諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後3時から始まります
秋久 潤 牧師
心理学者のカール・グスタフ・ユングはこう言いま
す。「われわれの生まれてきた世界は、無慈悲で残酷
である。そして同時に、神聖な美しさをもっている」。
世の中には、まるで愛を感じさせられない出来事
がたくさんあります。生身の人間の心よりも、目先の
利益や効率を優先させ、人を切り捨て、人の心を踏み
にじるようなことがあちらこちらで起きています。
私たちは誰もがいつの日か、この地上での生を終え
ます。自分も他者もいつかは死す運命にあるのだか
ら、この世にせっかく生まれてきた隣人をもっと大切
にすれば良いのに、それがなかなかできないのが、罪
人である私たち人間の姿です。
しかし、どこかで愛は、確かに存在しているので
す。この世に全く愛がなければ、この世はとっくに滅
びているでしょう。岩だらけの殺伐とした荒野の中
に、光を放つダイヤモンドが散りばめられているかの
ように、無慈悲で残酷な側面を持つこの世界にも、確
実に愛は存在しているのです。
ユングはこうも言います。「けれども、愛がわたした
ちに本当に報いてくれるのは、わたしたちが真剣に愛
を受け止めたときだけなのです」。
愛は、単独でただそこにあるだけでは成り立たない
のだと思います。「愛の効果」が発揮されるのは、私た
ちがその愛を真剣に受け止めたときなのです。
本日の福音書では、「種を蒔く人のたとえ」がイエス
によって語られています。蒔かれる種は、「神の言葉」
を表しています。それは「神の愛」と言い換えること
ができるでしょう。そして、種が蒔かれる土壌とは、
神の言葉・神の愛が蒔かれる「私たち人間の心」のこ
とです。
イエスは、ある人が蒔いた種のそれぞれの行方につ
いて、四つの例を用いて語ります。一つ目の種は道端
に落ち、鳥が来て食べてしまいます。二つ目の種は石
だらけで土の少ないところに落ちます。植物は地上に
見えている部分の何倍もの長さの根によって支えられ
ています。
ゆえに土の少ないところに落ちた種は、すぐ芽を出
すものの土が少ないため根を張ることができず枯れて
しまいます。三つ目の種は茨の間に落ち、茨が伸びて
それをふさいでしまいます。四つ目の種だけが、良い
土地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは
六十倍、あるものは三十倍にもなったのです。
道端に落ちたり、石だらけのところや茨の中に落ち
たりと、この種の蒔き方は、私たちからすると非効率
で無駄な蒔き方に思えるかもしれません。効率良く収
穫を得たいのならば、最初から「良い土地」だけを選
んで種を蒔けば良いのにと思えてしまうでしょう。で
すが、当時のパレスチナでは、これは通常の種蒔きの
方法だったようです。農夫は腰につけた種の袋に手を
入れて、勢いよくパーッと種を蒔き、種はところかま
わず落ちていきます。そしてその後に土を耕すので
す。
イエスがこのたとえで示したように、神はどこにで
も種が蒔かれることを望まれています。効率や損失な
どには気を留めず、おおらかに種を蒔き、実りを期待
します。種を蒔く人は、土地に優劣をつけて種を蒔く
わけではありません。
私たちがどのような嘆き・悲しみ・苦しみの中にあ
る時も、神は私たちに根気よく御言葉の種を蒔き続け
てくださっています。たとえなかなか実りに至らなく
ても、神は愛と慈しみをもって私たちの心に種を蒔き
続けてくださいます。
それを受け止める私たちの心は、鳥が来て種を奪っ
てしまう道端のようだったり、石地のように浅かった
り、茨にふさがれてどうしようもなくなっていること
もあるでしょう。しかし、その中で私たちが、御言葉
を聞いて悟る者となることを、主は愛と慈しみをもっ
て待ち望んでくださっているのです。
イエスの語ったこのたとえの中で、キーワードとな
る言葉は、「御言葉を聞いて悟る人」ではないでしょう
か(23節)。
「御言葉を聞いて悟る」とは、どういうことでしょう
か。それは、聞いた言葉と自分の心がひとつとなり、
それを何らかの形で具現化していくことだと思いま
す。
アッシジの聖フランシスコは「人間というものは、
具体的に実行することだけを、本当に知っているとい
えるのである」と言いました。それは、「聞いたこと
のあるもの」として知っているだけでは、本当に知っ
ているとは言えないということです。御言葉を聞いて
悟るとは、土に蒔かれた種が土と一体になるように、
御言葉を自らの心の奥に受け入れ、御言葉とひとつに
なり、自分自身の日常を通してその実を結ぶことなの
だと思います。
礼拝の中で、聖書を朗読する前に「御言葉を聞きま
しょう」と司式者が言います。ある方が、「御言葉を聞
きましょう」というその言葉を聞くと、それだけで心
が豊かになる思いがすると言われていました。「御言葉
を聞きましょう」という言葉を毎回聞き続けているだ
けで、心が深く豊かになり、心の中に何かが芽吹いて
くる感じがするということでした。「御言葉を聞く」
というこの言葉自体が、大きな力を持っていることを
改めて感じさせられました。
イエスがこのたとえの中で語られている「種を蒔く
人」とは、神の代理人として、神の言葉・神の愛を人
々に伝える者のことです。キリストの弟子と言うこと
もできるでしょう。ですから私たちは、神から種を蒔
かれる側でありながら、同時に「種を蒔く人」となる
ことができるのです。
この世の中が無慈悲で冷酷で愛のない場所だと感
じ、生きる中で、この世が嫌になることもあるかも
しれません。「厭世観(えんせいかん)とは、「この
世は不幸や不条理に満ちており、生きる価値や意味
を見出しにくい」という、世に対する失望を表す言
葉です。誰もが多かれ少なかれ、このような厭世観
を感じたことがあるのではないでしょうか。
しかし、そのように感じられる世の中においても、
自分自身が人々に愛の種を蒔く者となれば、そこか
ら愛と光が広がっていくのです。
さて、梅雨はまだ完全には明けていませんが、最近
は青空が広がる日も多くなってきました。
私たちは、神のゆるしと愛のもとに、この世に神聖
な美しさを見出しながら、この地上での時を共に歩ん
でいきましょう。
お祈りをいたします。
神様、いつも私たちと共にいてくださりありがとう
ございます。あなたから与えられる愛と恵みを、私た
ちが日々のほんのささやかなことからでも気づくこと
ができますように。私たちが隣人を大切にし、あなた
と隣人から与えられる愛を、感謝して心から受け取る
ことができますように。主イエス・キリストの御名に
よって祈ります。
アーメン



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