2024年9月15日日曜日

9月22日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

私たち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています。











つらいことがある方や、誰かに話を聞いても
らいたい方、このページの下の「コメントを
投稿」にご連絡ください。秘密は守ります。
お電話を希望する方は、
090-6461-5960(牧師直通)です。
名乗っていただかなくても大丈夫です。
キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま
いません。










★ 主日の祈り

導きの主である神様。

あなたは私たちをみもとに引き寄せ、愛する子

して受け入れてくださいます。

(そね)みと野心をことごとく捨てて、御子の僕

となり、あなたの知恵の道を歩むことができます

ように助けてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書

       35章4節~7                                             

(新約聖書)ヤコブの手紙 

       2章1節~17節  

(新約聖書)マルコによる福音書    
       7章24節~37節

わたしの名のために
このような子供の一人を
受け入れる者は、
わたしを受け入れるのである。












「 鈍感な人々 

          浅野 直樹 牧師

2024年9月8日日曜日

9月15日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

わたしたち諏訪教会は、
いつでもあなたをお待ちしています












つらいことがある方や、誰かに話を聞いても
らいたい方、このページの下の「コメントを
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キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま
いません。









  甲信地区一致礼拝


本日の礼拝は、甲信地区一致礼拝です。
毎年1回、甲信地区5つの教会(長野教会・
松本教会・諏訪教会・飯田教会甲府教会)が、
WEBで一緒に礼拝を行います。
今回は、飯田教会からの配信でした。







★ 主日の祈り

主なる神様。

あなたは、御子が受けられた苦しみと拒絶によって

救いをもたらし、十字架の栄光で私たちを造り変え

てくださいます。

福音のため悪の誘いから離れ、十字架を負って御子

に従うことができますように導いてください。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書

       50章4節~9節a                                             

(新約聖書)ヤコブの手紙 

       3章1節~12節  

(新約聖書)マルコによる福音書    
       8章27節~38節

わたしの後に従いたい者は、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、
わたしに従いなさい。















「 キリストに従う 

          朝比奈 晴朗 牧師


   みなさんは「闇バイト」という言葉を耳にした
ことがあると思います。インターネット上に「多
額の報酬が期待できる」と甘い言葉で募集をかけ
るアレです。「バイト」という名称のせいで気軽
に手を出す者もいますが、闇バイトの組織に接触
したが最後、運転免許証や保険証のコピーを取ら
れ、裏切ったら家族に危害が及ぶぞと脅された上
で、いわゆる「オレオレ詐欺」の手先になって、
高齢者から老後の蓄えを奪い取ったり、強盗や、
もっと悪質な犯罪の片棒を担ぐハメになります。
 組織が摘発されればトカゲの尻尾切りのように
切り捨てられて逮捕され、結局人生を壊されてし
てしまうのです。そんなことになる前にどうして
踏み止まれなかったのか、とも思いますが、「闇
バイト」に手を染め捕まった若者の大半は、信頼
のおける大人が周りにいないことが多いようです。
 今日お読みいただいたイザヤ書50章には「主
なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人
を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる」と
書かれています。またヤコブの手紙には「舌を制
御しなさい」つまり「言葉を慎重に誠実に使いな
さい」と書かれています。
 情報の洪水の中で何が正しくて何が危ないのか
見極めながら生きていく必要のある私たちだから
こそ、迷える人、苦しんでいる人に声をかける時
も、自分の常識を押し付けるような頭ごなしのや
り方や、「ふ~ん、いいんじゃない?」とまるで
他人事のように接するのではなく、そこで自分の
できること、教会のなすべきことを聖書を通して
イエス様に聞き、学び直す姿勢が必要なのです。
 さて、本日の福音書で、イエス様のことを「人
の子」と表しています。あれ?イエス様は「神の
子」でしょう?と思われるでしょうが、ネタバレ
をしてしまいますと、「人の子」も「神の子」も、
聖書においてはどちらも意味は同じです。
 ある資料によれば「人の子」というのは「人間」
を意味するイスラエル地方の慣用句で、聖書に
100回以上出てくるうち、ほとんどの場合が「人
間」を意味する文脈で用いられているそうです。
 人間は神様に愛され、神様に似せて作られたの
で「神様の子ども」です。とは言え、人間は決し
て神にはなれない、という考え方が「人の子」と
いう言葉の中に込められていると言われています。
 こうお話ししますと、イエス様がご自分のこと
を「人の子」とおっしゃった意味がますますわか
らなくなるかもしれませんが、「人の子」という
言葉が登場する音でも有名な旧約聖書の「ダニエ
ル書」に、こんがらがった謎を解くヒントがある
ようです。
 ダニエル書の主人公であるダニエルは7章13
節から14節に預言を書き記しています。「見よ、
人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を
経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方
に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国
語の者たちがことごとく、彼に仕えることになっ
た。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがな
く、その国は滅びることがない。」
 つまりダニエルは、未来に神から権威と御国を
授かる支配者は「人の子」、つまり人間の姿を持
っている、と表したのです。
 ここについて詳しくお話しする前に、この主人
公ダニエルはどういう人物かと言いますと、ユダ
ヤ人として神様への熱い信仰を持ちながらも、異
国の地で今のわたしたちから見ても邪悪で淫靡な
異なる宗教を持つ王様に仕えていました。それに
は悲しい理由がありました。
 紀元前500年代の終わり頃、イスラエルの国が
バビロニア帝国との戦いに敗れて滅ぼされた後、
主だった人材はバビロニアの労働力として捉えら
れ、連れていかれたのです。ただ、バビロニアは、
連れてきたイスラエルの人々を使い捨ての労働力
のように扱うだけでなく、優秀な人物は積極的に
登用し、国の政治に参加させました。
 人間の集団、組織というのは、志した当初は仲
もよく、互いに理解し合いながら理想に燃えてい
ますが、利益が上がってくると、自分の主張を通
すために宗教的な力を悪用してでも、自分が組織
のトップになろう、と見苦しい内輪揉めが起きる
ことも多くあります。結果として裏切者が現れ、
クーデターが起き、組織が崩壊することになりか
ねません。
 そこで必要になってくるのが、有能な新しい血
なのです。ここに登場するダニエルは、イスラエ
ルから連れてこられた捕囚の中でもひときわ優秀
な若者だったので、王様に信用され、政治の中枢
を担い、イスラエルの神様への信仰を容認された
のです。
 ダニエルはどんな時も祖国のことを忘れず、い
つの日か再び神様を中心とした国が起こされるこ
とを祈り求め、その信仰は常に堂々としていまし
た。そのせいで命を落としそうになったこともあ
りましたが、神様は彼を守り続けました。
 そして神様は、そんな信仰深いダニエルに夢の
中で語りかけ、遠い未来に「人の子」のような方
が悪者どもを滅ぼし、神の民と共に地上に神の国
を実現させてくださる時が来る、と教えてくださ
ったのです。
 さて、ここまで読めば、新約聖書を知っている
私たちは、ダニエルが見た「人の子」のような方
とはイエス様であるとわかるのではないでしょう
か。イエス様は神様でありながら、弱さを持つ人
間となって私たちの間に生まれてくださり、大い
なる力を封印して苦しみの中を歩み、罪を犯した
人間の気持ちや差別される人々の気持ちさえを理
解してくださったのです。言い換えるならイエス
様は「神であり、人である」お方です。このよう
なお方は後にも先にもイエス様しか存在しません。
 そこで本日の福音書に目を向けるのですが、こ
こでは一番弟子のペトロが「あなたこそメシアで
す」と告白する場面です。ペトロの信仰はすごい
なあ、と思われがちですが、当時の「メシア」と
いう言葉は、「正しい政治を行う理想的な王様」
という意味で使われており、ペトロはイエス様を
神様として捉えるのではなく、「政治的圧力から
自分達を解放してくださる新しい王様」という意
味で使ったと思われます。
 ただ、イエス様は、弟子たちが「本来のメシア
とはどういうものか」理解できていないことがわ
かっておられましたから、改めてご自分が多くの
苦しみを引き受けて十字架で死なれることをお話
になったのです。
 ところがペトロはイエス様に社会的成功をして
ほしいと心から思っていましたから、そのお話を
遮り「そんなことがあってはならない、あなたは
何を言ってるんですか」と諌め始めたのです。
 ペトロは敬愛するイエス様が苦しみを受けるこ
とや、虚しく排斥され殺されることなど否定しよ
うとしました。しかしイエス様は、その道を通ら
なければ、神の国が実現しないことを誰よりも分
かっておられました。たとえ思いやりの心からの
発言であっても、自分の勝手なメシアのイメージ、
強い方、成功者、王様、といったイメージをイエ
ス様に押し付けるなら、この世から救いを遠ざけ
てしまうことになってしまうのです。だからこそ
イエス様はペトロを厳しくお叱りになったのです。
 これは私たちキリスト教の組織や教会にもそっ
くり当てはまります。聖書を通してイエス様の御
心を学ぶ機会があるにもかかわらず、それを蔑ろ
にして、「境界とはこうあるべき」という自分の
思い描く善意の行動を優先するなら、教会の内部
は崩壊していきます。
 私たちの教会は今弱体化しています。キリスト
教を学び牧師を生み出すルーテル学院大学も同じ
です。来年度からは募集を掛けず、今の在校生が
卒業したら、もぬけのからになるのではないかと
いう、組織としては危機の時代、信仰の危機の時
代がもはや突入してしまったのです。
 このような事態に陥ったということは、私たち
はどこかで間違ってしまったようです。自分達が
勝手に作り出したキリスト教のイメージを垂れ流
し、安易に救いを宣べ、お手軽なヒューマニズム
に流れ、信仰には苦難も迫害もないというメッセ
ージを伝えることは、神様の御心の本意ではあり
ません。
 それは何よりイエス様のお覚悟を否定すること
に他ならず、あの時のペトロと同じ失敗を繰り返
しているのです。
 キリストに従う時、多くの人々から排斥され、
罵られることもあり、社会的から疎んじられるこ
とは確かにあるのです。だからこそキリストの体
である私たち一人一人、主イエスによって集めら
れたものは神様からの導きを願い求めるのです。
祈りを重ね、知恵を求め、救いが与えられること
を信じ続けるのです。
 このような時代にイエス様によって選ばれて、
召された私たち一人一人は平凡な人間に過ぎませ
んが、神様に作られ、キリストに招かれ、人生を
かけて従う「神の子」の集まりでもあります。
 ダニエルがバビロンの地で祖国復活の幻を与え
られたように、信仰によって罪に染まった若い命
が再生できることを信じ、教会がやらねば誰がや
るんだという気持ちをもって、キリストに従い、
信仰に導く道を歩んで参りましょう。

2024年9月1日日曜日

9月8日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝のご案内

 諏訪教会の礼拝は、毎週日曜日午後時から始まります。

わたしたち諏訪教会は
いつでもあなたをお待ちしています










つらいことがある方や、誰かに話を聞いても
らいたい方、このページの下の「コメントを
投稿」にご連絡ください。秘密は守ります。
お電話を希望する方は、
090-6461-5960(牧師直通)です。
名乗っていただかなくても大丈夫です。
キリスト教の信仰をお持ちでない方でもかま
いません。










★ 主日の祈り

恵みの神様。

あなたはいつの世でも、病いを健康に、死を命に

造り変えてくださいます。

一つになって、あなたの約束を全世界に宣べ伝え

る民となるために、私たちと共におられるあなた

の力に目を開くことができますように導いてくだ

さい。

救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン





(旧約聖書)イザヤ書

       35章4節~7                                             

(新約聖書)ヤコブの手紙 

       2章1節~17節  

(新約聖書)マルコによる福音書    
       7章24節~37節

このかたのなさったことはすべて、すばらしい。
耳の聞こえない人を聞こえるようにし、
口の利けない人を話せるようにしてくださる。










「 周りの人々のおかげ 

          浅野 直樹 牧師


  今日の福音書の日課は二つの物語からなってい
ます。一つ目の物語は、よく知られた信仰深い
女性の物語でした。しかし、よくよく見ていき
ますと、両者ともに奇跡物語、癒し物語でも
あることが分かります。しかも、ここで両者に
共通しているのは、いずれにしても本人が願い
出てのものではありませんでした。他者が
最初の物語は母親がですが、母親・近親者か
「人々」かの違いはありますが、本人以外、
つまり「周りの人々」のおかげだったわけです。
 私がまだ若い頃、10代後半か20代初めの
頃お世話になりました宣教師の先生に久しぶり
にドイツでお会いした時に、こう言われたこと
を今でもはっきりと覚えています。「浅野さん。
変わりましたね」と。その先生だけではありま
せんが、私の初期の信仰生活はこれらドイツ人
宣教師の先生方に随分とお世話になりました。
最初にお世話になったのは、女性のドイツ人宣
教師です。今、牧師の立場になってみるとよく
分かることですが、随分と扱いづらい若者だっ
たと思います。15歳、ただでさえ思春期真っ
只中。自分の生い立ち、自分の人生に悩んでい
た当時は、死ぬことばかりを考えていたくらい
ですから、誰が見ても「暗い性格」が印象的だっ
たでしょう。しかし、それでも、若い人が教会
を訪ねてくることは嬉しいことです。きっと私
のことも喜んでくださったに違いない。しかし、
会話もトゲトゲしくつっけんどう。愛想もない。
何考えているか分からない。それなのに、なぜ
か毎週礼拝には通ってくる。どう扱ったらいい
か、途方に暮れていたと思います。しかし、
そんな生活も数ヶ月間。今まで熱心に通ってき
ていたと思っていたのに、急に来なくなってし
まった。もちろん、私としてはそれなりに事情
と言いますか、思うところがあった訳ですが、
その先生からしたら「訳分からん」となってい
ても不思議ではありません。とってもやりづら
かった人間だったと思う。しかも、教会に行か
なくなってしまった私を案じて、辿々しい日本
語の手紙さえ書いてくださったのに、私は「も
う教会に行くつもりはない。私のことなど忘れ
てくれ」と送り返す始末。先生にとっても苦い
思い出となったでしょう。
 そんな私も色々とあって教会に戻っていった。
先週も言いましたように、当時としては自分の
意志・選択だったと思っていましたが、神さま
が首根っこを捕まえて離されなかった訳です。
だから、なんとか戻ってくることができた。そ
の時に教会にいたのが、先ほど言いましたドイ
ツで再会した先生でした。しかし、人間という
ものは、そんなに簡単に性格が変わるわけでは
ない。相変わらず暗い、何考えているか分か
らない、心を開かない、礼拝には来るけれども
他とは一切関わることなくすぐに帰っていって
しまう、そんな訳のわからない青年。それが、
数年後、牧師となってドイツで再会することと
なった。先生の「浅野さん。変わりましたね」
と言われた言葉も頷けます。
 私はずっと自惚れてきました。人生について
も、また信仰生活についても。自分で選び取っ
てきた、自分で何とかしてきた、他の人の手は
借りなかった、と。確かに、そう感じさせる面
がなかった訳ではない。私の親は「放任主義」
を公言していた人ですので、あまり私に手をか
けることはしなかった。親の名誉のためにいっ
ておきますが、決してネグレクトということで
はありません。必要なことはしてきてくれてい
たと思っています。しかし、私が欲している時、
求めている時、期待している時、答えてくれな
い、共にいてくれない、助けてはくれない、突
き放すような言動、といった印象を幼少期より
重ねてきてしまったのも事実。もちろん、人の
親となった今では、当時の親のことも、その思
い、事情なども多少なり理解できるようにはな
りましたが。信仰面でもそうです。特に宣教
師の先生や牧師、あるいは教会の仲間に、具体
的にこういったことをしてもらった、という記
憶はほぼない。だから、先ほど言いましたよう
な自惚れ、人の手を借りずに、自分の力で、と
いった印象もあながち間違ってはいなかったと
思います。しかし、そんなことはありえない訳
です。人が一人で生きていくなんてことはあり
えない。たとえ本人の自覚がないとしても。そ
れは、親となって、教会員となって、牧師と
なって痛いほどわかる。もちろん、伝わらない
ことも多くある。至らないと思うことも多々
る。でも、それでも、たとえ小さくて、あまり
に小さくて届かないような思いであったとして
も、その人を思いやる心はある。その人を案じ
る思いはある。その人のために祈る事実がある。
きっと私を育ててくれた親も、また、先ほどの
宣教師たちも、いいえ、私の人生に関わってく
れた多くの人々も、そうだったのだろう、と、
今では心から感謝しています。まさに、周りの
人々のおかげで、今の私がある。
 「汚れた霊」に取り憑かれていたと思われた
少女は、自分ではイエスさまのところに行けな
かったのです。だから、お母さんが行ってくれ
た。お母さんがイエスさまに掛け合ってくれた。
だから、癒していただけた。「耳が聞こえず舌の
回らない」人も、自分だけではイエスさまのと
ころには行けなかった。たとえ思いがあったと
しても。それを助けてくれたのは、周りの人々。
家族だったのか、親戚だったのか、友人だった
のか、近所の人だったのかは分からないけど、
どれほど深い関わりのあった人ではないのかも
しれないけれども、でも、この人に同情して、
イエスさまならばきっと良くしてくれるだろ
うと思った・信じた人々によって、この人も癒
していただいた。それもまた、今日の御言葉が
伝えている紛れもない事実です。
 確かにそう。私たちは周りの人々のおかげで
今の私たちがある。それは紛れもない事実。感
謝すべきこと。でも同時に、私たちの周りにも、
私たちを必要としている人々がいるはずです。
娘のことを心から愛した母親のように。何がな
んでも、どうしてもイエスさまのもとに連れて
いきたかった人々のように、私たちも
 この母親。最初に言いましたように非常に信
仰深い人だと考えられています。今日のマルコ
には必ずしも明記されていませんが、平行箇所
でありますマタイではこのように記されている
通りです。マタイ15章28節、「そこで、イ
エスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信
仰は立派だ。』」。では、なぜそのように評価され
たのか。諦めなかったからです。最後の最後ま
で食い下がったからです。ある方は、この女性
はイエスさまを打ち負かした、とさえ言います。
イエスさまとの論争に勝利したのだ、と。
 この女性は「シリア・フェニキア」の生まれ
で、ギリシア人だと言われています。つまり、
ユダヤ人からすれば異邦人です。そして、ご存
知のように、当時のユダヤ人は異邦人を見下し
ていました。犬呼ばわりするほどに、です。い
わゆる、「犬畜生」です。ですから、この女性
が娘を助けてください、と必死に懇願している
にも関わらず、イエスさまがこのように語られ
たのも、そういったことを連想させるわけです。
「まず、子供たちに十分に食べさせなければな
らない。子供たちのパンを取って、小犬にやっ
てはいけない。」。もちろん、そうではないでしょ
う。ここで言われている小犬は、先ほどのよう
な蔑視としての犬畜生とは違うからです。愛玩
犬、ペットとも言われる。ある方は「ワンちゃ
ん」という愛称だとも。そうかもしれません。
また、確かにここで女性の願いが拒まれている
ようにも感じられますが、「まず」という言葉に
も意味がある、とも言われます。つまり、優先
順位です。イエスさまは必ずしもこの女性が異
邦人だからといって拒まれているのではない。
しかし、優先順位がある。まずはユダヤ人が
優先されるべきであり、その後に異邦人の番
回ってくるのだ、と。確かに、そうかもしれ
い。しかし、この言葉を聞いた女性は、そんな
ふうに冷静にイエスさまの言葉を分析できたの
だろうか。自分の願いが拒絶された、と思わな
かっただろうか。しかも、自分の命さえも身代
わりにしてもいいとさえ思っている愛する我が
子・娘を、犬・ペット呼ばわりするとは。腹を
立てても、なんらおかしくない。しかし、この
女性はそうしなかった。むしろ彼女はより謙っ
て、こう言いました。有名な言葉です。「主よ、
しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいた
だきます。」と。イエスさまのあの言葉を批判・
非難することも、怒ることもしなかった。なか
なかできることではない。だからこそ、この女
性の信仰は素晴らしい、と言われる。
 確かに、そうかもしれません。しかし、これ
はただこの女性の信仰が讃えられるようなこと
なんだろうか。私には、そうは思えない。ここ
にも神さまのなんらかの不思議な働きがあった
としか思えない。聖霊の働き、お導きがあった
としか思えない。そうでなければ、私たちには
これほどの深い、強い信仰は持てないのだ、と思
う。
 この母親にあったものは、娘に対する愛情で
す。なんとしてでも娘を助けたい、との思いで
す。そして、イエスさまにはそのお力がある、
との確信。そんな素直な・素朴な思いでイエスさ
まと正面からぶつかっていった。逃げないで、苛
立たないで、思うようにならないと腹を立てない
で、ただ娘を助けたい、イエスさまならそれがで
きる、その思いだけで。そこに聖霊が働いてく
ださったのではないだろうか。
 私たちにできることは、小さなことです。取る
に足りないことです。この人をなんとか助けられ
ないだろうか。イエスさまならそれが可能ではな
いだろうか。たとえ、この女性が経験したように、
いっときは拒絶されたと思うようなことがあった
としても、願いを聞き届けてはくださらないといっ
た絶望感を味わうことがあったとしても、それで
も、助けたい、イエスさまならできる、イエスさ
まならその思いに答えてくださる、ただそれだけ
の思いで、粘り強く、諦めないで、へりくだっ
て、なおも懇願する。そんなことくらい。親子の
ようなそれほどの親密な関係ではなくても、知っ
ている人が辛い思いをしているなら、なんとかそ
の人にもイエスさまの救いが与えられるように、
と手を差し伸べること。それくらいのことしかで
きない。出来なかった。宣教師たちも、牧師たち
も、信仰の仲間たちも。でも、そんな周りの人々
の思いをイエスさまは汲み取ってくださり、癒し
の業を、救いの業を成し遂げてくださった。その
おかげで今の私たちがある。それくらいのことな
ら、私たちにもできる。そんなことを今日の日課
から教えられるように思います。