。イエスの誕生を天使がヨセフに告げた際、その

出来事は、イザヤ書の預言の実現であるといわれてい

ました(マタイ1:23)。それはこのような預言です。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は

インマヌエルと呼ばれる」。インヌマエルとは、「神は

私たちと共にいます」という意味です。神は世の終わ

りまで、いつも私たちと共におられるのです。

 この地上を旅する私たちは、いつも神と共にいま

す。イエス・キリストは、私たちの人生における長い

旅路の果てで待っているのではなく、日々、私たちに

寄り添い、共に歩んでくださる方なのです。

 イエス・キリストは高いところから私たちを見下ろ

しておられる方ではなく、私たちの嘆き・苦しみ・悲

しみの中に、愛と慈しみをもって共にいてくださいま

す。だからこそ私たちは、どんな苦難の中にいる時

も、希望と慰めの歩みを進めていくことができるの

です。

 創造主である神は、天地と、私たちをお造りになり

ました。また神は、私たちにこう生きるべきと道を示

してくださいました。しかし私たちが神の御心通りに

生きることができないがゆえに、イエスが地上に人の

子として生まれ、私たちと共に歩み、私たちが歩む道

をひらいてくださいました。そして神は、聖霊として

私たちの内に宿り、私たちに立ち上がる力を与え、語

るべき言葉を与えてくださるのです。

 旧約聖書の列王記下205節にこうあります。

……主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞

き、涙を見た」。

 すべての人にとって、この地上での旅路は平坦では

ないと思います。「人生は夢・幻」と言われますが、

夢・幻にしてはやけに大変だと思えることもあるので

はないでしょうか。しかし私たちは、どんなに辛く苦

しい時も、激しく心が痛む時も、にっちもさっちもい

かない追い詰められた状況の時も、涙を流しながら神

に祈ることがゆるされているのです。

 涙を流すことは、喪失感や悲しみを癒し、心の浄化

をもたらします。私たち人間には、涙を流しながら神

に祈ることが必要な時があるのだと思います。

 しかし私たちは、あまりにも枯渇し、疲弊しきって

いる時は、涙を流しながら祈るような気力すら湧か

ず、とてもそのような気持ちにはなれないかもしれま

せん。

 そんな時でも、いつもあなたと共にいてくださるイ

エス・キリストが、あなたの代わりに涙を流しながら

神に祈ってくださっていることを、心に覚えていてく

ださい。

 フランスの修道女リジューのテレーズは、こう述べ

ています。「結局、人生とは一夜の夢に過ぎないのでは

ないでしょうか。それなのに、この夢で人びとを救う

ことができるとは! 人びとの救いを忘れないように

しましょう!」。私たちは、人生という一夜の夢の中で

人を救うことができ、また自分自身も救われるのです。

 自分の人生を振り返ってみて、完璧な人生だったと

思える人はほとんどいないと思います。これまでの自

分の道のりを振り返ってみたとき、「馬鹿な人生だっ

た」「愚かな人生だった」と思えてしまう時もあるかも

しれません。過去に自分が、人の心を傷つけてしまっ

たのではないかという罪悪感に苦しむ時もあるかもし

れません。

 しかし旧約聖書のイザヤ書は、私たちにこう告げま

す。「たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤く

ても、雪のように白くなる」(118節[新改訳])。

 緋とは、燃え盛る様子を連想させる鮮やかな赤色の

ことです。私たちの罪が緋のように赤くても、それは

雪のように白くなると言っているのです。

 この世に生まれてからの歩みにおいて、初めからず

っと雪のように白い人はいないのです。私たち人間

は、それぞれの紆余曲折の人生を歩んでいくうちに、

初めは緋のように赤かったものが、だんだんと雪のよ

うに白くなっていくのだと思います。

 そしてまた私たちは、自分の内側で燃え盛る怒りや

憎しみの炎に取り込まれてしまうのではなく、それは

やがて雪のように白くなるものであることを知りま

しょう。

 神のゆるしと愛のうちに、私たちは、悲しみの中に

いる時も、喜びの中にいる時も、主イエス・キリスト

と共に日々を歩んでいきましょう。

  

お祈りをいたします。

 全能の神様。いつも私たちを守り導いてくださりあ

りがとうございます。聖霊を通して語られるあなたの

御言葉を、私たちがいつも心に響かせながら生きてい

くことができますように。あなたの喜びを、私たちの

喜びとさせてください。

 御子イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン


2026年5月17日日曜日

5月24日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります


教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。

















聖霊降臨祭(ペンテコステ)って何?


 聖霊の下った五旬節の日は、イエス・キリス
トの復活から50日目の日曜日であり、昇天から
10日後に当たります。この日を「ペンテコステ」
と呼ぶのは、ギリシャ語で50番目を意味してい
るからです。
 五旬節の日、キリストの約束の通り、聖霊が
下り、これにより弟子たちは神の言葉を語りだ
しました。『聖霊が、あなた方の上に臨まれると
き、あなた方は力を受けます。そして、エルサレ
ム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果て
にまで、私の証人となります』(使徒行伝1章8節)
とあるように、弟子たちは神からの力を受け、
キリストの十字架と復活の証人として、立ち上
がりました。また、この日より、新しい神の民、
キリストの教会が生まれました。
 私たちはこの日を、「教会の誕生の日」として
祝い、赤いバラの花で教会を飾ったり、何か赤
いものを身に着けて教会に集います。


★ 主日の祈り

神様。

あなたはこの日、あなたを信じる者に聖霊を送って、

心を開いてくださいます。

聖霊の光で導き、私たちが全てにおいて正しく判断

し、あなたの平和の内に、いつも喜ぶことができる

ようにしてださい。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 





(新約聖書)使徒言行録 

       2章1節~13節                                                                       


五旬祭の日が来て、
一同が一つになって集まっていると、
突然、激しい風が吹いて来るような
音が天から聞こえ、彼らが座っていた
家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、
一人一人の上にとどまった。




















「  霊の風が吹く時 

       清重 尚弘 牧師 


清重尚弘牧師のプロフィール








東京都出身。1939年(昭和14年)5月14日生まれ。
東京大学文学部宗教学科卒。立教大学修士、ニュ
ーヨークユニオン神学校博士課程留学。日吉ルー
テル教会牧師(4年間)。1975年ルーテル学院大学
に着任、1978年~2002年まで学長。2002年4月よ
り九州ルーテル学院院長・学長。
イスラエル考古学発掘に従事。1985年以来、ルー
テル世界連盟理事などを歴任。前文化庁宗教法人
審議会委員。現在、ルーテル神学校名誉教授。
専攻は、旧約聖書学。


2026年5月10日日曜日

5月17日(日)主の昇天主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります

教会は、誰でも自由に来ることができます。
わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。















★ 主日の祈り

全能の神様。

御子は天に迎えられ、御前で私たちのために執り成

してくださっています。

全世界のための私たちの祈りを聞き、終わりの時に

万物をあなたの栄光へと導いてください。

あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、

御子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

 




(新約聖書)使徒言行録 

       1章1節~11節                                                                       (新約聖書)エフェソの信徒への手紙

       1章15~23節

(新約聖書)ルカによる福音書    

       24章44節~53節

わたしは、父が約束されたものを
あなたがたに送る。
高い所からの力に覆われるまでは、
都にとどまっていなさい。

















「 高い所からの力 

       秋久 潤 牧師