諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
2026年6月7日日曜日
2026年5月31日日曜日
6月7日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
本日の福音書は、イエスが徴税人マタイを、ご自分
の弟子になるように招いた場面から始まります。当時、
ユダヤの地はローマ帝国に支配されていて、ローマ帝
国に納める税金の徴収は、現地のユダヤ人に委託され
ていました。それゆえに徴税人は、ユダヤ人の同胞か
ら、ローマ帝国に魂を売り渡した卑怯者として嫌われ
ていました。ローマ帝国は異教の国ですから、そのロ
ーマ帝国のために働く徴税人は、ユダヤの神の救いか
ら除外された「罪人」と考えられていたのです。
しかし、そんな徴税人のマタイを通りがかりに見か
けたイエスは、マタイにこう呼びかけました。「わたし
に従いなさい」。
召命(しょうめい)という言葉があります。召命と
は、神の恵みによって神に呼び出されることです。人
間社会では、人を自分にとってプラスになる存在か否
かの損得勘定で見てしまうところがあります。しかし
イエスはそうではありません。その人がどれだけご自
分を必要としているかに目を留めるのです。
収税所に座っていたマタイは、すぐにイエスの招き
に従い、立ち上がりました。そして、イエスによる徴
税人マタイへの恵みの招きにつまずいたのは、周りの
ファリサイ派の人々でした。彼らは、イエスがマタイ
の家で、他の徴税人や「罪人」たちと食事をしている
のを見て、けしからんことだと思いました。
ファリサイ派の人々にとって、徴税人や罪人は、ユ
ダヤ教の教えである律法を守らず、汚れている存在で
した。そんな彼らと食事をすれば自分たちも汚れると
思っていたのです。
ファリサイ派の人々に向かって、イエスはご自分を
「医者」にたとえてこう言います。「医者を必要とする
のは、丈夫な人ではなく病人である」。そして病人は、
自分が病人であることを認めればこそ、医者のもとに
来るのです。精神科医のヴィクトール・フランクルは
「本人が自覚していない絶望こそが、実は最も深刻だ」
と言いました。私たちは、自分の闇を「自覚」した時
点で、初めて救いの入り口に立つことができるのだと
思います。
イエスは、ファリサイ派の人々に対して、旧約聖書
の言葉を引用しつつ、こう続けました。「『わたしが求
めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはど
ういう意味か、行って学びなさい」。
ここで引用されたのは、ホセア書6章6節の次の言葉
です。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではな
く/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではな
い」。
この言葉から、私の中で思い出される話があります。
昔、特集番組で観た、ある古代文明の風習についての
話です。
その古代文明には、自然の猛威や災害を恐れ、神の
怒りを鎮めるために、選ばれた女の子がいけにえとし
て捧げられる風習があったそうです。いけにえとして
選ばれた女の子は生まれてからずっと、他の子供たち
のように暮らすことができず、隔離され育てられまし
た。そして十代のある年齢に達すると、儀式が執り行
われ、少女は頭を岩で打たれて殺され、神に捧げられ
たのです。
災いを避けるためや、祈りや願をかけるために、生
きた人間をいけにえとして神に捧げる風習は、歴史的
に、世界中でありました。
「いけにえ」の根底には、他者を犠牲にしてでも自分
たちは助かりたいという人間の自己防衛本能と恐れが
あると思います。
イエスが引用したホセア書の「わたしが喜ぶのは/
愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/
焼き尽くす献げ物ではない」という言葉は、神が求め
ておられるのは、外面的な宗教行為や儀式ではなく、
真実な愛であり、神を知り、神と共に生きることであ
ると告げています。
さて、本日の福音書の後半では場面が変わり、カ
ファルナウムの共同体の指導者がイエスのそばに来て、
ひれ伏してこう言います。「わたしの娘がたったいま死
にました。でも、おいでになって手を置いてやってく
ださい。そうすれば、生き返るでしょう」。
イエスは、その必死の願いに応えるために、立ち上
がり、彼について行きました。そして、彼の死んだ娘
が眠っている家に向かう途中で、十二年間も長血を患
っている女性と出会います。ユダヤ人社会では、この
ような出血のある女性は汚れた存在とされ、彼女に触
れる人も汚れると考えられていました。
そこには先ほどの、徴税人や罪人と一緒に食事をす
ると自分たちも汚れるという差別意識に通ずるものが
あります。
女性は「この方の服に触れさえすれば治してもらえ
る」と思って、後ろからイエスの服の房に触れました。
深い祈りと信仰の中には、限りない希望が秘められて
います。イエスの服に触れ、イエスから声をかけられ
た女性の病は、治りました。
イエスが指導者の家に着くと、笛を吹く者たちや騒
いでる群衆がいました。笛吹きの存在は、喪の儀式が
はじまろうとしていること、すなわち娘の死の確実さ
を告げています。
しかし、イエスは彼らにこう言います。「あちらへ行
きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」。
死者は死んでいないと語るイエスを、人々はあざ笑い
ました。
しかしその中で、死んだ娘に対する想いが他の人々
よりもはるかに強い指導者の父親は、イエスのこの言
葉に大きな希望をもったのはないでしょうか。
他の人には愚かとしか思えない言葉をイエスが発し
た時、絶望の中にいた彼の心は、救いと希望の光に照
らされたのだと思います。
イエスが少女の手を取ると、少女は起き上がりまし
た。父親の願い通り、少女は生き返ったのです。
本日の福音書において、イエスは徴税人マタイを召
し、十二年間出血が続いていた女性の病を治し、死ん
だ少女を生き返らせました。
イエスのこの言葉を、私たちは心にとどめましょう。
「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえでは
ない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。
現代の私たちの社会にも、直接的に命を奪うという
ことはないにしても、自分たちの身の保身のために、
他者をいけにえにすることが行われている側面があり
ます。
たとえば、人が人を差別したり、仲間外れにする意
識の根底にあるものの一つは、「誰かをいけにえにして、
自分たちは安全な場所にいたい」というものだと思い
ます。しかしそういった自己保身の中に、真の喜びは
ありません。
神が求めるのは憐れみであって、いけにえではない
ということを、私たちはこの人生の道のりの中で知っ
ていくことが大切です。そしてまた、私たちは自分自
身のこともいけにえにしてはならないのだと思います。
神は、自己犠牲だけであなたの人生が終わるのでは
なく、あなたが自分自身の人生を生き生きと喜びにあ
ふれて歩んでいくことを望まれています。
私たちは、神のゆるしと愛のうちに、私たちの心を
神に明け渡し、希望と喜びをもってこの地上での時を
共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、私たちがいつもあなたの御心のうちに、日々
を歩んで行くことができますように、力をお与えくだ
さい。私たちが隣人を大切にし、また自分自身を大切
にして生きていくことができますように。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2026年5月24日日曜日
5月31日(日)三位一体主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
三位一体とは・・・?
三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子
これらが同時に一つであるというのが私たちの神
秋久 潤 牧師
本日の福音書には、十字架上で死んで復活したイエ
スが、弟子たちと再び出会った場面が記されていま
す。それは、十一人の弟子たちが故郷のガリラヤに
行き、イエスが指示しておかれた山に登った時のこ
とでした。
たかというと、復活のイエスと出会ったマリアたち
から、「ガリラヤに行くように」というイエスの伝言
を聞かされたからでした。
弟子たちは、イエスが十字架につけられるまでの約
三年間、イエスと共に過ごし、イエスとの交わりをも
ちました。しかしイエスが十字架につけられたこと
で、イエスと弟子たちが共に過ごす日々と、イエスと
弟子たちの関係性は壊されました。イエスが捕らえら
れたとき、不安と恐れに駆られた弟子たちはイエスを
拒否し、逃亡しました。しかしのちに、弟子たちはこ
の拒否と逃亡を通し、イエスの十字架を媒介として、
以前よりも本質的な意味で、再びイエスに近づくこと
ができたのです。
私たちの人生においても、それまで一緒にいた大切
な人が目の前からいなくなったあとに、改めてその人
と過ごした日々の意味やありがたさが分かったり、そ
の人との関係性を構築し直すことがあるのだと思いま
す。
復活したイエスは、弟子たちに近寄ってこう言いま
した。「わたしは天と地の一切の権能を授かってい
る」。
「天」とは「神の栄光の座」を指します。イエス・キ
リストは、十字架の死を経て復活し、天に昇り、神の
栄光の座に着かれました。そして神が世界を統治され
るように、イエス・キリストも「地」、すなわち神が創
造された地上の主であられます。
マタイ福音書の最後は、イエスの次の言葉で締め括
られます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたが
たと共にいる」(マタイ28:20)。
イエスのこの言葉から、思い起こされることがあり
ます。イエスの誕生を天使がヨセフに告げた際、その
出来事は、イザヤ書の預言の実現であるといわれてい
ました(マタイ1:23)。それはこのような預言です。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は
インマヌエルと呼ばれる」。インヌマエルとは、「神は
私たちと共にいます」という意味です。神は世の終わ
りまで、いつも私たちと共におられるのです。
この地上を旅する私たちは、いつも神と共にいま
す。イエス・キリストは、私たちの人生における長い
旅路の果てで待っているのではなく、日々、私たちに
寄り添い、共に歩んでくださる方なのです。
イエス・キリストは高いところから私たちを見下ろ
しておられる方ではなく、私たちの嘆き・苦しみ・悲
しみの中に、愛と慈しみをもって共にいてくださいま
す。だからこそ私たちは、どんな苦難の中にいる時
も、希望と慰めの歩みを進めていくことができるの
です。
創造主である神は、天地と、私たちをお造りになり
ました。また神は、私たちにこう生きるべきと道を示
してくださいました。しかし私たちが神の御心通りに
生きることができないがゆえに、イエスが地上に人の
子として生まれ、私たちと共に歩み、私たちが歩む道
をひらいてくださいました。そして神は、聖霊として
私たちの内に宿り、私たちに立ち上がる力を与え、語
るべき言葉を与えてくださるのです。
旧約聖書の列王記下20章5節にこうあります。
「……主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞
き、涙を見た」。
すべての人にとって、この地上での旅路は平坦では
ないと思います。「人生は夢・幻」と言われますが、
夢・幻にしてはやけに大変だと思えることもあるので
はないでしょうか。しかし私たちは、どんなに辛く苦
しい時も、激しく心が痛む時も、にっちもさっちもい
かない追い詰められた状況の時も、涙を流しながら神
に祈ることがゆるされているのです。
涙を流すことは、喪失感や悲しみを癒し、心の浄化
をもたらします。私たち人間には、涙を流しながら神
に祈ることが必要な時があるのだと思います。
しかし私たちは、あまりにも枯渇し、疲弊しきって
いる時は、涙を流しながら祈るような気力すら湧か
ず、とてもそのような気持ちにはなれないかもしれま
せん。
そんな時でも、いつもあなたと共にいてくださるイ
エス・キリストが、あなたの代わりに涙を流しながら
神に祈ってくださっていることを、心に覚えていてく
ださい。
フランスの修道女リジューのテレーズは、こう述べ
ています。「結局、人生とは一夜の夢に過ぎないのでは
ないでしょうか。それなのに、この夢で人びとを救う
ことができるとは! 人びとの救いを忘れないように
しましょう!」。私たちは、人生という一夜の夢の中で
人を救うことができ、また自分自身も救われるのです。
自分の人生を振り返ってみて、完璧な人生だったと
思える人はほとんどいないと思います。これまでの自
分の道のりを振り返ってみたとき、「馬鹿な人生だっ
た」「愚かな人生だった」と思えてしまう時もあるかも
しれません。過去に自分が、人の心を傷つけてしまっ
たのではないかという罪悪感に苦しむ時もあるかもし
れません。
しかし旧約聖書のイザヤ書は、私たちにこう告げま
す。「たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤く
ても、雪のように白くなる」(1章18節[新改訳])。
緋とは、燃え盛る様子を連想させる鮮やかな赤色の
ことです。私たちの罪が緋のように赤くても、それは
雪のように白くなると言っているのです。
この世に生まれてからの歩みにおいて、初めからず
っと雪のように白い人はいないのです。私たち人間
は、それぞれの紆余曲折の人生を歩んでいくうちに、
初めは緋のように赤かったものが、だんだんと雪のよ
うに白くなっていくのだと思います。
そしてまた私たちは、自分の内側で燃え盛る怒りや
憎しみの炎に取り込まれてしまうのではなく、それは
やがて雪のように白くなるものであることを知りま
しょう。
神のゆるしと愛のうちに、私たちは、悲しみの中に
いる時も、喜びの中にいる時も、主イエス・キリスト
と共に日々を歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
全能の神様。いつも私たちを守り導いてくださりあ
りがとうございます。聖霊を通して語られるあなたの
御言葉を、私たちがいつも心に響かせながら生きてい
くことができますように。あなたの喜びを、私たちの
喜びとさせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
2026年5月17日日曜日
5月24日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
聖霊降臨祭(ペンテコステ)って何?
★ 主日の祈り
神様。
あなたはこの日、あなたを信じる者に聖霊を送って、
心を開いてくださいます。
聖霊の光で導き、私たちが全てにおいて正しく判断
し、あなたの平和の内に、いつも喜ぶことができる
ようにしてださい。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
清重 尚弘 牧師
2026年5月10日日曜日
2026年5月3日日曜日
5月10日(日)復活節第6主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
★ 主日の祈り
永遠に生きておられる全能の神様。
あなたは、天と地のすべてを一つに結びあわせてく
ださいます。
豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもた
ちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を
授けてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
秋久 潤 牧師
日本にキリスト教が伝来したのは、今から470年
ほど前の戦国時代末期のことでした。ヨーロッパ
からやって来た宣教師たちは、病気の貧しい人の
ための施設を建て、捨てられていく子供たちを救
済する働きをしました。争いのために困窮し、見
捨てられ、虐げられた人々を支える働きは、地域
に広く受け入れられていきました。
「大切にする」という言葉に置き換えて、人々に
伝道しました。「神の愛」という言葉を「デウスの
御大切(ごたいせつ)」、すなわち「神の御大切」
と伝えたのです。「愛」という言葉が、恋愛的な愛
と混同されるのを避けるためでした。
を大切にする」ことです。もちろん、「物を大切に
する」ことなどもそれなりに大事でしょう。しかし、
「人を大切にする」ことよりも「物を大切にする」
ことを優先させると、過ちが起き、罪が生じてしま
うのです。日本のある昔話の、殿が大事にしていた
皿を誤って割ってしまった召使いを罰として殺した
話は、まさにそれを物語っています。
間に向けられている言葉です。神が大切にされてい
るのは、私たちの持ち物・財産・身分等ではありま
せん。神がかけがえのないものとして大切にされて
いるのは、すべての付随物や肩書きが取り払われた、
生身の私たち一人一人なのです。
が凍てつき、塞ぎ込み、抑圧された気持ちになって
いる人は多いと思います。そのような状態のときの
心には、「愛する」という言葉がまぶしすぎて、相入
れなく感じることもあるのではないでしょうか。そ
のような時は、「愛する」という言葉の代わりに、
「大切にする」という言葉の方が心に響いてくるか
もしれません。
返し出てきます。この「愛する」という言葉を、ぜ
ひ今日は、「大切にする」という言葉に置き換えて
読んでみてください。十字架の死が間近に迫る中、
イエスは弟子たちにこう言います。「あなたがたは、
わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。
いう言葉に言い換えて読んでみます。「あなたがた
は、わたしを大切にしているならば、わたしの掟
を守る」。
イエスを大切にすることは、人間同士が互いに
大切にし合うことです。イエスを大切にするよう
に、敵であっても、気に入らない人物であっても、
その相手を大切にすることです。そしてイエスは、
次のように約束してくださるのです。「わたしは父
にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永
遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。
イエスがここで言われた、父なる神にお願いし
て、ご自分が去ったあとに弟子たちに遣わす「別
の弁護者」とは、聖霊のことです。聖霊とは、真
理の霊です。イエスは決して弟子たちとの関わり
を絶って去るのではありません。イエスは、ご自
分が地上にいなくなったあとも、代わりに聖霊を
私たちのもとに送って、私たちを助け続けること
を約束してくださったのです。
私たち人間は、誰もがいつの日かこの世の生を
終えます。そして、人の姿をもって天から降られ
たイエスの地上の生涯にも限りがありました。し
かし、イエスと弟子たちとの交わりは、イエスの
地上での生涯の終わりと共に終了するわけではな
いのです。これは私たちと全ての大切な人との別
れにおいても言えることです。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」
とイエスは言います。これは、イエスが地上を去
ることを意味しています。ですが、次にイエスは喜
びの約束を私たちにしてくださいます。「あなたが
たはわたしを見る。わたしが生きているので、あな
たがたも生きることになる」。
「わたしが生きている」とは、「わたしは十字架の
死を超えてさらに生きている」、すなわち「復活の
命を生きている」という意味です。ここでの「生き
ている」には、「生き続ける」という意味がありま
す。イエスが復活の命を生き続けておられ、だから
こそ私たちもイエスから送られる真(まこと)の命
を受けて生き続けることができるのです。
生きるとは、神の霊を与えられた存在として、祝
福され、赦されて生きることを意味しています。今
日(こんにち)、多くの人々にとって、この世を生き、
自分の人生を生きることは、祝福よりも重荷と苦し
みを感じるものになっているかもしれません。生き
る意味や目標が見出せず、ただ自分の肉体が生きな
がらえているだけのような空虚な気持ちになること
もあるでしょう。
しかし、そんな迷える存在である私たち人間に、
イエス・キリストは「わたしが生きているので、あ
なたがたも生きる」と言ってくださっているのです。
本日の福音書の最後に記されているイエスの「愛
する」という言葉を、「大切にする」に言い換えて読
んでみます。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人
は、わたしを大切にする者である。わたしを大切に
する人は、わたしの父に大切にされる。わたしもそ
の人を大切にして、その人にわたし自身を現す」。
イエスを大切にするとは、他者を大切にすることで
もあります。敵・味方にかかわらず、自分の好き嫌い
の感情に流されず、他者の内にイエス・キリストを見
て、他者を大切にする人は、自分自身も父なる神に大
切にされるのです。
絶対に許すことができないと感じる相手の中にも、
イエス・キリストの姿を見ることで、私たちは、神の
赦しに近づくことができるのだと思います。
さて、今日は「愛する」を「大切にする」という言
葉に置き換えてお話しさせていただきました。そして
最後は「愛」という言葉に戻りたいと思います。
私たちは、愛の祈りをしましょう。イエス・キリス
トが私たちに与えてくださった愛をもって、この世に
おいて、愛の祈りをしましょう。
傷ついたこの世界の回復を、心から祈りましょう。
私たちが、いま試練の中で苦しんでいる人々と、共
に苦しみ、共に希望をもち、共に喜ぶことができます
ように。
どんな時も、イエス・キリストが私たちと共にいて、
私たちと共に悲しみ、私たちと共に嘆き、私たちと共
に喜んでくださいますように。
主イエス・キリストの御名を通して祈ります。
アーメン















