諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
2026年5月10日日曜日
2026年5月3日日曜日
5月10日(日)復活節第6主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
★ 主日の祈り
永遠に生きておられる全能の神様。
あなたは、天と地のすべてを一つに結びあわせてく
ださいます。
豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもた
ちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を
授けてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
秋久 潤 牧師
日本にキリスト教が伝来したのは、今から470年
ほど前の戦国時代末期のことでした。ヨーロッパ
からやって来た宣教師たちは、病気の貧しい人の
ための施設を建て、捨てられていく子供たちを救
済する働きをしました。争いのために困窮し、見
捨てられ、虐げられた人々を支える働きは、地域
に広く受け入れられていきました。
「大切にする」という言葉に置き換えて、人々に
伝道しました。「神の愛」という言葉を「デウスの
御大切(ごたいせつ)」、すなわち「神の御大切」
と伝えたのです。「愛」という言葉が、恋愛的な愛
と混同されるのを避けるためでした。
を大切にする」ことです。もちろん、「物を大切に
する」ことなどもそれなりに大事でしょう。しかし、
「人を大切にする」ことよりも「物を大切にする」
ことを優先させると、過ちが起き、罪が生じてしま
うのです。日本のある昔話の、殿が大事にしていた
皿を誤って割ってしまった召使いを罰として殺した
話は、まさにそれを物語っています。
間に向けられている言葉です。神が大切にされてい
るのは、私たちの持ち物・財産・身分等ではありま
せん。神がかけがえのないものとして大切にされて
いるのは、すべての付随物や肩書きが取り払われた、
生身の私たち一人一人なのです。
が凍てつき、塞ぎ込み、抑圧された気持ちになって
いる人は多いと思います。そのような状態のときの
心には、「愛する」という言葉がまぶしすぎて、相入
れなく感じることもあるのではないでしょうか。そ
のような時は、「愛する」という言葉の代わりに、
「大切にする」という言葉の方が心に響いてくるか
もしれません。
返し出てきます。この「愛する」という言葉を、ぜ
ひ今日は、「大切にする」という言葉に置き換えて
読んでみてください。十字架の死が間近に迫る中、
イエスは弟子たちにこう言います。「あなたがたは、
わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。
いう言葉に言い換えて読んでみます。「あなたがた
は、わたしを大切にしているならば、わたしの掟
を守る」。
イエスを大切にすることは、人間同士が互いに
大切にし合うことです。イエスを大切にするよう
に、敵であっても、気に入らない人物であっても、
その相手を大切にすることです。そしてイエスは、
次のように約束してくださるのです。「わたしは父
にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永
遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。
イエスがここで言われた、父なる神にお願いし
て、ご自分が去ったあとに弟子たちに遣わす「別
の弁護者」とは、聖霊のことです。聖霊とは、真
理の霊です。イエスは決して弟子たちとの関わり
を絶って去るのではありません。イエスは、ご自
分が地上にいなくなったあとも、代わりに聖霊を
私たちのもとに送って、私たちを助け続けること
を約束してくださったのです。
私たち人間は、誰もがいつの日かこの世の生を
終えます。そして、人の姿をもって天から降られ
たイエスの地上の生涯にも限りがありました。し
かし、イエスと弟子たちとの交わりは、イエスの
地上での生涯の終わりと共に終了するわけではな
いのです。これは私たちと全ての大切な人との別
れにおいても言えることです。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」
とイエスは言います。これは、イエスが地上を去
ることを意味しています。ですが、次にイエスは喜
びの約束を私たちにしてくださいます。「あなたが
たはわたしを見る。わたしが生きているので、あな
たがたも生きることになる」。
「わたしが生きている」とは、「わたしは十字架の
死を超えてさらに生きている」、すなわち「復活の
命を生きている」という意味です。ここでの「生き
ている」には、「生き続ける」という意味がありま
す。イエスが復活の命を生き続けておられ、だから
こそ私たちもイエスから送られる真(まこと)の命
を受けて生き続けることができるのです。
生きるとは、神の霊を与えられた存在として、祝
福され、赦されて生きることを意味しています。今
日(こんにち)、多くの人々にとって、この世を生き、
自分の人生を生きることは、祝福よりも重荷と苦し
みを感じるものになっているかもしれません。生き
る意味や目標が見出せず、ただ自分の肉体が生きな
がらえているだけのような空虚な気持ちになること
もあるでしょう。
しかし、そんな迷える存在である私たち人間に、
イエス・キリストは「わたしが生きているので、あ
なたがたも生きる」と言ってくださっているのです。
本日の福音書の最後に記されているイエスの「愛
する」という言葉を、「大切にする」に言い換えて読
んでみます。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人
は、わたしを大切にする者である。わたしを大切に
する人は、わたしの父に大切にされる。わたしもそ
の人を大切にして、その人にわたし自身を現す」。
イエスを大切にするとは、他者を大切にすることで
もあります。敵・味方にかかわらず、自分の好き嫌い
の感情に流されず、他者の内にイエス・キリストを見
て、他者を大切にする人は、自分自身も父なる神に大
切にされるのです。
絶対に許すことができないと感じる相手の中にも、
イエス・キリストの姿を見ることで、私たちは、神の
赦しに近づくことができるのだと思います。
さて、今日は「愛する」を「大切にする」という言
葉に置き換えてお話しさせていただきました。そして
最後は「愛」という言葉に戻りたいと思います。
私たちは、愛の祈りをしましょう。イエス・キリス
トが私たちに与えてくださった愛をもって、この世に
おいて、愛の祈りをしましょう。
傷ついたこの世界の回復を、心から祈りましょう。
私たちが、いま試練の中で苦しんでいる人々と、共
に苦しみ、共に希望をもち、共に喜ぶことができます
ように。
どんな時も、イエス・キリストが私たちと共にいて、
私たちと共に悲しみ、私たちと共に嘆き、私たちと共
に喜んでくださいますように。
主イエス・キリストの御名を通して祈ります。
アーメン
2026年4月26日日曜日
5月3日(日)復活節第5主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
現代ではあまり使われませんが、微行(びこう)
という言葉があります。これは、身分の高い人が、
自分の本当の姿や身分を隠して出歩くことを意味
します。それは、地上での歩みにおいて、徹底して
貧しい僕(しもべ)の姿をされたイエス・キリスト
にも当てはまる言葉だと思います。また、私たちの
社会において、魂において崇高で気高い人々が、不
遇な状況で目立たず、社会の底辺に埋もれた微行者
(びこうしゃ)であることが多くあるでしょう。
地上でのイエスの道のりは、強くて華々しい救世
主を望む人々にとって、期待外れのものでした。そ
れは、イエスの弟子たちからでさえも、見損なわれ、
誤解されるような、僕(しもべ)としての歩みでした。
イエスは、十字架にかけられた時、人々から罵
(ののし)りを投げかけられました。「十字架から降
りて自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分
は救えない」(マルコ15:29-31)。
イエス・キリストは、人を救うためには奇跡を行っ
ても、自らを救うためにはこれを行いませんでした。
キリスト者の内村鑑三は、人を助けるための不思議な
力 —— 異能を備えたイエス・キリストは、自己を救う
ためには全然無能であったと述べています。
弱い者を救うためには風をも叱咤してこれを止める
ことができたイエス・キリストは、自らを脅かす敵の
前では、これに手向かおうとして指一本さえ挙げるこ
とができなかったのです。
キリストの奇跡よりもさらに不思議なものは、キリ
ストの無私の心であり、この心があってこそ、初めて
キリストの奇跡の業が行われたのであると内村鑑三は
言いました。
本日の福音書は、イエスが十字架の死の直前に弟子
たちに語った教えの一部です。これは弟子たちとの別
れの説教であるゆえ、「告別説教」とも呼ばれています。
まずイエスは弟子たちに「心を騒がせるな」と言い
ます。「騒がせる」の原語であるギリシア語「タラッソ
ー」は、水が掻き立てられる動きを意味します。
「あなたたちの心は、かき乱されてはならない」とイ
エスが弟子たちに伝えたこのことは、現在の不安定な
社会情勢の中を生きる私たちの心にも、力をもって働
きかけてくる言葉だと思います。
イエスはこう続けます。「神を信じなさい。そして、
わたしをも信じなさい」。イエスは、十字架の死が目前
に迫る中で、ご自分との別離によって弟子たちに生じる
であろう不安と動揺を、神とイエスとに信頼することで
克服するように弟子たちに伝えます。到来する苦難の中
で、神への信頼を強めることを、イエスは何よりも求め
ます。
現代においても、あまりにも悲惨で絶望的な出来事が
世の中には数多くあり、神がいるならどうしてこのよう
なことが起きるのか、神の救いはどこにあるのかという
気持ちになることがあるでしょう。しかし、そんな私た
ちに、イエスは「あなたがたのために場所を用意してお
く」と約束してくださっているのです。恐れと不安と迷
いの中で翻弄される私たち人間を、天の国に居場所を持
ち、神の平安の家に迎え入れられる存在としてくださっ
たのが、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。
パウロは、神が人間の罪を取り除くために、御子イエ
スを罪深い人間の肉体と同じ姿でこの世に送り、罪を罪
として処断したのだと言いました(ローマ8:3)。イエス
は、人間の姿をもってこの世に降り、私たちの罪の赦し
と、救いと、平安のために、私たちと同じ肉体をもって
十字架上で苦しまれ、罪の贖(あがな)いをしてくださ
いました。
フィリピの信徒への手紙で、イエス・キリストの生涯
を要約した次の言葉があります。「かえって自分を無にし
て、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人
間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十
字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:7-8)。
イエスを本当に見ることは、弱々しい僕のイエスの姿
の中に、真の救い主である神の子キリストの姿を認める
ことでした。しかし、それはイエスの弟子たちにとって
も容易ではありませんでした。僕イエスの姿は、弟子た
ちにとってもつまずきでした。だからイエスは、こう言
われるのです。「わたしにつまずかない人は幸いである」
(マタイ11:6、ルカ7:23)。
人が求め期待するのは、もっと豊かに、もっと華々し
く、もっと高いところへという、上昇していく道です。
しかしイエスの道は逆であり、天から地へと下る道、神
が人となり、富める者が貧しくなり、高きにいます方が
この世の最低地点にまで下られる道です。
しかしそれだけではなく、イエスの道は同時に、人を
神へと結びつけ、仲介する道です。イエス・キリストは
天と地と、神と人との間に架け橋をつなぐ方なのです。
イエスは、この地上において、神と人との仲介者として、
天と地の仲介者としての道を歩まれました。
仲介者とは、本人自体はそれほど目立たない存在だと
思います。しかし、優れた仲介者の存在によって、両者
の関係は正しく築かれ、大いなる調和と平和が生み出さ
れていくのです。そして、イエスの道を歩む者たちもま
た、仲介者としての役割を委ねられていることを、私た
ちは心に覚えておきましょう。
さて、早いもので、もう5月に入りました。
あなたには、あなたに害を与えてくる存在として、と
てつもなく脅威と憎しみを感じていた相手のことが、突
如、ちっぽけで憐れな存在に思える時が来るかもしれま
せん。
「憐れに思う」ことは、赦しへの始まりです。敵を
「憐れに思う」ことは、凝り固まった憎しみや、決して
許すことのできない気持ちを解きほぐしてくれるものな
のだと思います。
イエス・キリストは、ご自分を十字架につけた者たち
に対して、憎しみではなく、限りない憐れみを感じてお
られました。
私たちが、イエス・キリストから与えられた赦しと愛
と憐れみによって、憎しみを赦しに、失望を希望へと転
換させることができますように。
私たちの内が、イエス・キリストの愛に満たされ、喜
びをもって日々を生きていくことができますように。
主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。
現代では
イエスは
2026年4月19日日曜日
4月26日(日)復活節第4主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
今、世界は大きく揺れています。人間は、平和と
愛を望まず、平和と愛を選択しない生き物であるの
かと思わされる出来事が、この世には多くあります。
しかし一方で、愛をもって世界の平和と幸せを願っ
てきた歴史上の人々、そして今も、世界の平和と幸
せを願い続けている人々がいるのです。私たちはこ
の地上が、愛と光によって癒されることを心から求
め願い、祈りましょう。
聖書には、羊と羊飼いの話がよく出てきます。羊
飼いの生活というと、ポカポカとした陽だまりの中、
青々とした草ばらで羊と一緒に寛(くつろ)いでい
るような、のどかな光景が思い浮かぶかもしれませ
ん。しかし実際の羊飼いの仕事は、自分の命と体を
削って、狼や強盗など様々な敵から羊を守らねばな
らない過酷なものでした。
サムエル記上17章では、羊飼いであったダビデが
羊を飼っていた時に、獅子や熊と戦って、その口の
中から羊を助け出したと語られています。羊飼いは、
羊を脅かす敵と戦って、場合によっては自分の命を
捨てることもありました。
本日の福音書の1節から5節までのイエスの言葉は、
当時のパレスチナにおける実際の羊飼いたちの生活
と働きをありのまま描いたものです。
「羊の囲い」には門がひとつだけあります。その正
規の門から入って、羊を外に連れ出すのが羊飼いで
す。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」
とは、羊に襲いかかる「盗人であり、強盗」です。
イエスは、ご自分が羊飼いであり、かつ羊の門で
あると語ります。そして私たち人間は、羊飼いであ
る主イエス・キリストに養われ、導かれる羊なので
す。
イエスはこう言います。「羊飼いは自分の羊の名を
呼んで連れ出す」。羊飼いは、羊に一匹一匹名前をつ
けて、羊たちを名前で呼びます。これと同じように、
主イエス・キリストは、私たち一人一人の名前を呼
んでくださるお方なのです。
「十把一絡げ」(じっぱひとからげ)という言葉が
あります。これは、稲を10把(たば)で一つと数え
ることから生まれた言葉です。これは、個々の特徴
や価値を無視して無差別にひとくくりにすることの
たとえです。
一人一人の名前が呼ばれることは、一人一人の人
間の存在が尊重されることです。ナチスの強制収容
所において、囚人として捕らえられていた人々が、
名前を剥奪され、番号で呼ばれていたことが思い起
こされます。
徴兵され、壮絶な戦争体験をしたキリスト者の石
原吉郎(いしはらよしろう)さんは、次の言葉を残
しています。「人は死において、ひとりひとりその名
を呼ばれなければならないものなのだ」。
石原さんのこの言葉は、戦争や大量殺戮において、
数に埋れて、個々人が抹消されてしまうことの理不
尽さを私たちに訴えます。一人一人が尊重され、一
人一人の名前が呼ばれることは、平和の象徴でもあ
るのです。
羊は、迷いやすく弱い存在です。本日の福音書で
は、私たち人間が羊にたとえられています。「弱さ」
はマイナスなことだというイメージがあるかもしれ
ません。強くあらねばならないという価値観が、こ
の社会にはあるかもしれません。しかし、コリント
の信徒への手紙 二 で、パウロは神から「力は弱さの
中でこそ十分に発揮される」と言われたと証言します。
パウロは「弱さ」を抱えていました。それはパウロ
の持病だったと言われています。パウロはそのことを、
「わたしの身にひとつのとげが与えられました」と述
べています(IIコリ12:7)。パウロは自分にとってのと
げであるその病を取り除いて欲しいと、神に祈り求め
ました(IIコリ12:8)。
しかしパウロの祈りの中で神が示したのは、「私の
恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分
に発揮される」という答えだったのです(IIコリ12:9)。
弱さの中でこそ、キリストの力は発揮されるというの
です。それゆえに、パウロは次のように宣言します。
「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
……なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。
「弱いときにこそ強い」。これは、多くのキリスト者
が身をもって証してきた真理であると思います。
さて、早いもので4月も終わりに近づき、もうすぐゴ
ールデンウィークです。
イエス・キリストは、人の罪を赦(ゆる)すために、
この世に降(くだ)られました。イエス・キリストの
生涯は、私たちの罪を贖(あがな)う、贖罪(しょく
ざい)の生涯でした。
私たち人間は、今、主イエス・キリストの御前で、
罪の赦しを乞いましょう。
イエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持ってい
ることを知らせよう」と言いました(ルカ5:24)。
しかし私たちは、今、世界で起きている出来事など
を思う時、主イエス・キリストのこの言葉が、スッと
心に入ってこないことがあるのではないかと思います。
この世に横行する、あまりにも残酷で横暴な人間の
罪が、本当に赦されるべきものなのだろうかという思
いのもと、「罪が赦される」という言葉が、心にピンと
こない時があるのではないでしょうか。
また私たちは、心が塞ぎ込み抑圧されている時、自
分の罪が赦されることもないだろうという意識になる
かもしれません。
しかしそれでも私たちは、神の御前で罪を懺悔(ざ
んげ)し、罪の赦しを乞うことが必要なのだと思いま
す。
たとえ、赦されないかもしれないと思っても、それ
でもなお、罪の赦しを神に求め続けることが大切なの
です。
私たちは、日々、祈りつつ、試みの時も、喜びの時
も、主イエス・キリストと共に歩んで行きましょう。
お祈りをいたします。
天の父なる神様。いつも私たちが、愛と希望をもっ
て生きていくことができるように導いてください。常
に私たちが、あなたの御子イエスの声に立ち帰ること
ができますように。イエス・キリストによって祈りま
す。
アーメン
2026年4月12日日曜日
2026年4月5日日曜日
4月12日(日)復活節第2主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
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教会は、誰でも自由に来ることができます。 |
イースターとは・・・?
全能・永遠の神様。
あなたは信じる者の力です。
疑う私たちを、見ないで信じる信仰によって、キリ
ストの豊かな祝福に与からせてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン













