諏訪教会の礼拝は、毎日曜日、午後3時から始まります。
新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
マスクを着けて、ぜひお出かけください!
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、
あながたにあるように。 アーメン
今日、私たちが分かち合った福音書はいわゆる山上の説教と言われるところです。先ほど読んだところをもう一度繰り返し読みます。マタイによる福音書5章3節から。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」
これまで、山上の説教を読みながら、キリスト・イエスは一体何を見ているのであろうかといぶかしんで思ったことがありました。心の貧しい人々が幸い、悲しむ人々は幸い、これらの言葉がこれまで私の心になかなか入ってきませんでした。なぜ主イエスはこのようなことを言われたのか。この山上の説教で言われていること自体が私には分からなかったのです。主イエスは軽い気持ちで、安易な思いで、心の貧しい者、悲しむ者に慰めを語られたのではないだろうかと、私はこのみ言葉に心を聞くことができませんでした。
主イエスは弟子たちをわざわざ集めてこのみ言葉を語られました。弟子たちの背後には、ユダヤの民衆がいたはずです。主イエスは、貧しい生活が骨の髄まで染みている民衆の生活をよく分かっていました。主イエスご自身も大工の仕事をして、生活の貧しさと厳しさを深く味わっていました。そのことをふまえて読んでみると、この山上の説教は決して軽い意味での慰めではなく、少し違う言葉であると思います。
主イエスが弟子たちに語られたこの山上の説教に、皆さん、「主イエスに従うならば」との言葉をつけ加えて読んでみてください。
「主イエスに従うならば、心の貧しい人々は幸いである。主イエスに従うならば、悲しむ人々は幸いである。主イエスに従うならば、柔和な人々は幸いである。」
少し読んだ後のフィーリングが変わるのです。主イエスは私たちの人生が、困難で覆われていることをよくよくご存じです。一人一人の人間の困窮した状態をふまえた上で、主イエスはあなたがもし、私、主イエスに従うならばとの思いを添えて、この慰めを弟子たちやユダヤの民衆に向けて語っているのだと私は思うのです。主イエスに従うならばとの言葉を加えて読むだけで、この言葉の真意がより伝わってくるように思います。
この人生、どのような困難を味わうとしても、主イエスが同伴してくださるならば、なんと幸せな歩みでしょうか。どのような不条理や人間関係の軋轢を味わったとしても、主イエスが共に歩みを揃えてくださるならば、なんと幸せな歩みでしょうか。
主イエス・キリストに全てを委ねて歩んでいく献身の思いで人生を生きている私たちです。このお方に従って人生の苦楽を味わうのならば、その苦楽はそもそも望むところなのです。このお方に従うのならば、貧しい人生、悲しみの人生、義に飢え渇く人生、どのような人生にも、主の慰めと、主がもたらす希望が、確かに備えられているのです。だからこそ、主に従いつつ私たちは安心してこの世の歩みを続けていきたいと思います。
主イエスに従うのならば、この歩みには必ず主の祝福が伴います。私たちは主に従い、人生のもっともっと深いところで本当の喜びを見いだしていくのです。私たちは人生を諦めることなく、前を向いて、日々の生活の深いところを見つめていき、神の祝福が、尽きることのない神の恵みが、豊かに私たちに注がれていることに気づいていくのです。
この人生、神の恵みを本当に実感することを求めるのならば、自分の過去を振り返ることが大切だと思います。これまでの人生を、これまでの自分の過去の歩みを、真摯に振り返ってみたときに、私たちは改めてこの人生に神の恵みが豊かに注がれてきたことを発見するのではないでしょうか。このことは大切なことです。神の恵みを見出そうとするならば、自分の人生のこれまでの歩みを振り返ることです。自分のこれまでの歩み、その歴史を思い返すときに、そこにこそ神の恵みが豊かに注がれていたと、私たちは気づくことができるのではないでしょうか。私は、神の恩寵を実感するためには、自分自身のこれまでの人生と生活を振り返ることが大切だと思います。
主イエスの山上の説教を今日は黙想してきました。苦労を重ねつつ歩むこの人生、主イエスに従う道を歩むからこそ、心の貧しい人々、悲しむ人々は、その人生の歩みの上で慰めを見出していくことができるのです。主イエスに従うこの道は、徹底的に神に祝福されている人生です。私たちはこれからも前を向いて、主イエスを仰ぎつつ、この人生をこつこつと積み重ねるように歩いていきたいと思います。
諏訪教会に集うお一人お一人の上に、今日も変わらぬ神の恵みと慰めが注がれますようにお祈りしております。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン
新型コロナウィルス感染の拡大を考慮し、
マスクを着けて、ぜひお出かけください!
クリスマスは教会で・・・!
クリスマス・キャンドル礼拝
2022年12月24日(土) 19時~
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
今夜はクリスマス・イヴ燭火礼拝です。先ほどお読みした聖書の箇所は、あるクリスチャンの言葉によると、天の御使いや天使たち、そして天の大軍勢が大きな声で讃美しているところであると言います。私たち、地に住む人間の喜びだけではありません。主イエス・キリストが赤ちゃんとしてお生まれになったこと。それは私たち人間よりも、天での喜びの方が大きいというのです。つまり、この聖夜、救い主キリストのご降誕は天にどよめくような喜びをもたらし、歓喜と讃美、栄光が溢れたひと時でありました。
この聖夜、神の独り子主イエス・キリストは貧しい馬小屋でお生まれになりました。ルカによる福音書によると、これは皇帝アウグストゥスの治政の頃であったと書かれています。ローマ帝国が栄えていた時代です。アウグストゥスは、世俗の王として、金や銀、権力、富に囲まれ、大きな宮殿に住んでいました。
他方で、幼子イエスは貧しいマリアとヨセフのもとでお生まれになりました。皆さん、今日の福音書でアウグストゥスと幼子イエスの降誕がまるで対比するかのように書かれていたことに気づいたでしょうか。
世俗の権力者アウグストゥスはローマ帝国の圧倒的な王でありました。いつの時代もそうですが、権力者は民衆に税をかけて搾取し、自らの繁栄を永遠に続かせるために、人々を武力で支配し、その力を誇示するものです。
しかし、福音書はアウグストゥスと比較しながら、貧しい、貧しい馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれの赤ちゃんイエスをえがきます。ここで本当に人間の罪を背負い、最後には十字架にかかり私たちを贖う救い主が、実は最も貧しく、弱く、みすぼらしい姿であらわれたことを福音書は告げているのです。
主イエス・キリストは、この聖夜、この世的な価値観では何の尊ばれることもない、貧しい馬小屋の飼い葉桶のなかで静かにお生まれになりました。
今夜の福音書はこの世の価値観と聖書の見方が大きく異なることを示しています。この世の価値観では、大きいことや力があること、富があること、人から賞賛されること、これらのことが推奨されています。私たちはどうしても大きいことや、力のあることを求めてしまうものです。
しかし、聖書の世界は逆の真実を告げます。かえって、この世では貧しいこと、みすぼらしいこと、弱いこと、力がないこと、そこにこそ神からの豊かな恵みが注がれていることを語るのです。
神のみ子は貧しさのただ中でお生まれになりました。しかし、その貧しさの中に神の恵みが溢れるほどに注がれました。神の恵みや憐れみ、慰めは、人間の貧しさのなかでこそはっきりと現れたのです。私たちは神の圧倒的な恩寵が、人間的な低さや貧しさの中でこそ、溢れるほどに注がれたこの聖夜の出来事を、今晩、覚えておきたいのです。
貧しさ、弱さとは人間を本当の意味で謙虚にします。私たちは貧しいことから自分の身の丈を知らされます。貧しいことから隣人と分かち合うことを学びます。それ以上に、私たちは、貧しいことから、天から雨のように注がれる豊かな恵みと慈しみに生きることを学ぶのです。私たちは、貧しさの中でこそ、自分の力に頼らず、ただひたすら神の恩寵に依り頼み、神から祝福されて生きる信仰者の生き方を学ぶのです。今晩、神の御子のご降誕は、まるで奇跡のように、ベツレヘムの馬小屋で、貧しいマリアとヨセフのもとでなされたのです。
最後に、今夜の福音書の貧しい羊飼い達のことにふれます。羊飼いは当時、職業として蔑まれていました。しかし、この喜びの知らせは、野宿をしていた羊飼いに一番初めにもたらされました。神の憐れみはやはり、この世で貧しく弱い立場にいる人々に注がれたのです。主イエス・キリストのご降誕、その喜びは、この社会で虐げられ、見過ごされていた羊飼いたちに福音として告げ知らされました。この出来事から、私たちは貧しさの中にこそ、やはり神が共におられることを知るのです。
世俗の王であるアウグストゥスの治政は栄えたとしても十数年であったことでしょう。しかし、主イエス・キリストのご降誕からもたらされた神の愛と平和の福音は、この後、二千年たった今日でも、貧しく弱い人間に、繰り返し、繰り返し、喜びとして告げ知らされています。
この聖夜、教会にお越し下さった皆さんの上に神の祝福と、喜びが豊かにありますようにお祈りしております。皆さんの上に今宵、神の愛と平和がありますように。メリー・クリスマス。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン