諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
恵み深い天の父なる神様。
御子イエス・キリストによって、聖なる公同の教会
を真理と平和で満たしてください。
御子により、腐敗をきよめ、過ちを改め、正しいと
ころを強め、必要を満たし、分かたれたふたつをひ
とつに戻してください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
秋久 潤 牧師
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
恵み深い天の父なる神様。
御子イエス・キリストによって、聖なる公同の教会
を真理と平和で満たしてください。
御子により、腐敗をきよめ、過ちを改め、正しいと
ころを強め、必要を満たし、分かたれたふたつをひ
とつに戻してください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
秋久 潤 牧師
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
王である神様。
私たちの心の内に聖座(みざ)を据えてくださ
い。
あなたにかたどられた者として生き、あなたの
栄光のために行動し、贖われた者として、あな
たのものをあなたにお返しすることができます
ように。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
秋久 潤 牧師
週報には、次回の礼拝の聖書箇所も記載しておきま
すので、お家であらかじめ読んできていただけると、
より深く聖書と親しめるかと思います。聖書を開くご
とに、皆様の心と魂に、生きた水が川となって流れ込
むように神の命と聖霊が注がれますように。皆様が神
の愛と喜びに満たされますことをお祈りしています。
本日の福音書の要となる言葉は、イエスが言われた
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
です。これはイエスが、ご自分を罠にかけようとする
者たちから、皇帝に税金を納めることの是非について
問われた時の答えです。
ファリサイ派の指導者たちは、イエスを激しく憎ん
でいました。自分たちの権威を脅かすイエスをこれ以
上 野放しにできない、殺すしかないという気持ちでい
っぱいでした。しかし、イエスに直接手を下して殺す
ことはしません。自分たちがリスクを冒すことなくイ
エスを葬り去るにはどうしたら良いか、彼らは策略を
めぐらせます。そこで、言葉尻をとらえてイエスを罠
にかける作戦を立てました。
彼らはこの計画を遂行するために、ヘロデ派の人々
と一緒にイエスのところへ手下を遣わします。イエス
を陥れるためにファリサイ派とヘロデ派が協力するこ
とは、本来あり得ないことでした。ファリサイ派とヘ
ロデ派は、全く違う思想のもと、互いに対立している
グループだったからです。
ファリサイ派は、ユダヤ教の律法と言い伝えを尊守
する禁欲的な人々であり、ローマ帝国が自分たちユダ
ヤ人を支配していることに反発心を持っていました。
他方、ヘロデ派は、ガリラヤ領主のヘロデ・アン
ティパスという人物を支持する人々です。ヘロデ派
は、ローマ帝国の支配を受け入れたうえで地上の繁栄
を楽しもうとしました。
ファリサイ派とヘロデ派という、政治的立場が180
度異なり、本来手を結ぶことのないはずの両者が、イ
エスを罠にかけるために協力しあったのです。
遣わされたファリサイ派とヘロデ派の者たちは、イ
エスのもとに来て、作戦の一環としてまずイエスを次
のように褒め称えました。「先生、わたしたちは、あ
なたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だ
れをもはばからない方であることを知っています。人
々を分け隔てなさらないからです」。
彼らがイエスを褒め称えながら言った「人々を分け
隔てしない」という言葉は、直訳では「人々の顔を見
ない」ということです。これは、あなたは人の顔色を
見て言うことを変えるようなお方ではないから、私た
ちの質問にもそうしてくださいという、イエスを褒め
そやしつつ、イエスの失言を誘おうとする言葉です。
ところが、彼らが心にもなく言ったイエスを称える
この言葉は、彼らが意図しないところで、イエスの真
実の姿を言い表しています。イエスが見るのは人々の
顔色ではなく、「神の御顔」と「神の道」なのです。
さて、彼らはこの前置きを終え、イエスにこう問い
ました。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適ってい
るでしょうか。適っていないでしょうか」。
この質問は、二択のようでいて、どう答えても、イ
エスを苦しい立場に陥れる罠が仕掛けられていまし
た。イエスが「ローマ皇帝に税金を納めるべき」と答
えれば、ローマ帝国の支配を支持することになり、多
くのユダヤ人を敵に回すことになります。
逆に、「皇帝に税を納めてはならない」と言えば、
時の支配者であるローマ帝国への反逆だと訴えられま
す。
彼らの悪意に気づいたイエスは、税金として納める
貨幣を見せるようにと言いました。そこで彼らが持っ
て来たデナリオン銀貨には、当時の皇帝のティベリウ
ス(在位 紀元後14 - 37年)を神格化した肖像と銘が刻
まれていました。それは「ティベリウス・カエサル・
アウグストゥス、神君アウグストゥスの子
(TI (BERIUS) / CAESAR / DIVI / AVG (VSTYS) / F (ILIUS)
/ AVGUSTYS)」
という銘です。ローマ帝国は、皇帝が新しくたてられ
るごとにコインに皇帝の肖像と銘をいれてその支配を
表していました。皇帝の権力の大きさを示すために、
税金はそのお金でなければ納められなかったのです。
皇帝の肖像と銘が刻んであるデナリオン銀貨につい
て、今度はイエスがこう問い返しました。「これは、
誰の肖像と銘か」。彼らは「皇帝のものです」と答え
ます。
イエスはこう言います。「では、皇帝のものは皇帝
に、神のものは神に返しなさい」。これがイエスの答
えでした。皇帝の肖像と銘が刻まれているものは皇
帝のものなのだから皇帝に返しなさい。そして、神の
肖像と銘が刻まれているものは神のものだから神に返
しなさい、ということです。
皇帝に税金を納めることが律法に適っているかどう
かなど、そんなことは特にイエスの関心事ではなかっ
たのだろうと思います。
イエスのこの答えは、そんなことよりも、あなた自
身のことを見つめ、あなたと神との関係を見つめなさ
いと言っているようにも聞こえます。
デナリオン銀貨には、皇帝の像(イメージ)が刻ま
れていました。では、神の像が刻まれているものとは
何でしょうか。天地創造の出来事が記されている創世
記には、こう記されています。「神は御自分にかたどっ
て人を創造された。神にかたどって創造された。男と
女に創造された」(創世記1:27)。
神の像が刻まれているものとは、神にかたどって創
造された私たち人間のことです。神の像が刻まれてい
る私たちは、神のものです。ですから私たちは、自分
自身を神にお返ししながら生きていくことが求められ
ているのです。
生きていくことは本当に大変で、辛く苦しいことば
かりだと思っている人は多いでしょう。しかし、人生
の中で、なぜこんなことが起きてしまうのかという辛
く苦しい目に遭っている時も、選択を誤って悲惨なこ
とになってしまったと後悔している時も、いつでも私
たちは神の御手の中にいて、私たちは神のものなので
す。
私たちの心と体は自分自身のものではなく、神のも
のだと知る時、私たちは神にお返しするにふさわしい
心を持って、神のものである自分自身を大切にしよう
とするでしょう。
人間は、自分に近しい存在、たとえば家族やパート
ナーのことなどを、自分のもののように思ってしまう
ところがあると思います。
しかし身内や隣人もまた、自分のものではなく神の
ものだと知る時、私たちの目の前に見えてくる世界
が、新しく開かれていくでしょう。
身近な人のみならず、お店の店員さんや通行人な
ど、目に映るすべての人が神の像が刻まれた尊い存在
であることを覚えながら、私たちは心の内を希望と喜
びの光で満たし、イエス・キリストと共に歩んでいき
ましょう。
お祈りをいたします。
神様。日々の糧を私たちに与えてくださりありがと
うございます。あなたの御心に沿った生き方を私たち
がすることができますように力をお与えください。
私たちが喜びをもってあなたにお返しできる心を、私
たちの内に宿すことができますように。主イエス・キ
リストの御名によって祈ります。アーメン
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
新約聖書のローマの信徒への手紙13章11節以下に
こう記されています。「今や、わたしたちが信仰に入
ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は
更け、日は近づいた。……主イエス・キリストを身に
まといなさい」。
本日の福音書は、イエスが天の国についてのたとえ
を、次のように語る場面から始まります。「天の国は、
ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」。
イエスがこのたとえを語ったのは、イエスが十字架
につけられる三日前のことでした。このたとえを通し
て、イエスは人々に、悔い改めと、神による、天の国
への愛の招きを真剣に受け止めることが、いかなるこ
とよりも大切であると訴えています。
このたとえの中の、王子のために婚宴を催した王と
は神を表し、婚宴とは天の国の喜びを表しています。
原語のギリシア語では、この婚宴という言葉が、複
数形で語られています。昔のユダヤでは、婚宴は一日
では終わらず、一週間続いていたからです。さぞかし
豪華で華々しく、そのための準備はたいへん大掛かり
なものだったでしょう。
しかし、王子のために最高の披露宴の準備をしてい
る王の招きに対して、招待客たちは生活上の都合やさ
まざまな理由を優先してそれを無視します。それどこ
ろか、「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまっ
た」人々までいたのです。
怒った王は、家来を殺したこの者たちを滅ぼし、そ
の町を焼き払ってしまいました。ここに表されている
神の裁きを受けて滅ぼされてしまう人間の姿からは、
創世記のノアの方舟を思い起こさせられます。
その次に王は、「町の大通りに出て、見かけた者は
誰でも婚宴に連れて来なさい」と家来たちに命じま
す。もうこの際、誰でも良いから連れてくるようにと
いうことです。ここには、急ぎ足での神の招きが表さ
れています。救いは、一刻も早く成されなければなら
ない場合があるのです。
王の命令によって、町の大通りから、人を選ぶこと
なく、善人でも悪人でも誰でも連れてくるわけですか
ら、すぐに婚宴は客でいっぱいになりました。
ところが、王が客を見ようと入ってくると、礼服を
着ていない者が一人いました。王は、「友よ、どうし
て礼服を着ないでここに入って来たのか」と問いま
す。
私たちの感覚からすると、皆、町の大通りからいき
なり連れて来られたのですから、婚礼の礼服など着て
いないのが当然ではないかと思えるかもしれません。
ですが当時は、お金持ちが人々を招待する時には、招
待客の礼服まで用意したそうです。ですからこれは
「主人が用意していた礼服をなぜ着ないのか」が問わ
れたということです。
神が私たちに用意してくださった礼服とは、イエス
・キリストのことです。先ほどお読みしたローマ書の
福音を再びお読みします。「今や、わたしたちが信仰
に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
夜は更け、日は近づいた。……主イエス・キリストを
身にまといなさい」(13:11-14)。
「礼服を着る」とは、「イエス・キリストを着る」と
いうことです。自分で頑張って立派な服を準備しなく
ても、神は私たちにイエス・キリストという礼服を用
意してくださっているのです。
私たち人間は、人生の中で、誰しも人から酷い目に
遭わされた経験があると思います。人から受ける酷い
目の遭わされ方の一つに、虐待というものがありま
す。
虐待を受けたことによる心の傷は、そののちもずっ
と、それを受けた側の内側に影を落とし、後遺症を残
してしまうほど、虐待には破壊的な作用があります。
あの時に受けた虐待によって自分は人生を踏み外し
た、と感じて苦しむ人がたくさんいると思います。
なぜ、自分はあのような虐待を受けねばならなかっ
たのか、自分に何か落ち度があったのだろうかと自己
否定に陥ってしまうこともあるでしょう。しかしそれ
は、自分が悪かった、自分が愚かだったということで
は全くありません。
なぜなら、あなたを虐待したその人が、その時、礼
服を着るようにキリストを着ていれば、決してあなた
にそのようなことはしなかったからです。
人生の中で、人があなたに酷い仕打ちをした時のこ
とを思い返してみて、その時のその人を、キリストを
着ていた姿に置き換えて心に浮かべてみてください。
キリストを着たその人であれば、あなたに対して、
あなたの心に深い爪痕を残すような、酷いこと、残酷
なこと、無礼なことは決してしなかったのです。
私たち人間は誰もが、不完全で弱い存在です。
一般的には、弱い存在というと、立場が弱い いじめ
られる側のことが思い浮かぶかもしれません。しか
し、力を振るって、人をいじめたり虐待することも、
その人の弱さからきているのです。
イザヤ書にこうあります。「主は救いの衣をわたしに
着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる」(61:10)。
過去がどうであれ、いつでも私たちには、悔い改
め、キリストをまとって、新しい人生を歩むことがゆ
るされています。
王は、礼服を着ていなかった者に対して、こう呼び
かけました。「友よ、どうして礼服を着ないでここに
入って来たのか」。
この「友よ」という呼びかけには、罪深い私たち人
間への神の深い憐れみと慈しみが込められています。
神からこのように呼びかけられた時、私たちは黙ら
ずに、返答することが求められます。
私たちは、どのような苦しみや、後悔や、葛藤の中
にいる時も、やけを起こさずに、神からの呼びかけに
応答しながら、主イエス・キリストと共に日々を歩ん
でいきましょう。
お祈りをいたします。
天地の造り主である神様。御名を賛美いたします。
日々の生活の中で、あなたの呼びかけに応えながら、
私たちが希望と喜びを持って歩んでいけますようにお
導きください。
あなたの愛が、私たちのうちに満ち溢れ、私たち
が、あなたの愛とひとつになれますように。主イエス
・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
エルサルバドルの司祭であり、カトリックの聖人で
あるオスカル・ロメロ大司教(1917-1980年)という
人がいました。ロメロ大司教は、軍事政権下のエルサ
ルバドルで、弱い立場にある人々への暴力や、司祭や
カテキスタ(洗礼志願者などを教育する信徒奉仕者)
の殺害、貧しい人々の搾取、社会の不正を世界に訴え
ました。そして、ミサの司式中に暗殺されてしまいま
す。
ロメロ大司教の殉教を想起させる文章として、いろ
いろな人々から引用される、ケネス・アンテナー司教
という人物が書いた次の言葉があります。
「最終的な結果を私たちが見ることはないかもしれ
ない、けれどもそれは/建設主と労働者の違い。私
たちは労働者であって、建設主ではない、救いに仕え
る者であって、救い主ではない。私たちは、自分のも
のではない未来の、預言者なのだ。」
本日の福音書に記されている、イエスが語ったたと
え話に出てくる農夫たちは、「自分たちは、神が造っ
たこの世界の労働者であって、建設主ではない」とい
うことが分かっていない、私たち人間の姿を表してい
ます。
イエスが祭司長やファリサイ派の人々に向けて語っ
たこのたとえ話は、ある家の主人がぶどう園を作り、
それを農夫たちに託して旅に出る場面から始まりま
す。ぶどうは、木を植えてから収穫までに何年もかか
るので、主人は収穫を期待して準備をし、その時を待
ち望んでいました。
ここでの主人は神を表し、農夫は私たち人間を表し
ています。主人が「旅に出た」とありますが、これは
主なる神がしばらくの間、沈黙していたことを指して
いると思います。
そしてぶどうの収穫の時が近づいてきた時、主人は
その収穫を受け取るために、自分の僕たちを農夫たち
のところへ送ります。しかし、主人からぶどう園を借
りていた農夫たちは、主人が送ってきた僕たちを捕ま
え、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打
ち殺してしまいます。
農夫たちは、ぶどう園を自分たちに任せてくれた主
人を裏切り、不誠実さと暴力をもって反逆します。主
人が前より多くの僕たちを送っても、農夫たちは、僕
らを同じ目に合わせます。しかし主人は、農夫たちの
背きと悪に忍耐し、自分の息子なら敬ってくれるだろ
うと、最後に息子を彼らのもとに送ります。ここには
主なる神の、忍耐強い赦しの愛が表されています。
しかし農夫たちは、最後に送られた主人の息子すら
殺してしまいます。跡取り息子を殺すことで、その相
続財産であるぶどう園を、占有している自分たちのも
のにしようとしたのです。主人の息子を殺すことで、
農夫たちの背きは極みに達します。
ここでの「ぶどう園」とは、「神がお造りになった
この世界」を表しています。このたとえ話には、私た
ち人間の罪があらわにされていると言えるでしょう。
神は天地の造り主です。私たちはその神が造られた
世界を、ぶどう園の農夫たちのように委託されている
に過ぎません。ある一定の期間だけ、主人のために働
くのです。
しかし農夫たちは、主人から管理を委ねられたもの
を、自分の力で得たもののように思い込み、自分のも
のだと勘違いしてしまったのです。
本当の主人を尊重せず、あたかも自分が主(ぬし)
であるかのようにふるまうこと、自分が主(ぬし)で
あると思い込んでしまうこと、神のものを神に返さな
いこと、そこに人間の根本的な罪と過ちが潜んでいま
す。
さらにイエスは、祭司長やファリサイ派の人々に、
詩編118編22節の言葉を引用して次のように語りま
す。
「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石とな
った。これは、主がなさったことで、/わたしたち
の目には不思議に見える」。
これは、建築の専門家から不要だと捨てられたも
のが、実は建築に最も大事な基礎の石となったこと
を意味しています。不思議にも、その捨てられた石
から救いの道が開かれたのです。ここに示されてい
るのは、捨てられた石が用いられ、そこから救いが
始まるということです。
そしてこれは、「祭司長やファリサイ派の人々」に
殺されるイエス・キリストが、神の救いの業の要石
(かなめいし)になることを暗示しています。
しかし当時の人々は、イエスが、神の御子である
からこそ全ての地上的な栄誉を捨てるという逆説を
理解できませんでした。
群衆にとって、無力な「救い主」など有り得ませ
んでした。しかし主イエスは、人々の想像を超えた
形で、ご自身の力を現しておられました。イエスは
人々から罵られ、嘲られる道をご自分から選ばれま
した。それこそが主イエス・キリストの強さです。
コリントの信徒への手紙 二12章10節に記されている
「わたしは弱いときにこそ強いからです」という言
葉が思い起こされます。
人生には、たくさんの苦しみがあります。生きる
ことは本当に大変だと感じている人は多いと思いま
す。そのような人生を、人は何のために生きるので
しょうか。
その答えを使徒パウロは、「わたしたちの中には、
だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自
分のために死ぬ人もいません」(ローマ14:7) と記し
ています。私たちは、神のため、そして他の誰かの
ために生き、神のために死ぬのです。
た。最近、赤や紫の花が美しく咲いています。
私たちは、苦しみの中にいる時も、喜びの中に
いる時も、神と人と共に生きていることを覚えな
がら、この地上での日々を希望をもって歩んでい
きましょう。
お祈りをいたします。
神様、私たちに今日という日をお与えくださり
ありがとうございます。日々の中で焦ったり慌て
たりしてしまいがちな私たちが、あなたに信頼し
て安心して歩んでいくことができますように。
あなたの愛の導きのもとに、私たちが生かされて
いることに感謝いたします。主イエス・キリスト
の御名を通して祈ります。
アーメン
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
現代の社会においても、学歴・資格・地位といった
肩書きは、この世を渡っていく上で大きな力を持ちま
す。ですが、イエスにはそういったものは何もありま
せんでした。イエスの権威は、家柄や、人間社会での
手続きを経て得たものではなく、神から直接来るもの
でした。それゆえにイエスは、人間の力を超えて奇跡
を起こし、人を癒し、救い、赦しを与える権威を神か
ら授かっていたのです。
本日の福音書は、神殿の境内に入って教えておられ
たイエスに、祭司長や民の長老たちが近寄って来て次
のように言う場面から始まります。「何の権威でこのよ
うなことをしているのか。だれがその権威を与えたの
か」。
これはイエスに対して、公的な資格や法的な裏付け
を問う、追求の言葉です。彼らは、宗教家としての地
位と肩書きを持つ自分たちこそが、神殿における一切
の権限を持っていると思っていました。イエスのこと
が目障りで仕方がない彼らは、イエスを問い詰め、排
斥しようとします。
「だれがその権威を与えたのか」という彼らの質問
に、イエスは直接答えずに、逆に次の質問を返しまし
た。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天か
らのものか、それとも、人からのものか」。
ヨハネ、すなわち洗礼者ヨハネは、救い主イエス・
キリストの先駆者として出現した人物でした。ヨハネ
が人々に授けた悔い改めの洗礼は、神から与えられた
権威によるものなのか、あるいは単なる人間的な権威
によるものか、そのどちらだと思うかと、イエスは彼
らに問うたのです。
イエスのこの質問は彼らを戸惑わせました。彼らの
正直な気持ちは、ヨハネの洗礼は神殿の権威を否定
し、民衆を惑わすものであり、決して天からのもので
はないということだったでしょう。
しかし、ヨハネは神からの者ではないと、彼らは口
に出して言うことはしません。ヨハネのことを、神
遣わされた預言者だと信じている群衆を怖れたからで
す。
ですから彼らは、イエスの質問に対して、本心を隠
して「分からない」と曖昧な答え方をしました。地位
ある宗教指導者たちの、人の目を気にする臆病さと自
己保身が、イエスの質問によって浮き彫りにされたの
です。
イエスは、彼らに「ところで、あなたたちはどう思
うか」とさらに問いかけ、一つのたとえ話をします。
それは、ある父親と二人の息子の話です。
父親は兄息子のところへ行って、「今日、ぶどう園
へ行って働きなさい」と言います。兄は「いやです」
と答えましたが、後で考え直して出かけました。さら
に、父親は弟息子のところへも行って、同じことを言
いました。弟は、「お父さん、承知しました」と答え
ましたが、結局行きませんでした。
イエスは、この話を祭司長や民の長老たちに語った
後、彼らにこう質問します。「この二人のうち、どち
らが父親の望みどおりにしたか」。彼らは「兄の方で
す」と答えます。これは誰もがそう答えるであろう、
分かりやすい問いだと思います。
このたとえ話に出てくる二人の息子をもつ父親は、
私たち人間を子とする神を表し、ぶどう園は「神の
国」を表しています。
兄は、初めは神からの招きを拒否しても、考え直
して神に従う者のことであり、弟は、神からの招き
従順なふりをする、見せかけだけの者を表している
と言えるでしょう。
この兄と弟はいったい誰のことを指しているので
しょうか。それは、イエスの次の言葉の中に見出さ
れます。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの
方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。
徴税人や娼婦たちとは、当時、神から離れた罪人
の代表のように人々から見なされていた存在でした。
ところが、そのような人々の方が、地位と名誉ある
宗教指導者たちよりも先に神の国に入るのだとイエ
スは言います。それは、ヨハネが示した義の道を、
徴税人や娼婦たちは信じたからです。
ヨハネが示した「義の道」とは「悔い改めよ。天
の国は近づいた」という招きであり、一人ひとりが、
自分という人間の罪深さを認め、神に立ち返る道で
す(マタイ3章)。徴税人や娼婦たちはこれを信じて、
自分の罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けました。
このように、初めや途中経過はどうであれ、後で
考え直して信じる者は神の国に入ることができると、
イエスは私たちに約束してくださっています。
コヘレトの言葉に「死ぬ日は生まれる日にまさる」
と記されています(7:1)。人生の途上でどんなにし
たり罪を犯したりしても、最後に神に立ち返れば救
われるという大いなる恵みと希望が、私たち人間に
は与えられているのです。
祭司長や民の長老たちが、人の目を気にし、群衆
を恐れたように、どうしても私たち人間は、人目を
気にし、人からの評価に縛られて生きてしまうとこ
ろがあるでしょう。
しかしそんな時は、意識的に自分の目線を高く上
げ、神の方向を見てください。
私たちは、人の目を恐れ縛られた自分の心を、神
の眼差しを感じ取り、神を喜ばせたいと願う心に転
換させることで、より本質的に、より心豊かに生き
ることができるのだと思います。
私たちは誰もがいつの日かこの地上での生を終え
ます。
私たち人間は、この地上で生きている間は、人の
目や、人のことばかりが気になって、私たちを見つ
めている神の眼差しがあることを忘れてしまいがち
かもしれません。
ルターは、死によって地上のあらゆる人々に別れを
告げた後は、ただ神のみを目当てとしなければならな
いと語りました。
そして私たちは、この地上で生きている間も、自分
がただ神のみと繋がっている時をもつことが必要なの
だと思います。
私たちは神の愛のうちに、希望と喜びをもって、主
イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、あなたの喜びを、私たちに与えてくださり あ
りがとうございます。私たちが、あなたの愛によって
心が強められ、立ち上がることができますように力を
お与えください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
本日の礼拝は、午前10時30分から始まります