諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
本日の福音書は、イエスが当時の子供の遊び歌をた
とえに用いる場面から始まります。これは、「笛吹け
ども踊らず」ということわざの由来となっている言葉
です。その意味は、人に何かをしてもらおうと働きか
けても、相手が動いてくれないというものです。
イエスがたとえに用いた子供の遊び歌は、次のよう
なものでした。「笛を吹いたのに、/踊ってくれなかっ
た。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかっ
た。」
この歌が表しているのは、結婚式ごっこをして笛を
吹いても他の者が乗ってこず、お葬式ごっこをしても
嘆き悲しむ真似をしてくれないから、結婚式ごっこや
お葬式ごっこが成り立たないということです。
イエスは、今の時代が、このように自分の要求を相
手が受け入れてくれないと不満を言い合っている子供
たちの姿に似ていると言い表したのだと思います。
「結婚式」と「葬式」は、対照的なものです。そして
また、本日の福音書でイエスが言及する洗礼者ヨハネ
も、イエスとは対照的な人物でした。洗礼者ヨハネは
禁欲的で、荒野でいなごや野蜜を食物とし、常に断食
に近い生活をしていました。他方でイエスは、人と共
に食事や宴会を楽しみました。人々は、食べも飲みも
しないヨハネを「悪霊に取りつかれている」と中傷し、
徴税人や罪人とされる人々とも一緒に食事をしていた
イエスを「大食漢で大酒飲み」だと中傷します。どち
らにせよ批判し、拒絶して受け入れようとしないので
す。
大きなことから小さなことまであらゆる領域におい
て、私たち人間にとって「受け入れる」ことは案外難
しいことです。私たちは、どうしても自分の価値観や
偏見に基づく判断をしてしまいがちです。受け入れて
いるつもりでも、心から受け入れているわけではない
ことも多いでしょう。
自分の思い通りに相手がしてくれないと不満を言い
合っている子供のように、神がメシアの先駆けとして
遣わした洗礼者ヨハネのことも、そしてメシアとして
来られたイエスのことも、人々は自分の期待とは違う
と言って受け入れなかったのです。
ですが、人々から拒絶され、受け入れられないこと
のみで終わるのではないと、イエスは次の言葉で表し
ます。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって
証明される」(マタイ11:19)。
ここで言われる「知恵」とは、「神の知恵」を意味
します。旧約聖書の箴言[しんげん]8章1節にこうあ
ります。「知恵が呼びかけ/英知が声をあげているでは
ないか」。
旧約聖書における「知恵」とは、人間の持つ知識で
はなく、知恵それ自体が独立して命を持ち、人々に語
りかけ、何事かを実現していく、神の力に溢れた能動
的な存在として記されています。
そして、知恵は自らを「わたし」と呼び、人間にこ
う語りかけていくのです。「人よ/あなたたちに向かっ
てわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは
声をあげる」(箴言8:4)。
この知恵は、神の御子である主イエス・キリストと
結びついています。パウロは、自らの伝道を、神の力、
神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのだと言い
ました(コリントの信徒への手紙一1:24)。
ヨハネ福音書1章5節にこうあります。「光はやみの中
に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。
暗闇は、私たち人間の心の中にもあります。どんなに
明るく見える人にも、心のどこかに暗闇があるのだと
思います。しかし闇の中でこそ、光は輝き、際立つの
です。生きることの新たな可能性は、闇の中から生じ
る光から生まれてくるのです。
イエス・キリストはまことの知恵であり、闇の中に
輝く光です。そしてそれは、イエス・キリストの業や
言葉によって証明されるのです。
イエスはこう言いました。「疲れた者、重荷を負う
者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ
げよう」(マタイ11:28)。これは聖書の中で、もっと
も有名な言葉の一つだと思います。
この言葉から思い起こされる次の聖句があります。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないよう
な試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それ
に耐えられるよう、逃れる道をも備えていてください
ます」(コリントの信徒への手紙ー10:13)。
ここには、神が私たちに「逃れる道」、すなわち
「逃げ道」を備えてくださっていることが語られてい
ます。一般的に、「逃げる」という言葉にはマイナス
のイメージがあるかもしれません。けれども神は、私
たちに「逃げてよい」と言ってくださっているのです。
むしろ「逃げる」ことが、私たちにとって重要な時が
あるのです。
旧約聖書には「逃げる」場面がたくさん出てきます。
勇敢に立ち向かうというより、むしろ、逃げ続ける人
物たちの姿がそこにあります。しかしその「逃げ道」
が、同時に、「神への道」につながっているのです。
旧約聖書の詩編に、「避けどころ」という言葉が出
てきます(詩編46:2)。困難に遭遇した時、逃げ込む
ことができる場所、そうして自分を守ってくれる場所
です。神ご自身が、私たちの「避けどころ」なのです。
そして、私たちが逃げ込むことのできる「避けどこ
ろ」とは、新たな世界への入り口でもあるのだと思い
ます。
どういうわけか私たち人間は、喜びや楽しさだけを
感じるようには造られていません。過去を振り返って
悔やんだり、未来のことに不安になったり、人と自分
を比べて落ち込んだり、ありとあらゆる否定的な思い
をもつのが、創造主である神が造られた私たち人間で
す。
しかし、憐れみ深く慈愛に満ちた神は、どんな時も、
あなたの「避けどころ」となって「逃げ場」をつくっ
てくださっているのです。
本日の福音書で、主なる神への祈りにおいて、イエ
スはこう祈りました。「天地の主である父よ、あなた
をほめたたえます」(25節)。イエスにとって、祈りと
は何よりもまず賛美でした。これは、祈りの本質であ
ると思います。何かを神に願うことも祈りですが、祈
りとはまず神を賛美することなのです。
そして、私たちは苦しみの中にいる時こそ、神をほ
めたたえ賛美しましょう。日々の生活の中で心と身体
が疲弊して、神をほめたたえる力が自分には残ってい
ないと思える時も、主イエス・キリストがあなたと共
に神をほめたたえ賛美してくださっていることを、い
つも心に覚えていてください。
詩編102編19節にこうあります。
「主を賛美するために民は創造された」。
私たちの人生において、何よりも重要な私たちの務
めは、神をほめたたえ賛美することなのだと知る時、
私たちは、あらゆる苦悩や思い煩いから解放されるで
しょう。
私たちは、主イエス・キリストの御名のもとに、い
つも喜び、祈り、神を賛美しながらこの地上での時を
共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、いつも私たちと共にいてくださりありがとう
ございます。夏の暑さの中も、冬の寒さの中も、私た
ちが今ここに生かされていることに喜び感謝して、日
々を歩んでいくことができますように。あなたのゆる
しと愛によって、私たちが隣人を大切にし、自分自身
を大切にしながら生きていくことができますようにお
導きください。御子イエス・キリストの御名によって
祈ります。
アーメン







