諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
今、世界は大きく揺れています。人間は、平和と
愛を望まず、平和と愛を選択しない生き物であるの
かと思わされる出来事が、この世には多くあります。
しかし一方で、愛をもって世界の平和と幸せを願っ
てきた歴史上の人々、そして今も、世界の平和と幸
せを願い続けている人々がいるのです。私たちはこ
の地上が、愛と光によって癒されることを心から求
め願い、祈りましょう。
聖書には、羊と羊飼いの話がよく出てきます。羊
飼いの生活というと、ポカポカとした陽だまりの中、
青々とした草ばらで羊と一緒に寛(くつろ)いでい
るような、のどかな光景が思い浮かぶかもしれませ
ん。しかし実際の羊飼いの仕事は、自分の命と体を
削って、狼や強盗など様々な敵から羊を守らねばな
らない過酷なものでした。
サムエル記上17章では、羊飼いであったダビデが
羊を飼っていた時に、獅子や熊と戦って、その口の
中から羊を助け出したと語られています。羊飼いは、
羊を脅かす敵と戦って、場合によっては自分の命を
捨てることもありました。
本日の福音書の1節から5節までのイエスの言葉は、
当時のパレスチナにおける実際の羊飼いたちの生活
と働きをありのまま描いたものです。
「羊の囲い」には門がひとつだけあります。その正
規の門から入って、羊を外に連れ出すのが羊飼いで
す。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」
とは、羊に襲いかかる「盗人であり、強盗」です。
イエスは、ご自分が羊飼いであり、かつ羊の門で
あると語ります。そして私たち人間は、羊飼いであ
る主イエス・キリストに養われ、導かれる羊なので
す。
イエスはこう言います。「羊飼いは自分の羊の名を
呼んで連れ出す」。羊飼いは、羊に一匹一匹名前をつ
けて、羊たちを名前で呼びます。これと同じように、
主イエス・キリストは、私たち一人一人の名前を呼
んでくださるお方なのです。
「十把一絡げ」(じっぱひとからげ)という言葉が
あります。これは、稲を10把(たば)で一つと数え
ることから生まれた言葉です。これは、個々の特徴
や価値を無視して無差別にひとくくりにすることの
たとえです。
一人一人の名前が呼ばれることは、一人一人の人
間の存在が尊重されることです。ナチスの強制収容
所において、囚人として捕らえられていた人々が、
名前を剥奪され、番号で呼ばれていたことが思い起
こされます。
徴兵され、壮絶な戦争体験をしたキリスト者の石
原吉郎(いしはらよしろう)さんは、次の言葉を残
しています。「人は死において、ひとりひとりその名
を呼ばれなければならないものなのだ」。
石原さんのこの言葉は、戦争や大量殺戮において、
数に埋れて、個々人が抹消されてしまうことの理不
尽さを私たちに訴えます。一人一人が尊重され、一
人一人の名前が呼ばれることは、平和の象徴でもあ
るのです。
羊は、迷いやすく弱い存在です。本日の福音書で
は、私たち人間が羊にたとえられています。「弱さ」
はマイナスなことだというイメージがあるかもしれ
ません。強くあらねばならないという価値観が、こ
の社会にはあるかもしれません。しかし、コリント
の信徒への手紙 二 で、パウロは神から「力は弱さの
中でこそ十分に発揮される」と言われたと証言します。
パウロは「弱さ」を抱えていました。それはパウロ
の持病だったと言われています。パウロはそのことを、
「わたしの身にひとつのとげが与えられました」と述
べています(IIコリ12:7)。パウロは自分にとってのと
げであるその病を取り除いて欲しいと、神に祈り求め
ました(IIコリ12:8)。
しかしパウロの祈りの中で神が示したのは、「私の
恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分
に発揮される」という答えだったのです(IIコリ12:9)。
弱さの中でこそ、キリストの力は発揮されるというの
です。それゆえに、パウロは次のように宣言します。
「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
……なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。
「弱いときにこそ強い」。これは、多くのキリスト者
が身をもって証してきた真理であると思います。
さて、早いもので4月も終わりに近づき、もうすぐゴ
ールデンウィークです。
イエス・キリストは、人の罪を赦(ゆる)すために、
この世に降(くだ)られました。イエス・キリストの
生涯は、私たちの罪を贖(あがな)う、贖罪(しょく
ざい)の生涯でした。
私たち人間は、今、主イエス・キリストの御前で、
罪の赦しを乞いましょう。
イエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持ってい
ることを知らせよう」と言いました(ルカ5:24)。
しかし私たちは、今、世界で起きている出来事など
を思う時、主イエス・キリストのこの言葉が、スッと
心に入ってこないことがあるのではないかと思います。
この世に横行する、あまりにも残酷で横暴な人間の
罪が、本当に赦されるべきものなのだろうかという思
いのもと、「罪が赦される」という言葉が、心にピンと
こない時があるのではないでしょうか。
また私たちは、心が塞ぎ込み抑圧されている時、自
分の罪が赦されることもないだろうという意識になる
かもしれません。
しかしそれでも私たちは、神の御前で罪を懺悔(ざ
んげ)し、罪の赦しを乞うことが必要なのだと思いま
す。
たとえ、赦されないかもしれないと思っても、それ
でもなお、罪の赦しを神に求め続けることが大切なの
です。
私たちは、日々、祈りつつ、試みの時も、喜びの時
も、主イエス・キリストと共に歩んで行きましょう。
お祈りをいたします。
天の父なる神様。いつも私たちが、愛と希望をもっ
て生きていくことができるように導いてください。常
に私たちが、あなたの御子イエスの声に立ち帰ること
ができますように。イエス・キリストによって祈りま
す。
アーメン
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
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教会は、誰でも自由に来ることができます。 |
イースターとは・・・?
全能・永遠の神様。
あなたは信じる者の力です。
疑う私たちを、見ないで信じる信仰によって、キリ
ストの豊かな祝福に与からせてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン