諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
旧約聖書のイザヤ書にこう記されています。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わた
しの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる」
(イザヤ55:8)。
私たち人間には、不快なことや嫌なことを避けたい
と願う気持ちがあると思います。しかし、神の計り知
れない大きな思いは、私たちの小さな思いをはるかに
超えています。試練や苦しみの中にこそ、神の救いの
計画が備えられていることがあるのです。
神は、私たちが苦しみの中にあるときも、絶望では
なく希望を与えようとしています。どのような困難の
中においても、私たちが希望と喜びを持ち続けること
を、神は望まれます。そして、キリストの受難と十字
架、復活が、私たちの光であり希望なのです。
本日の福音書は、イエスがご自分の受難と死、復活
を初めて弟子たちに打ち明ける場面から始まります。
「打ち明ける」という言葉には、ある種の重さがあり
ます。「打ち明ける」とは、自分の秘密や心の内にある
苦しみを、思い切って人に話したり、自分の胸の内を
包み隠さず誰かに伝えることです。
私たちも人生の中で、自分の秘密やそれまで隠して
いた心の痛み、苦しみを誰かに打ち明けたことがある
のではないでしょうか。逆に、誰かからその人の秘め
たる胸中を打ち明けられたことがあるかもしれませ
ん。
また、もし今まで、人に自分の心の内を打ち明けた
ことも、人から打ち明けられたこともなかったとして
も、これから先に、そのようなことがあるかもしれま
せん。
本日の場面で弟子たちは、他ならぬイエスから、イ
エスご自身の今後にまつわる深刻な内容を打ち明けら
れます。イエスが弟子たちに打ち明けたことは、実の
ところは、深刻というよりも、極めて深淵な内容でし
た。しかしこの時の弟子たちには、それが分かりませ
んでした。弟子たちには、イエスが深刻になって、何
か悲壮感漂う話をしているかのように感じたかもしれ
ません。
イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長
老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて
殺され、三日目に復活することになっていると弟子た
ちに伝えます。「必ずエルサレムに行って……復活する
ことになっている」の「必ず……することになってい
る」とは、イエスの強い決意を示しているだけではあ
りません。それが神の定めた計画だということを表し
ているのです。
神の計画は、イエスの苦難と死と復活を通して、救
いを実現させることでした。イエスはその神の救いの
計画にどこまでも従おうとされたのです。十字架は決
して敗北ではなく、罪と死に対する勝利へ向かうもの
であることが、この「三日目に復活することになって
いる」という言葉の中に含まれています。
しかし、弟子たちはイエスの受難予告を理解できま
せんでした。そこでペトロはイエスをわきへお連れし
て、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあっ
てはなりません」と言ってイエスをいさめます。ここ
の原文のニュアンスは、ペトロがイエスを非難し叱り
つけた、という激しいものです。
それは、イエスの身を案じ、イエスを思いやる気持
ちからの言葉でもあったと思います。弟子たちの混乱
や、やる気を削がれることへの懸念と、イエスが死ん
だら弟子の自分はどうなるのかとの不安を打ち消した
い思いもあったことでしょう。弟子たちは、当時のほ
かの人々と同様、地上で栄光に輝き、勝利を収めるメ
シア像しか受け入れられなかったのです。
イエスはそんなペトロに向かって「サタン、引き下
がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で、イ
エスが悪魔に向けて発した「退け、サタン」を思わせ
る厳しい言い方です。サタンとは、人を神から引き離
す力の象徴です。
イエスはなぜここまで強く反応したのでしょうか。
それは、ペトロの言葉の中に「神の思い」に抵抗する
「人の思い」が含まれていたからです。「人の思い」
とは、「人間の欲・打算」とも言えるでしょう。そし
てペトロがイエスに向けたその言葉は、サタンが荒れ
野の誘惑の中でイエスに語ったことと同じ性質のもの
だったのです(マタイ4章)。
荒れ野のサタンの誘惑とは、要するに「苦しみなど
通らず、みんながアッと驚くような方法で、栄光を得
よ」というものでした。ペトロの言葉もまた、「苦し
みも死も通らずに、メシアとしての栄光を輝かせてほ
しい」と願うものでした。良かれと思ってのペトロの
願いでしたが、それはイエスを十字架から遠ざけよう
とする願いでした。しかし、神の救いの計画は、受難
と十字架を通して成し遂げられねばならなかったので
す。
そしてイエスは、こう言われました。「わたしについ
て来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負っ
て、わたしに従いなさい」。
「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょう
か。これは、様々な解釈ができる言葉です。まず、こ
こでの「自分の十字架」を、私たちがそれぞれに背負
わされている人生の困難のこととして考えてみてくだ
さい。私たち人間には、「これさえなければ、どんな
にいいか」と願う自分固有の悩みや苦しみがそれぞれ
あると思います。
あなたにとって、それは一体、何でしょうか。あな
たが普段、「これさえなければどんなにいいか」と感
じているものについて思いを向けてみてください。
「自分の十字架を背負う」にはもう一つの意味があ
ります。それは、先ほど述べた自分自身の重荷や苦し
みを背負うことの他に、死に向かって自ら歩いていく
という意味合いです。
イエスの時代、死刑判決が下った犯罪人は十字架刑
の場所まで、自分で十字架を背負って行くことが強制
されていたからです。したがって、「自分を捨て、自分
の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、死
をもいとわず主イエス・キリストに従うようにという
ことなのです。
一見、それは重たく思えることかもしれません。し
かし実のところ、それは、「これさえなければどんなに
いいか」と思える自分固有の悩み・苦しみを十字架と
して背負うよりも、はるかに軽やかで、希望と喜びに
あふれたものではないでしょうか。
キリストに従う時、私たちは古い自分を捨て、軽や
かに十字架を背負いながら、死をもいとわず、キリス
トの後に続いて歩んでいくのです。
さて、8月も終わりに近づいてきました。
人間にとって最大の悲しみとは何でしょうか。
それは、人によって様々だと言えるかもしれません。
ですが、一人ひとりの人間の最大の悲しみの根底に
は、共通するものがあるのではないでしょうか。
ある人から、次の話を聞いたことがあります。その
人は普段、外出先でお店の店員等と接するとき、目を
伏せて相手の顔をあまり見ないことが多かったそうで
す。ですが、あるとき、これまでよりも積極的に店員
や病院の医者等、普段はあまり目を合わせることのな
かった人々と目を合わせて会話をしてみたところ、こ
れまで見えていなかったものが見えた思いがしたとい
うことでした。それというのは、この世で生きている
人の心、すなわちこの世は悲しみに満ちているという
ことだったのです。
私たち人間は、悲しみと共に生きています。しかし
また私たちは、悲しみを愛することができるのだと思
います。そして悲しみを愛することは、人と自分を愛
することでもあるのです。
主イエス・キリストの十字架の受難と復活によっ
て、神は私たちに、救いと恵みの御業を示してくださ
いました。
私たちは、神の大いなる愛と祝福に満たされなが
ら、希望と喜びをもって、主イエス・キリストと共に
この地上での時を歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、御名を賛美いたします。
私たちは、日々、落ち込んだり、嘆いたり、悩みなが
ら日々を過ごしています。うつむく私たちがあなたの
愛と御心のもとに、前を向いて希望と喜びをもって歩
んでいくことができますようにお導きください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン












