諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
現代ではあまり使われませんが、微行(びこう)
という言葉があります。これは、身分の高い人が、
自分の本当の姿や身分を隠して出歩くことを意味
します。それは、地上での歩みにおいて、徹底して
貧しい僕(しもべ)の姿をされたイエス・キリスト
にも当てはまる言葉だと思います。また、私たちの
社会において、魂において崇高で気高い人々が、不
遇な状況で目立たず、社会の底辺に埋もれた微行者
(びこうしゃ)であることが多くあるでしょう。
地上でのイエスの道のりは、強くて華々しい救世
主を望む人々にとって、期待外れのものでした。そ
れは、イエスの弟子たちからでさえも、見損なわれ、
誤解されるような、僕(しもべ)としての歩みでした。
イエスは、十字架にかけられた時、人々から罵
(ののし)りを投げかけられました。「十字架から降
りて自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分
は救えない」(マルコ15:29-31)。
イエス・キリストは、人を救うためには奇跡を行っ
ても、自らを救うためにはこれを行いませんでした。
キリスト者の内村鑑三は、人を助けるための不思議な
力 —— 異能を備えたイエス・キリストは、自己を救う
ためには全然無能であったと述べています。
弱い者を救うためには風をも叱咤してこれを止める
ことができたイエス・キリストは、自らを脅かす敵の
前では、これに手向かおうとして指一本さえ挙げるこ
とができなかったのです。
キリストの奇跡よりもさらに不思議なものは、キリ
ストの無私の心であり、この心があってこそ、初めて
キリストの奇跡の業が行われたのであると内村鑑三は
言いました。
本日の福音書は、イエスが十字架の死の直前に弟子
たちに語った教えの一部です。これは弟子たちとの別
れの説教であるゆえ、「告別説教」とも呼ばれています。
まずイエスは弟子たちに「心を騒がせるな」と言い
ます。「騒がせる」の原語であるギリシア語「タラッソ
ー」は、水が掻き立てられる動きを意味します。
「あなたたちの心は、かき乱されてはならない」とイ
エスが弟子たちに伝えたこのことは、現在の不安定な
社会情勢の中を生きる私たちの心にも、力をもって働
きかけてくる言葉だと思います。
イエスはこう続けます。「神を信じなさい。そして、
わたしをも信じなさい」。イエスは、十字架の死が目前
に迫る中で、ご自分との別離によって弟子たちに生じる
であろう不安と動揺を、神とイエスとに信頼することで
克服するように弟子たちに伝えます。到来する苦難の中
で、神への信頼を強めることを、イエスは何よりも求め
ます。
現代においても、あまりにも悲惨で絶望的な出来事が
世の中には数多くあり、神がいるならどうしてこのよう
なことが起きるのか、神の救いはどこにあるのかという
気持ちになることがあるでしょう。しかし、そんな私た
ちに、イエスは「あなたがたのために場所を用意してお
く」と約束してくださっているのです。恐れと不安と迷
いの中で翻弄される私たち人間を、天の国に居場所を持
ち、神の平安の家に迎え入れられる存在としてくださっ
たのが、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。
パウロは、神が人間の罪を取り除くために、御子イエ
スを罪深い人間の肉体と同じ姿でこの世に送り、罪を罪
として処断したのだと言いました(ローマ8:3)。イエス
は、人間の姿をもってこの世に降り、私たちの罪の赦し
と、救いと、平安のために、私たちと同じ肉体をもって
十字架上で苦しまれ、罪の贖(あがな)いをしてくださ
いました。
フィリピの信徒への手紙で、イエス・キリストの生涯
を要約した次の言葉があります。「かえって自分を無にし
て、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人
間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十
字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:7-8)。
イエスを本当に見ることは、弱々しい僕のイエスの姿
の中に、真の救い主である神の子キリストの姿を認める
ことでした。しかし、それはイエスの弟子たちにとって
も容易ではありませんでした。僕イエスの姿は、弟子た
ちにとってもつまずきでした。だからイエスは、こう言
われるのです。「わたしにつまずかない人は幸いである」
(マタイ11:6、ルカ7:23)。
人が求め期待するのは、もっと豊かに、もっと華々し
く、もっと高いところへという、上昇していく道です。
しかしイエスの道は逆であり、天から地へと下る道、神
が人となり、富める者が貧しくなり、高きにいます方が
この世の最低地点にまで下られる道です。
しかしそれだけではなく、イエスの道は同時に、人を
神へと結びつけ、仲介する道です。イエス・キリストは
天と地と、神と人との間に架け橋をつなぐ方なのです。
イエスは、この地上において、神と人との仲介者として、
天と地の仲介者としての道を歩まれました。
仲介者とは、本人自体はそれほど目立たない存在だと
思います。しかし、優れた仲介者の存在によって、両者
の関係は正しく築かれ、大いなる調和と平和が生み出さ
れていくのです。そして、イエスの道を歩む者たちもま
た、仲介者としての役割を委ねられていることを、私た
ちは心に覚えておきましょう。
さて、早いもので、もう5月に入りました。
あなたには、あなたに害を与えてくる存在として、と
てつもなく脅威と憎しみを感じていた相手のことが、突
如、ちっぽけで憐れな存在に思える時が来るかもしれま
せん。
「憐れに思う」ことは、赦しへの始まりです。敵を
「憐れに思う」ことは、凝り固まった憎しみや、決して
許すことのできない気持ちを解きほぐしてくれるものな
のだと思います。
イエス・キリストは、ご自分を十字架につけた者たち
に対して、憎しみではなく、限りない憐れみを感じてお
られました。
私たちが、イエス・キリストから与えられた赦しと愛
と憐れみによって、憎しみを赦しに、失望を希望へと転
換させることができますように。
私たちの内が、イエス・キリストの愛に満たされ、喜
びをもって日々を生きていくことができますように。
主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。
現代では
イエスは



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