諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
2026年7月5日日曜日
2026年6月28日日曜日
7月5日(日)聖霊降臨後第6主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
本日の福音書は、イエスが当時の子供の遊び歌をた
とえに用いる場面から始まります。これは、「笛吹け
ども踊らず」ということわざの由来となっている言葉
です。その意味は、人に何かをしてもらおうと働きか
けても、相手が動いてくれないというものです。
イエスがたとえに用いた子供の遊び歌は、次のよう
なものでした。「笛を吹いたのに、/踊ってくれなかっ
た。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかっ
た。」
この歌が表しているのは、結婚式ごっこをして笛を
吹いても他の者が乗ってこず、お葬式ごっこをしても
嘆き悲しむ真似をしてくれないから、結婚式ごっこや
お葬式ごっこが成り立たないということです。
イエスは、今の時代が、このように自分の要求を相
手が受け入れてくれないと不満を言い合っている子供
たちの姿に似ていると言い表したのだと思います。
「結婚式」と「葬式」は、対照的なものです。そして
また、本日の福音書でイエスが言及する洗礼者ヨハネ
も、イエスとは対照的な人物でした。洗礼者ヨハネは
禁欲的で、荒野でいなごや野蜜を食物とし、常に断食
に近い生活をしていました。他方でイエスは、人と共
に食事や宴会を楽しみました。人々は、食べも飲みも
しないヨハネを「悪霊に取りつかれている」と中傷し、
徴税人や罪人とされる人々とも一緒に食事をしていた
イエスを「大食漢で大酒飲み」だと中傷します。どち
らにせよ批判し、拒絶して受け入れようとしないので
す。
大きなことから小さなことまであらゆる領域におい
て、私たち人間にとって「受け入れる」ことは案外難
しいことです。私たちは、どうしても自分の価値観や
偏見に基づく判断をしてしまいがちです。受け入れて
いるつもりでも、心から受け入れているわけではない
ことも多いでしょう。
自分の思い通りに相手がしてくれないと不満を言い
合っている子供のように、神がメシアの先駆けとして
遣わした洗礼者ヨハネのことも、そしてメシアとして
来られたイエスのことも、人々は自分の期待とは違う
と言って受け入れなかったのです。
ですが、人々から拒絶され、受け入れられないこと
のみで終わるのではないと、イエスは次の言葉で表し
ます。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって
証明される」(マタイ11:19)。
ここで言われる「知恵」とは、「神の知恵」を意味
します。旧約聖書の箴言[しんげん]8章1節にこうあ
ります。「知恵が呼びかけ/英知が声をあげているでは
ないか」。
旧約聖書における「知恵」とは、人間の持つ知識で
はなく、知恵それ自体が独立して命を持ち、人々に語
りかけ、何事かを実現していく、神の力に溢れた能動
的な存在として記されています。
そして、知恵は自らを「わたし」と呼び、人間にこ
う語りかけていくのです。「人よ/あなたたちに向かっ
てわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは
声をあげる」(箴言8:4)。
この知恵は、神の御子である主イエス・キリストと
結びついています。パウロは、自らの伝道を、神の力、
神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのだと言い
ました(コリントの信徒への手紙一1:24)。
ヨハネ福音書1章5節にこうあります。「光はやみの中
に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。
暗闇は、私たち人間の心の中にもあります。どんなに
明るく見える人にも、心のどこかに暗闇があるのだと
思います。しかし闇の中でこそ、光は輝き、際立つの
です。生きることの新たな可能性は、闇の中から生じ
る光から生まれてくるのです。
イエス・キリストはまことの知恵であり、闇の中に
輝く光です。そしてそれは、イエス・キリストの業や
言葉によって証明されるのです。
イエスはこう言いました。「疲れた者、重荷を負う
者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ
げよう」(マタイ11:28)。これは聖書の中で、もっと
も有名な言葉の一つだと思います。
この言葉から思い起こされる次の聖句があります。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないよう
な試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それ
に耐えられるよう、逃れる道をも備えていてください
ます」(コリントの信徒への手紙ー10:13)。
ここには、神が私たちに「逃れる道」、すなわち
「逃げ道」を備えてくださっていることが語られてい
ます。一般的に、「逃げる」という言葉にはマイナス
のイメージがあるかもしれません。けれども神は、私
たちに「逃げてよい」と言ってくださっているのです。
むしろ「逃げる」ことが、私たちにとって重要な時が
あるのです。
旧約聖書には「逃げる」場面がたくさん出てきます。
勇敢に立ち向かうというより、むしろ、逃げ続ける人
物たちの姿がそこにあります。しかしその「逃げ道」
が、同時に、「神への道」につながっているのです。
旧約聖書の詩編に、「避けどころ」という言葉が出
てきます(詩編46:2)。困難に遭遇した時、逃げ込む
ことができる場所、そうして自分を守ってくれる場所
です。神ご自身が、私たちの「避けどころ」なのです。
そして、私たちが逃げ込むことのできる「避けどこ
ろ」とは、新たな世界への入り口でもあるのだと思い
ます。
どういうわけか私たち人間は、喜びや楽しさだけを
感じるようには造られていません。過去を振り返って
悔やんだり、未来のことに不安になったり、人と自分
を比べて落ち込んだり、ありとあらゆる否定的な思い
をもつのが、創造主である神が造られた私たち人間で
す。
しかし、憐れみ深く慈愛に満ちた神は、どんな時も、
あなたの「避けどころ」となって「逃げ場」をつくっ
てくださっているのです。
本日の福音書で、主なる神への祈りにおいて、イエ
スはこう祈りました。「天地の主である父よ、あなた
をほめたたえます」(25節)。イエスにとって、祈りと
は何よりもまず賛美でした。これは、祈りの本質であ
ると思います。何かを神に願うことも祈りですが、祈
りとはまず神を賛美することなのです。
そして、私たちは苦しみの中にいる時こそ、神をほ
めたたえ賛美しましょう。日々の生活の中で心と身体
が疲弊して、神をほめたたえる力が自分には残ってい
ないと思える時も、主イエス・キリストがあなたと共
に神をほめたたえ賛美してくださっていることを、い
つも心に覚えていてください。
詩編102編19節にこうあります。
「主を賛美するために民は創造された」。
私たちの人生において、何よりも重要な私たちの務
めは、神をほめたたえ賛美することなのだと知る時、
私たちは、あらゆる苦悩や思い煩いから解放されるで
しょう。
私たちは、主イエス・キリストの御名のもとに、い
つも喜び、祈り、神を賛美しながらこの地上での時を
共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、いつも私たちと共にいてくださりありがとう
ございます。夏の暑さの中も、冬の寒さの中も、私た
ちが今ここに生かされていることに喜び感謝して、日
々を歩んでいくことができますように。あなたのゆる
しと愛によって、私たちが隣人を大切にし、自分自身
を大切にしながら生きていくことができますようにお
導きください。御子イエス・キリストの御名によって
祈ります。
アーメン
2026年6月21日日曜日
6月28日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
たとえば、「自分の人生の現実を見てください」と
言われたら、あなたはどんな気持ちになるでしょう
か。ワクワクとした気持ちや、楽しい気持ちにはな
らないのではないでしょうか。「現実」という言葉か
ら伝わってくるものは、夢やロマンが感じられない、
味気ない響きかもしれません。
「現実」と逆の言葉のひとつは「象徴」だと思いま
す。「人生の象徴を見てください」と言われた方が、
はっきりとした意味は分からないながらも、何か心
の奥から、生きる力と希望が湧いてくるのではないで
しょうか。
カール・グスタフ・ユング、心理学で有名なユング
はこう述べています。「象徴的な生を生き、自分は神的
なドラマの参加者なのだと感じるとき、それが平和を
与えてくれます。それこそが人間の人生に唯一の意味
を与えてくれるものなのです」。
象徴とは、目に見えない抽象的な事柄を、具体的な
かたちに置き換えて表現することです。たとえば、ハ
ートや赤い薔薇は愛の象徴であり、鳩は平和の象徴で
す。また、十字架はイエス・キリストの象徴と言える
でしょう。ユングが言う「象徴的な生」とは、特別な
象徴と共にある人生、象徴を大切な導きとする人生の
ことです。
「象徴的な生を生きる」とは、「愛を象徴とした生を
生きる」「平和を象徴とした生を生きる」、そして「キ
リストを象徴とした生を生きる」などの、精神的で霊
的なテーマを表明した人生を生きることなのだと思い
ます。
人生の中心に大切な象徴があるとき、私たちは生き
ることの意義と目的を実感するでしょう。そして、そ
のような象徴的な生を生きる人は、おのずと周囲の人
々の心を揺り動かし、霊的な影響を与えていくのだと
思います。
また、ユングはこう述べています。「ところが、神話
はフィクションではないのだ。それは何度でも観察可
能な、たえず繰り返される事実なのである。神話は人
間に生じる。ギリシャ神話の英雄たちと同じように、
人間には神話的な運命があるのだ」。
神話とは、人間の集合的な心の体験が、象徴的に表現
された物語です。象徴的な生を生きる人ほど、この世
の現実において、まるで神話やおとぎ話のような経験
をそのままするのではないでしょうか。そしてまた、
象徴的な生を生きる人のその体験が、人間の集合的な
心の体験を作り変え、進化させていく役割を持つのだ
と思います。
そして私たちは、その役割を他の誰かに任せるので
はなく、一人ひとりがこの人生において、神から与え
られた私たちの命をもって、象徴的な生を生きていく
ことが大切です。
さて、本日の福音書には、イエスが十二人の弟子た
ちを、神の福音を宣べ伝えるために人々のもとへ派遣
するときに語った言葉が記されています。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、
わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受
け入れるのである」とイエスは言いました。
神の福音を伝える働きは、単なる個人的活動ではな
く、神から遣わされた者が行う神の働きそのものであ
ることを、イエスは弟子たちに伝えます。
これは、今の時代に生きる私たちにも言えることで
す。私たち一人ひとりが神の福音を他者に伝えるとき、
その働きは単なる人間的な活動ではなく、神の国の使
者としての働きなのです。
イエスは、預言者を預言者として受け入れる人は、
預言者と同じ報いを受けると言いました。預言者とい
うと、未来に起きることを予告する人というイメージ
があるかもしれませんが、必ずしもそれだけではあり
ません。預言者とは神の言葉を預かり、それを伝えて
人々を神の方に向かせる導き手のことです。
「預言者と同じ報いを受ける」の「報い」とは、差
し出したものに見合った報酬が返ってくる「対価」で
はありません。「報い」とは、私たちがなすことをは
るかに越えて、愛と恵みによって限りなく与えてくだ
さる、計り知れない神からの賜物です。
ヨハネ福音書6章28節において、「神の業を行うため
には、何をしたらよいでしょうか」と人々がイエスに
尋ねました。イエスはこう答えます。「神がお遣わし
になった者を信じること、それが神の業である」。
「何をしたらよいか」という問いに対して、ただイエ
スは「神がお遣わしになった者を信じなさい」と言っ
たのです。信じることそのものが、既に神の業だと言
うのです。「信じる」とは、何か行動を起こすよりも抽
象的なことです。様々な困難や問題に直面する私たち
の人生において、ただ「信じる」だけでは、心もとな
く感じることがあるでしょう。しかしイエスは、まず
初めにただ信じることが大切であると私たちに伝えま
す。すべては神を信じることから始まり、行動はあと
から自ずとついてくるのです。
そして私たちは、自分を受け入れてくれる人から与
えられる一杯の水を、神から与えられたものとして、
心から受けとりましょう。
そうした時、私たちの日々は、神の愛と祝福にあふ
れていることを知ることができるでしょう。
私たちは生きていく中で、危機を感じるときがあり
ます。それは、自分の心の危機であったり、病気や痛
みによる身体の危機だったりするでしょう。危機は避
けたいものであり、自らそれを望む人はいないと思い
ます。しかしその危機こそが、人生においての大きな
転期となるのです。
もう生きているのが嫌だと思えるような苦難の中に
いるときこそ、私たちはすべてを神に委ね、神の言葉
に耳を傾けることが大切です。私たちは深い嘆きや苦
しみの中にいるときこそ、神と共にまっすぐな道を歩
んでいきましょう。まっすぐな道とは、神の愛と平安
に根差した道です。
「まっすぐな道」も象徴的な言葉と言えます。この世
にある現実の道路や道に、寸分の歪みもない完全にま
っすぐな道はないからです。
生きていく中の、つらく苦しい状況において、自暴
自棄になったり人を恨みたくなることもあるかもしれ
ません。心が荒み、負の連鎖に陥っていくような、荒
れた行動を起こしたくなるときもあるでしょう。です
が、どんな困難や苛立ちの中にあるときも、私たちは
心の中に「まっすぐな道」という象徴を置いて、神と
共に歩んでいきましょう。
憐れみ深く慈愛に満ちた、主イエス・キリストの御名
を通して祈ります。
お祈りをいたします。
神様、私たちが心の平安のうちに、日々を歩んでい
くことができますようにお導きください。あなたの愛
によって、助けを必要とする隣人に手を差し伸べるこ
とができますように、力をお与えください。あなたの
喜びが私たちの喜びとなり、私たちの喜びがあなたの
喜びとなりますように。主イエス・キリストの御名に
よって祈ります。
アーメン
2026年6月14日日曜日
6月21日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
永井隆は、1908年(明治41年)に長崎で誕生。1932
年(昭和7年)長崎医科大学(現・長崎大学医学部)を
卒業し、放射線医学を専攻し、母校長崎大学の助手と
なる。妻緑の影響を受け、26歳の時、カトリックの洗
礼を受ける。
日中戦争勃発後、第5師団衛生隊隊長・軍医中尉とし
て出征。現地では日本軍のみならず、中国人への医療
にも従事した。1940年(昭和15年)日本に帰国。功五
級金鵄勲章を受章。
1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に原子爆弾が投
下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大
の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負う
も、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下さ
れた爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日
に投下したビラを読んでからのことであった。この原
爆で、妻緑を亡くしている。
一時昏睡状態に陥り、告解をして終油の秘蹟を受け
たが、奇跡的に生還。その後は大学を休職し療養に専
念した。来日中のヘレン・ケラーが永井の見舞いに訪
れたこともある。1951年(昭和26年)死去。「如己愛
人(己の如く人を愛せよ)」が座右の銘。
「長崎の鐘」
内容は、長崎医科大学助教授だった永井が、原爆爆
心地に近い同大学で被爆した時の状況と、重症を負い
ながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。
長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いなが
ら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いてい
る。「長崎の鐘」とは原子爆弾の投下により吹き飛ば
されてしまった旧浦上天主堂の「アンジェラスの鐘」
のことである。サトウハチロー作詞・古関裕而作曲で
同書をモチーフとした歌謡曲が発売されて大ヒット
し、翌1950年(昭和25年)には松竹により映画化さ
れた。
被爆地に心を寄せていたベルギー国王
現在天皇陛下は、オランダ・ベルギーをご訪問中で
すが、陛下が現ベルギー王の父王ボードワン国王に初
めて会われたのは、1964年3歳の時。ヨーロッパの国
王の初来日で、国王夫妻は被爆地の広島や長崎を訪ね、
原爆慰霊碑や平和公園で慰霊している。長崎の教会で
『この子を残して』などの著作で知られる被爆者の永
井隆博士の遺児・茅乃さんに会い、国王は「お父さん
の本を読んでいます。あの本に感激して日本に行こう
という気になりました」と話した。
2026年6月7日日曜日
6月14日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
聖書に記されていることを、2000年前の遠い場所で
起きたこととしてではなく、現在の自分のこととして
主観的に読むと、聖書との関わりが、より親密で生き
たものとなると思います。
本日の福音書は、イエスが福音伝道と、あらゆる病
気や患いをいやすわざを「町や村を残らず回って」お
こなった場面から始まります。ここをイエスが、日本
中のすべての町や村を残らず回って、福音を宣べ伝え、
私たちのありとあらゆる病気や患いをいやしたとして
みてください。
イエスがすべての町や村を残らず回ったことは、救
いはすべての人の上にあることを表しています。イエ
スは、これらの働きを続けながら、私たち群衆が飼い
主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている
のを見て、深く憐れまれます。
イエスは私たちの内に、私たちが自覚している以上
の大きな問題を見ています。病気や人間関係の悩み、
お金の悩み、生活の悩みなど、そういった現実的な悩
みと共に、私たちが自覚していない魂の飢え渇きを見
ているのです。
羊は、羊飼いなしには生きていくことができない無
力な動物です。羊の視力は数メートル先までしか及ば
ないと言われています。そのために、良い羊飼いを持
たない羊は、もし群れを離れたら、自力で群れに戻る
ことができません。
羊である私たちには、導き手である羊飼いが必要で
す。弱った私たちを力づけ、病める私たちを癒し、傷
ついた私たちを包み、散らされた私たちを連れ戻し、
失われた私たちを捜し求めてくださる羊飼いが必要な
のです。
私たちを深く憐んでくださるのです。イエスが私たち
を憐れむのは、イエスが私たちの苦しみを知っている
からです。
イエス・キリストは、私たちを深く憐れみ、救いの
言葉を語ります。またそれは、いやしの行為となって
表われます。イエスは、ご自身がメシヤであることを
証明するためにいやしのわざを行うのではありません。
イエスの内にある愛がそうさせるのです。
世の中のありとあらゆる苦しみ、悲しみを前にして、
イエスはその嘆きの部分だけを見るのではありません。
その向こうにある神の恵みと栄光を見ているのです。
私たちの困窮を見て、イエスは、私たちの魂を導く
ための働き手が少ないと考えます。イエスはこう言い
ます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収
穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主
に願いなさい」。そしてイエスは、働き手として十二
人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能を授けま
す。
ここまでは、飼い主がいない羊のように魂が飢え乾
いている群衆を私たちに置き換えてみましたが、この
十二人の弟子のことも、私たちのこととして読んでみ
ましょう。この十二人の中に、自分の名前も載ってい
るとしてみてください。
十二人の名前のリストのうち、徴税人マタイと熱心
党のシモンには、名前だけでなく肩書きが記されてい
ます。もしここに自分の肩書きが記される時は、どん
な肩書きになるのかを想像してみてください。
ここでマタイとシモンにそれぞれ「徴税人」「熱心
党」と肩書きが記されているのは、イエスの弟子選び
がバラエティーに富んでいることを表すためだと思い
ます。徴税人と熱心党員は、対極の存在だったからで
す。
熱心党員とは律法に対して非常に熱心だったユダヤ
人のことで,彼らは自分たちの国であるユダヤを支配
していたローマ帝国を拒み,ローマ帝国を自国から追
放しようとした愛国主義者です。
一方、徴税人は、そのローマ帝国に納める税金を徴
収し、さらに自分の取り分を上乗せして、本来の何倍
ものお金を同胞のユダヤ人から巻き上げていました。
それゆえに徴税人は、人々から、ローマ帝国に魂を売
り渡した、金に貪欲な裏切り者として嫌われていまし
た。
しかしイエスはここで、そのような愛国主義者と、
いわば自国を売って生きていると見なされていた人を
同時に召しているのです。水と油のように相容れない
熱心党員と徴税人が、イエス・キリストのもとで、弟
子として集められるのです。
イエスは弟子たちに、汚れた霊を追い出し、あらゆ
る病気や患いをいやすための権能をお授けになりまし
た。それは、救いのわざをなす力が弟子たちに与えら
れたということです。ですから私たちも、隣人への救
いのわざを行いましょう。救いのわざと言っても、そ
れは、日々のほんのささやかなことでもいいのです。
最近、私が小学4年生頃のある出来事をふと思い出
しました。冬の寒い日のこと、授業中に何かの課題で、
他の生徒と席を替わった時のことでした。私がある女
の子の席に座り、それから自分の席に戻ったあと、私
が座っていた女の子の席に私の体温が残っていて、椅
子が温かくなっていたようでした。そのことを、自分
の席に戻った女の子が嬉しそうに「ありがたい」と言
ってくれたことが大きな印象をもって私の心に残って
います。
私は、自分に自信のない子供でした。そんな私に、
その女の子が、私の体温が自分の椅子に残っているこ
とを嫌がらずに喜んでくれたことが、私は嬉しかった
のだと思います。些細なことですが、あの出来事は一
生、私の心のどこかに残り続けると思います。本人に
そんなつもりはなくとも、その女の子はささやかな救
いの灯(ともしび)を私の心に灯してくれたのです。
以前、エマオの途上をイエスと二人の弟子が共に歩
いて行く箇所(ルカ24:13)で、こうお話しさせてい
ただきました。「私たちは、いつも希望の明日に向か
って押し出され、主イエス・キリストと共に日々を歩
んで行くのです」。
人生において辛いことや苦しいことがたくさんあり、
身体も心も疲れている日々の中では、この「希望の明
日に向かって押し出され」という言葉は、相容れなく
感じるかもしれません。ですが、これまではピンとこ
なかった言葉が、ある時、心にピッタリとくることが
あるのだと思います。
押し出され、主イエス・キリストと共に歩んでいくの
です。神は愛によって、主イエス・キリストを私たち
のもとに遣わしてくださいました。
私たちは、イエス・キリストに心を委ね、一日一日
を新たな気持ちで、共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、あなたの愛のうちに、私たちが一瞬一瞬を喜
びながら生きていくことができますように。私たちの
喜びが、いつもあなたと共にありますように。御子イ
エス・キリストによって祈ります。
アーメン
2026年5月31日日曜日
6月7日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝のご案内
諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
本日の福音書は、イエスが徴税人マタイを、ご自分
の弟子になるように招いた場面から始まります。当時、
ユダヤの地はローマ帝国に支配されていて、ローマ帝
国に納める税金の徴収は、現地のユダヤ人に委託され
ていました。それゆえに徴税人は、ユダヤ人の同胞か
ら、ローマ帝国に魂を売り渡した卑怯者として嫌われ
ていました。ローマ帝国は異教の国ですから、そのロ
ーマ帝国のために働く徴税人は、ユダヤの神の救いか
ら除外された「罪人」と考えられていたのです。
しかし、そんな徴税人のマタイを通りがかりに見か
けたイエスは、マタイにこう呼びかけました。「わたし
に従いなさい」。
召命(しょうめい)という言葉があります。召命と
は、神の恵みによって神に呼び出されることです。人
間社会では、人を自分にとってプラスになる存在か否
かの損得勘定で見てしまうところがあります。しかし
イエスはそうではありません。その人がどれだけご自
分を必要としているかに目を留めるのです。
収税所に座っていたマタイは、すぐにイエスの招き
に従い、立ち上がりました。そして、イエスによる徴
税人マタイへの恵みの招きにつまずいたのは、周りの
ファリサイ派の人々でした。彼らは、イエスがマタイ
の家で、他の徴税人や「罪人」たちと食事をしている
のを見て、けしからんことだと思いました。
ファリサイ派の人々にとって、徴税人や罪人は、ユ
ダヤ教の教えである律法を守らず、汚れている存在で
した。そんな彼らと食事をすれば自分たちも汚れると
思っていたのです。
ファリサイ派の人々に向かって、イエスはご自分を
「医者」にたとえてこう言います。「医者を必要とする
のは、丈夫な人ではなく病人である」。そして病人は、
自分が病人であることを認めればこそ、医者のもとに
来るのです。精神科医のヴィクトール・フランクルは
「本人が自覚していない絶望こそが、実は最も深刻だ」
と言いました。私たちは、自分の闇を「自覚」した時
点で、初めて救いの入り口に立つことができるのだと
思います。
イエスは、ファリサイ派の人々に対して、旧約聖書
の言葉を引用しつつ、こう続けました。「『わたしが求
めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはど
ういう意味か、行って学びなさい」。
ここで引用されたのは、ホセア書6章6節の次の言葉
です。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではな
く/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではな
い」。
この言葉から、私の中で思い出される話があります。
昔、特集番組で観た、ある古代文明の風習についての
話です。
その古代文明には、自然の猛威や災害を恐れ、神の
怒りを鎮めるために、選ばれた女の子がいけにえとし
て捧げられる風習があったそうです。いけにえとして
選ばれた女の子は生まれてからずっと、他の子供たち
のように暮らすことができず、隔離され育てられまし
た。そして十代のある年齢に達すると、儀式が執り行
われ、少女は頭を岩で打たれて殺され、神に捧げられ
たのです。
災いを避けるためや、祈りや願をかけるために、生
きた人間をいけにえとして神に捧げる風習は、歴史的
に、世界中でありました。
「いけにえ」の根底には、他者を犠牲にしてでも自分
たちは助かりたいという人間の自己防衛本能と恐れが
あると思います。
イエスが引用したホセア書の「わたしが喜ぶのは/
愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/
焼き尽くす献げ物ではない」という言葉は、神が求め
ておられるのは、外面的な宗教行為や儀式ではなく、
真実な愛であり、神を知り、神と共に生きることであ
ると告げています。
さて、本日の福音書の後半では場面が変わり、カ
ファルナウムの共同体の指導者がイエスのそばに来て、
ひれ伏してこう言います。「わたしの娘がたったいま死
にました。でも、おいでになって手を置いてやってく
ださい。そうすれば、生き返るでしょう」。
イエスは、その必死の願いに応えるために、立ち上
がり、彼について行きました。そして、彼の死んだ娘
が眠っている家に向かう途中で、十二年間も長血を患
っている女性と出会います。ユダヤ人社会では、この
ような出血のある女性は汚れた存在とされ、彼女に触
れる人も汚れると考えられていました。
そこには先ほどの、徴税人や罪人と一緒に食事をす
ると自分たちも汚れるという差別意識に通ずるものが
あります。
女性は「この方の服に触れさえすれば治してもらえ
る」と思って、後ろからイエスの服の房に触れました。
深い祈りと信仰の中には、限りない希望が秘められて
います。イエスの服に触れ、イエスから声をかけられ
た女性の病は、治りました。
イエスが指導者の家に着くと、笛を吹く者たちや騒
いでる群衆がいました。笛吹きの存在は、喪の儀式が
はじまろうとしていること、すなわち娘の死の確実さ
を告げています。
しかし、イエスは彼らにこう言います。「あちらへ行
きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」。
死者は死んでいないと語るイエスを、人々はあざ笑い
ました。
しかしその中で、死んだ娘に対する想いが他の人々
よりもはるかに強い指導者の父親は、イエスのこの言
葉に大きな希望をもったのはないでしょうか。
他の人には愚かとしか思えない言葉をイエスが発し
た時、絶望の中にいた彼の心は、救いと希望の光に照
らされたのだと思います。
イエスが少女の手を取ると、少女は起き上がりまし
た。父親の願い通り、少女は生き返ったのです。
本日の福音書において、イエスは徴税人マタイを召
し、十二年間出血が続いていた女性の病を治し、死ん
だ少女を生き返らせました。
イエスのこの言葉を、私たちは心にとどめましょう。
「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえでは
ない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。
現代の私たちの社会にも、直接的に命を奪うという
ことはないにしても、自分たちの身の保身のために、
他者をいけにえにすることが行われている側面があり
ます。
たとえば、人が人を差別したり、仲間外れにする意
識の根底にあるものの一つは、「誰かをいけにえにして、
自分たちは安全な場所にいたい」というものだと思い
ます。しかしそういった自己保身の中に、真の喜びは
ありません。
神が求めるのは憐れみであって、いけにえではない
ということを、私たちはこの人生の道のりの中で知っ
ていくことが大切です。そしてまた、私たちは自分自
身のこともいけにえにしてはならないのだと思います。
神は、自己犠牲だけであなたの人生が終わるのでは
なく、あなたが自分自身の人生を生き生きと喜びにあ
ふれて歩んでいくことを望まれています。
私たちは、神のゆるしと愛のうちに、私たちの心を
神に明け渡し、希望と喜びをもってこの地上での時を
共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、私たちがいつもあなたの御心のうちに、日々
を歩んで行くことができますように、力をお与えくだ
さい。私たちが隣人を大切にし、また自分自身を大切
にして生きていくことができますように。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン











