2026年9月6日日曜日

9月13日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります











教会は、誰でも自由に来ることができます。
    私たち諏訪教会は、
 いつでもあなたをお待ちしています。


★ 主日の祈り

憐れみ深い、裁き主である神様。

あなたの赦しは、泉のごとく尽きることがあり

ません。

私たちの石のように頑なな心を、あなたを愛し

敬う心に置き換え、み旨を喜んで行うことがで

きるようにしてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)創世記 

       50章15節~21節                                                                       (新約聖書)ローマの信徒への手紙

       14章1節~12節
(新約聖書)マタイによる福音書    

       18章21節~35節












 
 




「 ゆるし  」

       秋久 潤 牧師 


 ドイツの神学者であり牧師のディートリッヒ・ボン
へッファー(1906 - 1945年)という人がいました。
ボンヘッファーは、ナチスの支配に抵抗したことで処
刑され、殉教した牧師としても知られています。
 ボンヘッファーは37歳の時、ナチスから迫害されてい
るユダヤ人の亡命に協力したなどの理由によって逮捕
されます。しかし、ボンへッファーは、囚人として拘
束されている状況においても、周囲の囚人たちや、監
視の兵士までにも魂の導き手である牧者としての働き
をして、人々から信頼されました。
 そのことが、ボンヘッファーが牢獄の中で書いたキ
リスト教の神学にまつわる思想を、外部の同志に伝え
ることを可能にしました。それによって、ボンヘッ
ファーの獄中での思索が明るみに出て、後世に残った
のです。
 ボンヘッファーが獄中から友人に宛てた手紙の中
に、このような言葉が綴られています。「私たちの喜
びは苦難の中に、私たちの生は死の中に隠れていま
す」(1944年8月21日)。
  逮捕されてから2年後、ボンヘッファーが39歳の
時、彼がヒトラー暗殺計画に関わったことが発覚して
ボンヘッファーは死刑判決を受け、その翌日に処刑さ
れることになりました。  
 絞首刑が執行される前に、ボンヘッファーは最後の
祈りをささげ、こう言いました。「これが最後です。
私にとってはいのちの始まりです」。 
 ボンヘッファーは肉体の生死を超えたところに、
「まことの生」「まことのいのち」を見ていたのだと
思います。
 本日、私たちに与えられた福音書は、マタイによる
福音書18章21節から35節です。ボンヘッファーは、
1935年11月7日、29歳の時に、この箇所の説教をした
ことがありました。
 本日の福音書は、弟子のペトロがイエスのところに
来て、こう尋ねる場面から始まります。「主よ、兄弟
がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきで
しょうか。七回までですか」。
 当時、ユダヤ社会では、アモス書1章の言葉をもと
にして「赦しは三回まで」と考えられていました。三
回までは赦しても、四回目は、もはや赦されるべきで
はないということです。
 ペトロは、三回どころか、七回まで赦すべきですか
と言って、イエスに「立派だ」と認められたい気持ち
があったのかもしれません。しかしイエスはそんなペ
トロに「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」
と答えたのです。
 7の70倍は490であり、途方もない回数です。そして
これは、490回までは赦して491回目からは赦さなくて
もよいという意味ではありません。これは、何度でも
無制限に赦しなさいということです。相手が何回罪を
犯し、自分が何回赦したかを数えているような心は、
およそ真(しん)の赦しから程遠いのだということだ
と思います。
 そしてさらにイエスは、ペトロに天の国のたとえ話
をしました。このたとえ話は、ある王が、家来たちに
貸した金の決済をしようとするところから始まります。
 王は家来の一人に、一万タラントンのお金を貸して
いました。一万タラントンとは六千億円ほどであり、
私たちの想像を絶する金額です。この家来は、一生を
かけても絶対に返すことのできない多額の借金を負っ
ていたのです。
 家来は「どうか待ってください。きっと全部お返し
します」としきりに王に願います。王は、その家来を
憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてあ
げました。
 ここでの王は、私たちにとっての神を表しているこ
とは明白です。神は、私たちが一生かかっても返しき
れないほどの借金、すなわち罪や過ちを赦してくださ
るお方なのです。
 しかし、このたとえ話はここで終わりません。あり
がたい恩赦を王から受けたこの家来は、その大いなる
恵みを活かすことができなかったのです。
 彼は釈放された後に、今度は自分がお金を貸してい
る仲間に出会います。仲間に貸している借金は、100
デナリオンという約100万円の金額であり、金額とし
ては大きいものの、自分が王から帳消しにしてもらっ
た金額のわずか60万分の1の額でした。しかしこの家
来は、借金を返せない仲間を赦さず、牢に入れます。
神に赦された者が隣人を赦せないのです。大きな赦し
が与えられたのに、それをすっかり忘れてしまう人間
の姿がここにあります。
 ボンヘッファーが、この福音書箇所の説教の中で、
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回
赦すべきでしょうか」というペトロの問いにイエスが
返答している形をとって、それについて語っている部
分があります。
 彼の説教のその部分をお読みしますので、信義のた
めに自らの命をキリストにささげた、ボンヘッファー
の心と魂、そしてイエス・キリストを感じながら聞い
てみてください。では、お読みします。
 「ペテロよ、数えてはならない。そうしないで、数
限りなく、赦すがよい。いつまでという問いに悩まさ
れず、無限に、ペテロよ、無限に、赦すがよい。それ
が赦しなのだ。—— そして、それがあなたに対する恵
みなのであり、そうすることのみがあなたを自由にす
るのだ!  
 一回、二回、三回、とあなたは数える。そのため
に、事態はあなたにとって、だんだんと威嚇的にな
り、兄弟への関係は、だんだんと悩み多きものとな
る。あなたがなおも数えている限りは、繰り返し繰り
返し、他人の昔の罪を数え上げているのであって、実
際には、まだ、—— まだ一度も! —— 赦してなんか
いないのに、実際、あなたは何も気がついていないの
か。数えることから、ペテロよ、自由になれ。赦しと
許しは、数も終りも知らないのだ。あなた自身の正し
さに心を煩わす必要はない。それは神の所にたくわえ
られているのだ。無限に赦すがよい! 赦しには、初
めもなく、終りもない。赦しは、日ごとに、絶え間な
く、起こるのだ。赦しは神から来るからだ。」
(『ボンヘッファー説教全集3  1935-1944年』)
 ボンヘッファーの死後、81年が経ちましたが、今も
なお、ボンヘッファーが残した言葉は、この地上で生
き続けています。
 さて、9月も半分が過ぎようとしています。先日、
外を歩いていた時、赤トンボが飛んでいて、秋の気配
を感じました。
 人は、神と共に生きている。
 こういった言葉は、私たちが耳で聞いたり、文字で
目にしたりして、これまで何度も触れてきた言葉で
しょう。
 しかし私たちはこのことを、外から入ってくる概念
としてではなく、自分自身の心の底から感じる時があ
るのだと思います。
 人は、神と共に生きている。
 それを心の底から感じた時、私たちは自分の過去・
現在、自分の全人生においての、測り知れぬほどの神
の祝福と愛に気づくことができるでしょう。
 神が私たちを赦してくださるように、私たちも隣人
と自分自身を赦しながら、この地上での時を、希望と
喜びにあふれて共に歩んでいきましょう。

お祈りをいたします。

 神様、御名を賛美いたします。私たちが、あなたか

ら与えられたいのちを輝かせながら生きていくことが

できますように、力をお与えください。私たちの心が、

あなたの愛をそのまま映し出し、あなたの愛によって

隣人と自分自身を赦し愛することができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン


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